善和八幡宮・派生記事

インデックスに戻る

現地撮影日:2015/5/10
記事公開日:2015/5/17
ここでは善和八幡宮に付随する詳細項目や派生的記事をまとめて収録している。
当サイトでは一般には神社関連を物件として扱っていないが、善和八幡宮は個人的関わりがあり、地名としても記述すべき要素があるので総括記事を作成し、個別項目を本編でまとめている。
《 表参道 》
善和八幡宮の参拝道は国道490号下善和バス停から善和川、山陽本線を渡る形で伸びている。
国道の分岐部分には現在も善和八幡宮を案内する古びた標識が出ている。


以下は2015年に行われた春季例祭のときの写真を中心に、過去撮った写真も適宜加えて編集している。

参拝道は石段を含むので徒歩でしか通行できない。しかし現在でも吉原から八幡宮へ行くには最短距離なので、春季例祭では参道の石段が始まる場所に車や自転車を停めて歩いて行く人が多い。


参道の最初は石段であり、山陽本線を踏切で渡る。
参照の便宜上、インデックスをつけておく。
【 東吉原第1踏切 】
最初の石段を登ると山陽本線の踏切にさしかかる。東吉原第1踏切で、警報器も遮断機もない第4種踏切となっている。


前後の石段からも分かるようにこの踏切は昔から第4種だった。参拝道の途中には昔も今も民家は一軒もなくこの踏切を人が渡るのは善和八幡宮の参拝時以外にない。したがって春季大祭の今日ではこの踏切を渡った人が数十人くらいあるものの普段は一週間の間に通った人がゼロということが起こり得る場所だ。
山陽本線がこの地を通されたのは明治期で、善和八幡宮が建立された数十年程度のタイムラグでそれほど年月は経っていない。現在の石段は線路を挟んで完全に勾配を変えられていることから、この参拝道自体は当初から存在していて普通の山道のようであったものが踏切改修後に現在の石段となったのかも知れない。
もうこの辺りの詳細な事情を知る人は地区内にも居ないだろう

踏切を渡った後に石段の上から振り返って撮影。
すぐ下を善和川、国道490号が通っている。左側に下善和バス停が見えている。反対側へ伸びている道が市道吉ヶ原線だ。


2015年の春季例祭のとき通過列車の動画を採取できたので、追加で乗せておく。

注意メイン記事の可読性を保つため派生的記述分を既定で非表示にしています。お読みいただくには「展開する」ボタンを押してください。

善和八幡宮の春季例祭以外で踏切を渡ることはなかったが、それ以外で近辺を訪れることはあった。この踏切前後の山陽本線の斜面には4月下旬から5月にかけてよくワラビが出る。学童期はわざわざ採取はしなかったが、恩田から野山へ引っ越して来た当時から何度も採りに行っている。雨の降った翌朝が狙い目で、地元在住民もよく知っているらしく出遅れると摘み取られた後のワラビの茎ばかりが残っているのをよく目にした。

踏切の話題が更に増えることはないと思うので引き続き参道の話を…

一の鳥居。
例祭に向けて御幣と綱を更新したばかりなので真新しい。


一の鳥居の足元に宇部道路改修記念と称された石碑が設置されている。


この宇部道路の意味するものは参道ではないだろう。現在の国道の前身である南北道路を指すのではないかと思うが、詳細を調べておらずよく分かっていない。この場所に据えられている意味も不明である。
親父もこの石碑の存在に気づき何を示すものだろうと訝っていた

コンクリート路の開始地点近くに古い石灯籠がある。
文字は何も記載されておらず誰かが寄進したものだろうか。これも時期など詳細は分からない。


石段は一の鳥居まででそこから先は善和八幡宮まで車でも往来できる幅の山道になっている。かつて赤土の目立つ未舗装路だったが、土砂が流れること、湧水があるためぬかるんで車が入ると轍掘れが酷くなることからコンクリート張りになった。車だと大変な遠回りになるので、善和八幡宮側からここまで車を回しておき、石段を歩いて物資を搬入搬出する経路としても使われている。

コンクリート張りの先はアスファルト舗装となっている。
この舗装も近年のものである。
グレーチング付きの横断側溝の布設までなかなか丁寧なことをやっている


地形的にはこの近辺は善和川のある側が急峻で八幡宮のある側はややなだらかになっている。山陽本線を渡って石段を登ればお宮まで尾根伝いの道である。道の両側は雑木林なので眺めは利かない。

