善和八幡宮

インデックスに戻る

記事作成日:2015/5/17
善和(よしわ)八幡宮は大字善和字東吉原にある善和地区の氏神である。
写真は参道正面からの撮影。[2008/11/3]


位置を地図で示す。


善和という地名の項目でも詳述しているように、善和八幡宮は車地と井関における境界争い(間地論争)の終結において独立した善和宰判を置いたことより明治3年3月に創建された。[1]

当サイトでは基本的に神社関連を物件として扱わないが、善和八幡宮には幼少期からの個人的関わりがあり、また地名としても特筆すべき要素があるので個別記事化している。成り立ちや歴史については[1]をはじめ厚東区を語るどの郷土資料にも詳細に記述されているので、ここでは後述する説明板の撮影で代えている。以下は一般には記載されない部分について補完的に記述する。
《 アクセス 》
上記の地図で示されるように、善和八幡宮は国道490号下善和バス停から善和川、山陽本線を渡る形で参拝道が伸びている。参拝道は石段を含むので徒歩でしか通行できない。

車で訪れる場合は一般には国道490号を善和橋バス停まで下り、押しボタン式信号機のところで右折し折り返す形で市道善和城生原線を進む経路となる。
写真は善和橋を記事向け撮影したときのもの


この道沿いに進めば善和八幡宮の駐車場が右側に見えてくる。その先には石土路側からの鳥居がある。
市道は善和牧場や善和園に向かう道でもある。
春季例祭ではこの写真のように市道沿いに車を停める来訪者もある


下善和バス停から歩けばかなり近いので、地元では遠方からの来訪者や例祭などで物資の搬入搬出が必要な場合は車で上記市道を経由し、祭り見物など参拝のみが目的の場合は参拝道を歩くという使い分けがなされている。


参道の詳細については以下の記事を参照。
山陽本線の東吉原第1踏切を含んでいる
派生記事: 表参道
《 境内 》
境内にある本堂やその他のものをまとめて収録している。


本堂の内部。
人物が写り込まないよう配慮したため変なアングルになっている


中央に掲げられた扁額。
こういうのを撮影するのは些か畏れ多く憚られるのだが郷土理解の点に鑑みて…


代々受け継がれたもので傷みがかなり目立つ。傷んだまま放置されていることの指弾ではなく、ここで重要なのは上部に記載されている「郷社」の文字である。
善和八幡宮は山口今八幡宮から分霊を勧請して創建したとされる。その3年後には郷社に列せられている。[1]郷社とは明治維新後に制定された神社の等級制度で、第二次世界大戦以後は廃止されたものの現在でも神社の持つ格の目安とされている。郷社は一般的な村社の上位ランクとされる。[2]現代は鄙びた八幡宮と思われているかも知れないが、それほどの重要性を認識されていた。

境内の一角に善和八幡宮の由来が書かれた説明板がある。


善和八幡宮の概要についてはこの説明板で充分足りるだろう。


なお、説明板では間地の読みとして「カンヂ」が与えられているが、地元在住民を含めて現在では「かんち」と濁らず読まれることの方が多い。[3]

開闢二百年記念の石碑。
近接画像はこちら


レンガ積みの古めかしい倉庫。
同様の倉庫は東岐波の三神社にもある。


神輿の格納庫は別に用意されていた。


以上諸々の殆どのものはこのたび記事向けに撮影している。学童期に善和八幡宮を訪れていたときは祭りのみが目当てだったので、これらの石碑などは存在すら頭になかったようである。

一連の撮影後、祭りで人だかりがしている方へ行ってみた。訪れた時刻が遅かったため祭りの出し物が殆ど終わっていた。以下の例祭に記述している。
派生記事: 春季例祭
善和について
情報この項目は記述内容が多くなったので地名カテゴリの独立記事に移動されました。記事の移転先は項目タイトルに設定されたリンクを参照してください。
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」p.205,「二俣瀬マップ」(二俣瀬区まちづくりサークル)

2.「Wikipedia - 近代社格制度|諸社

3. 特に「間地論争」においては「かんちろんそう」と呼ばれるのが一般的である。地元在住民も「かんち」と呼ぶようだが、ただし現在は間地論争について語られること自体が少ない。

ホームに戻る