白岩公園・第五次踏査【序】

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現地踏査日:2013/3/31
記事公開日:2013/5/21
私はこの記事をかくまでに白岩公園を4度訪れた。このうち殆ど散歩目的で歩いた第四次踏査を除いて、いずれも例の書籍に掲載されなかった遺構も含めた新しい発見があった。
何処から何処までが白岩公園の範囲という明確な境目が判然としないのですべてを完全に調べ尽くせていた訳でないことは理解していた。それでも怪しいと思われる石段の先の平場や経路は複数回調査していたので、土砂や木の葉の下敷きになっている遺構は別として概ね主要なものは調べ尽くしたと考えていた。

一連の成果は速報として地域SNSに先行公開し、驚きをもって迎え入れられた。まとめ上げたマップを参考にして現地を訪れた方が複数名あった。私は荒れ果てた山野歩きを厭わない有志たちによって何か新たな発見があることを期待はしていた。しかし既に知られていたものに付随して新たな遺構が見つかったとか、小さな石碑が埋まっているのを見つけ出したとかの類だろうと予想していた。換言すれば、私としては新発見があるにしても精々その程度だろうとたかをくくっていたのである。

衝撃的な発見報告は、私が第四次踏査を終えたすぐ次の日にあるメンバーによって伝えられた。
今までに報告されていない大きな石碑と、
倒壊した木造の御堂が見つかった。
発見者は地域SNSメンバー所属で上中山がある藤山地区在住のK氏であった。彼は同地区に伝えられる遺構類に深い興味を示し、これまでにもいくつかの物件を報告している。私が最初に白岩公園の存在を提示したとき、それが自分の地区にありながらまったくその存在を知らなかったが故に強い関心を示した読者の一人であった。

K氏は発見した石碑や御堂を既に調査済みと思っていたのだろう。彼は深く考えることなしに白岩公園で観てきたものを地域SNSへ写真付きで淡々と掲載した。その記事に一番驚愕させられたのは他ならぬ私だった。

ブログはすべての記事が時系列に排列されるので探しづらく、しかも私たちメンバーが利用している地域SNSは来年1月末で廃止が確定している。
それ故に私たち有志が集まって「うべ地域SNS研究会」なるページをFacebookに立ち上げた
詳細な記録を遺すにはいつでも容易に参照できるホームページの記事に分がある。それには第一発見者であるK氏の写真が必要だった。彼は写真の提示に快諾してくれた。
以下の2枚はK氏の撮影による発見直後の状態を撮った写真である。

新たに発見された石碑。
非常に大きく、土台となっている大きな岩から落下し中ほどで折損された状態だった。


その近くで発見された御堂の残骸。
柱が倒れ瓦が飛散し石仏のみが露わになっていたという。


最初私が一連の写真を観たとき、御堂は白岩公園関連ではないかも知れないと感じた。設園から既に80年近く経過しており、当時の木製構造物が写真のような形で遺っているとは考えられないからだ。角材が原形をとどめていることから、仮にこの御堂が白岩公園関連であったとしても後年改修されたもので、倒壊したのは少なくとも平成時代に入ってからだろうと感じた。
しかし台座から落下した形で発見された石碑については、白岩公園が造られた当初からのものと考えざるを得なかった。後で詳細を述べるが、その石碑には設園当時の世相や思考を反映する特質を有していたからだ。

私は自分がこれほどの巨大な物件を見逃していたことを不思議に感じた。そこでK氏に一連の物件の発見場所を尋ねたところ、彼は次のような簡略化された地図を示してくれた。


私は一連の遺構が見つかった場所に二度驚かされた。それは「大自然」の巨岩や五重塔、法篋印塔があるメインの沢やピークからは小さな尾根一つ隔てた別の沢を遡行した場所に眠っていたからだ。

手書き地図は荒削りだが、既に4度現地を訪れている私には所在地を推測するのに充分だった。K氏の指摘した場所は、確かに今までの踏査において殆どノーマークだった。
無理もない。その場所へ到達する安泰な踏み跡が存在しないことを知っていた。近くまでは何度か行っていたのだが、藪があまりにも厳しく踏み跡の痕跡すら認められないため引き返していた。殆どの遺構が一つの沢と尾根に集中しているので、そんなに離れた場所まで白岩公園の遺構など存在しないだろうという決めつけもあった。
白岩公園を形容する語として、初めて「宇部のアンコールワット」と擬えたのはK氏であるが、同じく彼の発した「山全体が白岩公園」もまた真実であるほど広範囲に遺構が散在していたことになる。

これほど明白な遺構を提示されたなら、はからずも最近の”白岩公園火付け役”になってしまった私が看過しておくわけにはいくまい。大まかや位置や現地の状況を記録するため、第五次踏査に繰り出すこととなった。

記事化が著しく遅れてしまったが、実際の踏査は第四次踏査を遂行した翌々日のことである。気温が上昇すれば再び藪が勢いづき、蛇や不快害虫の心配がでてくる。
今度こそすべてを洗いざらい調べ尽くさなければならない。今やっておかなければ、次に藪を漕ぐ種の踏査が出来るのは再び寒くなる今年の秋口以降になってしまう…

これで完全に終わりというわけではないが、今シーズンは単独の集中的踏査はこの第五次踏査で最後になる。

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3月最後の日曜日の午後、私は満を持して白岩公園に向かっていた。利用できる時間と体力をすべて調査に充てたいという気持ちがあったので、第三次踏査のとき検証した成果を試すために今回初めて白岩公園の入口まで車で乗り入れた。