舗装路の端でやや広い場所に出会う。
例祭のときにはこのように立派な幟が立てられる。広場の一角には八幡宮につきものな台座がある。


御旅所である。善和八幡宮のは正方形をしている。
例祭の神事では本殿からここまで神輿を担ぎここへ安置する。ここから次の鳥居までは周辺に縄張りに御幣が結ばれている。


本殿に対して御旅所が吉原集落に向かう側に設置されているのも今思えば深遠な示唆があるようだ。御旅所は本殿を出発して人々が神様の向かって頂きたいと願う方向に設置されるものだからだ。

八幡宮とは無関係だがここから次の鳥居へ至るまでの途中、右側に斜面を降りる道のような経路がある。


これは中電の鉄塔に至る索道で何処にも出られない。恐らく私有地の経路だろう。鉄塔の下には後述する美しい溜め池の存在が知られる。参道において分岐路のように見える場所はここだけなので、結局踏切を渡って八幡宮まで一本道ということになる。

二の鳥居。ここにも僅かな石段がある。もちろん以前は石段の前後とも未舗装路だった。
一の鳥居まで八幡宮側から車が往来できるようにこの鳥居を避けて車のタイヤによる踏み付け道ができているのが如何にも現代風だ。


例祭のときは鳥居をくぐったこの辺りから境内で繰り広げられる踊りや歌などが聞こえるようになる。
境内に向かう参道は再び石段を含むので、車はその手前の駐車場からここへ入ってくる。


境内に到着。
ここから先は祭りの参拝者の姿が目立つので参道の写真としてはここまでにしておいた。


時系列の説明も少々加えると、上の写真を撮ったのは午後2時過ぎだった。プログラムは既に大半が終わっていて最後の抽選会と餅撒きの準備という状況だった。
午後3時で終わるので早めに行かないと後の祭りになるのだが…いつも時間を忘れてしまう
《 石土路側からの参道 》
車で善和八幡宮に到達する市道沿いにも同等の鳥居を持つ短い参道がある。


個人的関わりの項目でも述べているように常に表参道を歩いていたので、この市道沿いの道はまったく馴染みがない。学童期には八幡宮の裏側に道が通じていることも知らなかったようである。

成り立ちは表参道側にある鳥居と同程度に古い。
この方面へ訪れた機会に撮ったのみで写真もこの一枚しかなかった。[2008/11/3]


市道はこの参道部分を避けて低いところを通っているので、現在はここを歩く人はあまり居ないようである。
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」p.205
《 春季例祭 》
ここでは現在も実行されている春季例祭について記述している。昭和中後期に私が接してきた例祭については個人的関わりの項目で別途記述している。写真は2015年の開催時のものである。
プライバシーポリシーに鑑み、被写体の人物が明白に特定できない距離からの撮影画像のみに限定している。

春季例祭は毎年5月13日とされている。ただし近年は神事に続いてふるさと祭りを開催する兼ね合いからもっとも近い日曜日に開催日を移動し、具体的な日にちは区内の会合により決める流れとなっている。
午前中は例祭の神事が執り行われる。近年は宮司の常駐する寺社が少なくなっており、善和八幡宮も宮司は琴崎八幡宮から招かれ区内在住者が分担してそれぞれの役を取り持つ。[要確認]私は地下の者ではないので個人的に役を受け持ったことはないし、神事そのものもまだ見たことはない。

午後からはふるさと祭りが開催される。境内には数基のテントが設営されうどんなどのバザーも提供される。


ふるさと祭りのプログラム状況はすべてを確認はしていないが、地元在住者によるカラオケや踊り、マジックショーなどが行われる。並行して祭りの最後に抽選が行われるくじがあり、一定時間内に訪れたすべての人は無料で参加できる。

すべてのプログラム終了後に餅撒きが行われる。
ステージ側、本殿の佐敷からなど数方向より袋入りの餅と飴が撒かれる。


餅撒き終了後に抽選会が行われる。近年は当選者の番号のみ読み上げ、読み上げられない番号は外れ扱いとなっている模様。当選賞品の最上位は一輪車(いわゆるネコ車)となっていた。
景品を含めた祭りの開催費用は自治会費で賄われており、善和区民は祭り開催の費用を含めて年間一万円の区費を支払っている。[1]
出典および編集追記:

1. 善和地区在住民からの聞き取り情報による。かつてはもう少し低額だったのだが善和地区全体の戸数が減った分だけ区費が上昇している。この額も近年まで5千円の年2回払いだったものが最近一万円の一括納付となり負担が重いという声が聞かれる。後述する集会所の件もあり高い区費を払うだけのメリットがないと自治会から脱会する戸が現れ始めている。
《 その他の話題 》
善和八幡宮の南側は大きな沢地になっている。


