蟻ヶ迫池

溜め池インデックスに戻る

現地踏査日:2021/1/3
記事公開日:2021/1/3
情報この総括記事は内容が古くなった旧版をコピーして再構成されました。旧版は こちら を参照してください。旧版の編集追記は行わず将来的に削除します。

蟻ヶ迫(ありがさこ)池は、小松原町1丁目の北側谷地の溜め池である。
写真は向山の東側斜面からの眺め。後述する堰堤切り崩し前の撮影。


位置図を示す。


航空映像でも分かるように、蟻ヶ迫池は北側に頂角を持つ二等辺三角形をしている。その形状から近辺の在住民からは「三角ダブ」とも呼ばれていた。[1]溜め池の名称はこの三角形領域に対する小字名の蟻ヶ迫に由来する。
《 概要 》
冒頭にタグを貼ったように、かつては周囲にフェンスが張られ接近できないため満足な写真撮影以前に詳細が殆ど分かっていなかった。後年西側丘陵部の造成と堰堤下を通る市道工事でアクセスが容易になり多くの写真が採取されたため、総括記事を作り変えている。以下の写真は道路工事が始まる前の撮影であり、現在の状況とは大きく異なる。

堰堤の中程に管理階段があり、その裏側に用水を取り出す樋門がある。
フェンス門扉は常時施錠されており入ることはできない。


余水吐は西側の端にあり、送水路はコンクリート施工されている。


三角形をした蟻ヶ迫池の底辺に相当する堰堤部や余水吐付近は、すべて有刺鉄線付きのフェンスが張り巡らされている。


他の斜辺に相当する部分はフェンスこそないが、東側の一部に民家が接しているだけで何処も急斜面になっていて溜め池に接近できる場所は皆無である。厳重なネットフェンスによる囲障から分かるように、蟻ヶ迫池では過去に子どもの水難事故が発生している。[2]なべて水難事故やゴミの不法投棄で問題が起きている溜め池は、囲障が厳重である。

現在では用水需要が皆無なため、水が溜まらないように樋門を開放している。地図では水色に塗られている領域がかなり広いが、実際の湛水面積はその4分の1以下である。沢の上流部は緑地のようになり、池の中には樹木が伸びている場所もある。堰堤に近い部分も湿地帯のようになっている。

地図では沢の上流部にひょうたん型の小さな溜め池がみられる。この池の堰堤部に向山と立山地区を結ぶ里道が通っているが、今では通る人が殆どない。
《 歴史 》
人工の溜め池であることは疑いないが、正確な築堤年および築堤者については資料がなく分かっていない。後年の工事により堰堤に接近可能となった折りには周辺を調べたものの、築堤や改築記念の碑は見つかっていない。

享保年間に制作された地下上申絵図には、未だ蛇瀬池が描かれていないながら既に二反田堤や蟻ヶ迫池が描かれている。
出典:山口県文書館 地下上申絵図


防長風土注進案には蟻ヶ坂堤 水面四反と記録されている。地下上申絵図にも「ありが坂」と書いておいて後から和紙に「ありがさこ」と書いて貼り付けている。このことから鵜ノ島開作初期は蟻ヶ坂堤だったことになる。蟻ヶ迫という名に変わった理由は不明である。

蟻ヶ迫池は旧宇部村エリアの西の端に位置し、藤曲村との境となる向山や鍋倉山に近接している。鵜ノ島開作は小松原近辺の丘陵部で仕切り、宇部本川により上流から運ばれる土砂を自然堆積させることによって干上がらせた後、小松原から旧宇部村の西の端までを2期工事として同様に開作したと考えられている。蟻ヶ迫池は蛇瀬池築堤までは主要水源、築堤後は補助池として機能したのだろう。

これは昭和30年代後半〜40年代初頭に撮影された地理院地図の航空映像である。
蟻ヶ迫池の特徴的な三角形の外周が明瞭なほど水が溜まっているだけでなく、北側にある補助池も見えている。


カラー映像となる昭和40年度版もほぼ同様だが、現在の航空映像では沼地のようになっている。このときまでに堰堤より南側に宅地が拡がり田が殆どなくなっている。
《 近年の変化と今後の状況 》
2009年に入ってから蟻ヶ迫池西側の尾根が広域に伐採され、造成工事が始まった。この近辺は市道浜中山線(計画線)のエリアであるため、市道工事が始まるものと思われたが、民間企業による宅地造成と判明した。伐採によりアクセスが容易になったため、工事現場が停まる休日に西側の丘陵部から蟻ヶ迫池を撮影している。溜め池の全容を撮影できたのはこれが初めてであった。

造成エリアが拡大するにつれて、蟻ヶ迫池の西側にあった墓地は引き揚げられ、里道沿いにあった境界石と思われる花崗岩も取り除かれた。立山に抜ける里道は以前から通る人がなく不明瞭だったが、造成が始まってからは地形が大きく変わり何処を通っていたかも分からなくなっている。