例の場所である。
帰りのことを思って車を転回させてある。


当然ながら既に車乗り入れに成功はしたのだが、車での到達はそれほど安泰なものではなかった。最後の民家の前を通るのは、元からその家へ出入りする車があるから気にはならなかったが、その先で常盤用水路を横断するところが最初の心配事だった。作業用の軽トラならまだしも、一般車両が通行するようにはなっていないので、自重で横断部分を損傷しないだろうか…という懸念があった。
常盤用水路は近代化産業遺産に指定されている…車乗り入れで破壊などしたらエラいことになる

水路に石が置いてある場所が白岩公園の入口だ。
ここに車の前半分を突っ込んで無事に転回することができた。


軽四で相応のスキルがあるなら、転回はそれほど難渋する作業ではなかった。しかし白岩公園に向かう入口の溝で脱輪する恐れがあること、元からこの場所自体が車を停め置いて良い場所とも言い切れないことから、一般には停め置きは勧められない。

さて、現地に向かう前に一箇所調べておきたい場所があった。
常盤用水路に沿うこの場所だ。


ここから入ったところに祠がある。
初回踏査時に常盤用水路へ沿って歩いていて見つけていた。


念のために調べておいたところ薬師如来の8番となっていた。


同様の薬師如来像は、初回踏査時でも下池の広場近くに見つかっている。
今から思えばこの8番の祠も同時期に設置されたのではないだろうかと思う。換言すればこの場所からして既に白岩公園の一部で、山全体が白岩公園という考え方にも符合する。

引き返すときも周囲を慎重に観察し、ちょっと気になるものを山側に見つけた。


この場所から眺めた山の斜面。
正面やや右側にちょっと太い木の幹が見えているのだが…


ズーム撮影する。
成形されたコンクリート基礎のようなものが幹の足元に見えている。


ズーム写真でも明白に見えるが、肉眼では更に明らかだった。等脚台形の側面を持ったコンクリート塊で、まさか自然の岩がこんな形をしていないだろう。かつて案内板が置かれていたとして、その基礎玉では…などと考えたくなった。接近してみたかったが、この場所は常盤用水路を挟んだ民家から丸見えで、まさか道もないこの藪の中へ入っていく勇気はなかった。

白岩公園と称される山野に今まで数多くの遺構を見つけてきた。しかしどういう訳か「この先が白岩公園」のような案内標識は未だまったく確認できていない。標識のようなものはかつて存在していたことは知られている。[1]今ほど荒れ果ててからは標識が撤去されたか、更新されないまま放置され自然消失したように思われる。一つくらい藪の中に発見されないまま遺っているものがありそうなものだが…

あまりこだわってもいられない。
まずは来た道を引き返し素直に白岩公園に向かった。


今やすっかりお馴染みになった「ボール橋」である。


K氏の提示してくれた地図によっておよその位置は理解していた。しかし目印に乏しい藪の中であり、最悪藪の中をさまよい歩きつつ結局到達できなかった…という事態も有り得る。そこでまずは自分の中で「この辺りの調査が手薄だった」と自覚される場所を目指して歩いた。

ここがK氏の手書き地図で提示された最初の谷の入口である。
メインの道と水路はここで左へカーブしているが、沢を登っていく踏み跡が観察される。


先人がチェックしたのだろうか…半分以上土に埋もれている石段の一部が見えるよう土砂が除去されていた。


ここに明白な道があることは自分でも認識していた。
K氏のマップ上に落とされた足取りによれば、一旦沢を渡って右岸側を伝い歩いたらしい。しかし道があるのは左岸側であり、その先にノーマークだった場所があった。沢を登り詰めれば先端部分を巻いて右岸側へ移れると踏んで、敢えて踏み跡の通りに谷の左岸を辿った。

踏み跡と沢との高低差が次第に開いていく。
この沢にも土砂流出防止のために拵えたと思われる石積みの緩衝池があった。もっとも道との高低差が大きくなっていてここから降りることは能わない。


更に急な坂を登ると、沢の先端部分を通すように高い石積みが築かれている。


石積みは沢のすべてを塞ぐのではなく、この場所で角が切り欠かれている。
人が通る道があったための構造だろうと考えている。


しかし進攻可能な道があるのもここまでだ。この石積みの上まで進んだところで踏み跡がかき消されている…それは前回の踏査でも分かっていた。


この石積みの上は平場になっていてかつては御堂などがあったのではと推測された場所だった。この先を追跡することは見送っていた。あまりにも藪が酷く安全に進攻できるとも思えなかったからだ。

石積みが沢を塞ぐように設置されているなら、その上の平場を伝って沢の右岸側へ移動できる。それと同時にこの平場で何か見落としているものがあるかも知れない。
突撃する藪はかなりきつかった。もっとも不快害虫の心配がないだけまだマシだ。今やっておかなければ来期までお預けだ…

覚悟を決めて藪への進攻を開始する。少しでも難易度が低い場所を見極めつつ強引に分け入ったのだが…
うぎゃっ…!!


さっそく来やがったか…sweat

藪のきつさは突入前から織り込み済みだった。足止めを喰らわせた最初のイバラを取り除きにかかったのだが、この場所でのイバラ攻撃は極めて凶悪だった。予想外の波状攻撃を仕掛けてきたのである。

(「白岩公園・第五次踏査【1】」へ続く)

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1.「ふるさと歴史散歩」P.130 には”白岩公園入口バス停から東へおよそ800m行った所の道端に藤山校区ふるさと運動部会が立てた公園入口の標識がある”と紹介されている。
白岩公園に向かう経路は複数あるので、他にも案内する標示板がありそうなものだが、現在のところそのようなものは一つも確認されていない。

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