この沢地に灌漑用の溜め池が存在する。名称は分かっていない。
大変に美しい溜め池であるらしい[1]のだが、汀まで接近する道は既に存在しておらず詳細は分からない。
鉄塔の索道を介して接近を試みたものの辛うじて水面が見えるだけだった
出典および編集追記:

1.「FB|2015/5/7のタイムライン」に対する読者コメントによる。(要ログイン)
《 個人的関わり 》
善和は幼少期にしばしば従兄弟の家へ宿泊を伴って遊びに行っていた想い出の地であり、私が現在の市街地(しばしば「アジト」と呼ばれる)へ活動拠点を移す以前の生活拠点(しばしば「野山」と表現している)であった。
善和八幡宮で春期に開催される祭りに行っていたこと、現在も親が住んでいて八幡宮での行事にかかわっている。以下、それらの個人的な記録を遺しておく。
【 昭和中後期の春季例祭 】
学童期は大抵前日の土曜日午後から従兄弟の家へ行き、一泊して日曜日の祭りを見物するという流れだった。善和八幡宮までは車で行けるが、善和橋付近まで下って折り返す遠回りの道なので私自身は車で訪れたことはなく、昔から常に本編で紹介した参拝道を歩いていた。はじめに例祭としての神事があり、続いて集落の人たちが集う祭りが行われたのは現在と同じである。特に印象的で魅力があったのは誰でも参加できる一種独特なくじであった。私の学童期も殆どこれが目当てで祭りに出かけていた。舞台を使ってのカラオケや踊りの披露が行われるのはずっと後年になってからである。

祭りに来た人は受付に行って番号の書かれた木の札を受け取る。番号は自分で覚えておくか別途控えの番号札を渡されたと思う。それから各人で木の札を大きな樽のような入れ物へ投じる。このくじは善和区内の参加者でなくても誰でも無料で参加できた。
くじの抽選は祭りの最後に行われ、クライマックス的な要素があった。境内の中央にやぐらのような台を拵え、先ほどの各人が投じた木の札が入った樽が載せられる。私は下の方から観察していたので詳細は分からないが、その樽はガラポンの如くハンドルを動かすことで中の木の札が混ぜられる仕組みになっていた。くじの抽選を行う者は台の上へ乗り、樽が回された後に上部の蓋を開けて銛を突き刺す。銛を引き上げて刺さった木の札を外して横に控える者に渡す。そして拡声器を持った人が番号と景品を読み上げるという流れであった。
末等に相当するのはラーメン1袋だった。したがってくじの読み上げでは「××番、ラーメン」がしばしば続いた。参加が無料な上に外れがないのが魅力的で、何が当たるだろうというわくわく感があった。最初か2回目の祭り参加時で土間を掃く手ぼうきが当たったことがある。価格的にはラーメンとそれほど変わらないのだが、当たりを引いたというのが結構嬉しかった。その土間ぼうきは恩田に居た頃、玄関の片隅に置かれて土間部分を掃く役割を果たしてくれた。他に上位の景品には炊飯器や自転車などもあったと思う。

祭りの準備は地区の役として輪番的に回っていたらしく、従兄弟がやぐらに上がって銛で突く役になったのを見たことがある。このときは従兄弟も抽選役を引き受けるのが誇らしかったようで俺が当たりを引いてやるから祭りに遊びに来いよと誘われている。残念ながらこのとき私のくじの結果は外れ(ラーメン)だった。
イベント性のある興味深い抽選方式だったのだが、時間がかかるのと準備が大変という理由で現在はこの方式での抽選は行われていない。ただし地域住民以外でも無料で参加できることと番号札を読み上げるのは昔と同じである。
【 その他の行事 】
上記大祭の他に新年の参拝者を想定した下準備などがあり、地域在住者が輪番で担当している。野山では去年年明けの準備を担当していた。境内の定期清掃は年4回地元在住民によって実施されている。
【 集会所の問題について 】
善和地区には地域在住民が向けの集会所が存在せず、会合があるときは善和八幡宮に集まるという特異な状況となっている。本件は善和八幡宮の抱える問題ではないのだが、現在の状況を記述する。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

集会所の問題は本記事を作成する2015年現在でもなお解決されていない。

善和交差点は国道490号と県道2本のまみえる交通の要塞であり、国道の4車線化に伴い利便性が高まれば人口増加に転ずることが期待される。現状、交差点を中心に少しずつ新規の築造もみられる。しかし区内には未だにスーパー、金融機関、病院など現代の生活に必須な施設がまったく存在せず造られる予定もない。戸数が増加するならまだしも、現状では新規に集会所を造っても有効に利用されないかも知れないという懸念はあるだろう。

ホームに戻る