造成の際に生じた土砂を積極的に蟻ヶ迫池側へ押し出すことはなかったが、西側斜面をそのまま転がり落ちるに任せる状態にあった。


このことから蟻ヶ迫池が埋め潰されるか、少なくとも用途廃止されていることが推測された。本件に関して何件か問い合わせがあったため、蟻ヶ迫池と造成エリアを継続観察物件として散発的に撮影に訪れている。

堰堤下を通る市道の建設工事に伴い、通路を溜め池側に拡幅する形で堰堤の一部が切り崩され始めた。練積ブロックをすべて除去し堰堤の法切作業が進められている。この過程で発生した残土は溜め池の東側から池に向かって押し出されている。


東側から撮影。


市道の西側まで道路幅員確保の切り崩しが完了後、堰堤のやや西寄りを切り崩して集水桝が据えられている。
堰堤内側下部の樋門は開放されており、水が溜まらない状態になっている。


堰堤の切り崩しはほぼ完了しておりこれ以上に残土が発生しないこと、湛水領域が相当に広いことから今すぐすべて埋め潰されることはない。しかし灌漑用溜め池としての機能を完全に喪っていること、市街部では宅地建設地需要が今なお高いことから土地を遊ばせておく理由がなく、市道工事が完成後に更に残土が運び込まれて神田池坊主池のように宅地造成されるかも知れない。
《 地名としての蟻ヶ迫について 》
記事作成日:2015/2/7
最終編集日:2022/1/3
蟻ヶ迫(ありがさこ)は現在の小松原町1丁目の北側に存在する小字である。
画像は地理院地図に重ね描きされた小串村エリアの小字絵図。


制作時期の異なる小字絵図のいずれにも蟻ヶ迫として記載されており、更に古くは小串村の小松原小村に蟻ヶ迫という小名が現れている。小松原小村には他に鵜ノ島堀、浜ノ浴、原田、横田の小名がみえるが、いずれも蟻ヶ迫配下の小名となっている。小松原の小村時代には蟻ヶ迫は中核的な位置づけであった。

小字絵図で記載されている蟻ヶ迫の範囲は、現在地図で記載されている蟻ヶ迫池を含んだ三角形状の谷地全体である。上流部にある小さな溜め池も含まれる。西側の向山に接する部分はおよび浜ノ上、東側は立山[3]である。蟻ヶ迫池の堰堤下にある排水路を境にして南側は北蛭子となるが、現在ではその殆どが小松原1丁目となっている。蟻ヶ迫池のある北側は現在も住居表示改定は行われておらず大字小串なので、正確な所在地表示で字蟻ヶ迫が表記に現れる可能性がある。

前項で述べたように、溜め池の初期の名は「ありがさか」であった。坂が迫に転訛したとしても「あり」の音が何に由来するのかという疑問がある。一例として、元々は「なし」の音を含む地名だったものが「無し」に通じて縁起が悪いため「あり」に読み替えられた事例(例えば亀有など)がある。有帆や有間田など他の「あり」の音を含む地名についても同様かも知れない。

漢字表記で「蟻」を宛てているのは当て字と考えられる。動物の存在が地名に由来する事例はいくつかある(蝮迫や狸原など)が、注意深く観察されるとは思えない蟻が地名に現れるのは不自然である。「あり」の音を含む地名はいくつかあっても漢字表記の蟻を宛てている地名は他に知られていない。

蟻ヶ迫の名称を現代に伝えるものはこの溜め池以外に知られていない。詳細が記載されている地図以外では蟻ヶ迫池という溜め池の名称記載もなく、古くからの地元住民以外忘れ去られつつありそうな地名となっている。継続して文献を探る予定であるが、謎を秘めたまま地名自体が消滅してしまうのだろうか。
外部ページの投稿と読者の反応。
外部サイト: 宇部マニアックス|2015/7/21の投稿
出典および編集追記:

1. 鵜ノ島校区在住民の話による。大人の言葉を音感だけで覚えた子どもの中には誤って「三角ダム」とも呼んでいたようだ。ダブとは田にあてた後の余剰水を一時的に貯留する池沼をさす宇部の古い方言である。なお、東山市営住宅下にある小さな溜め池(新堤)も三角ダブと呼ばれていた。

2. 蟻ヶ迫池での溺死事件は衝撃的なものだったらしく地元住民に広く知られている模様。時期は昭和後期と思われる。この情報はFBページへの読者コメント情報による。

3. このエリアを立石としている小字絵図もあり混乱している。例えば地域を通る認定市道では市道桃山立山線となっているが、下水道計画図では居能分区に立石汚水幹線と記載されている。地元在住者では既に高齢者でも居住地表記に小字を使うことがないため正確なことが分からなくなっている。

ホームに戻る