二反田堤【旧版】

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記事作成日:2014/1/5
最終編集日:2021/7/25
情報この総括記事は内容が古くなったので旧版に降格されました。現在の総括記事は こちら をご覧下さい。旧版は互換性維持のために残していますが、編集追記されず将来的に削除します。

二反田(にたんだ)堤は桃山中学校に向かう途中にある古い溜め池である。
写真は県道琴芝際波線の道路改良区間からの撮影。


二反田堤の余水吐を中心にポイントした地図である。


二反田堤は桃山中学校へ向かう道(市道桃山中学校線)の途中にあり、以前はバス路線になっていて車でも容易に立ち寄れる。
やや緩い坂を登る途中の右側に余水吐からの走水路が見える。


余水吐はコンクリート路で割と最近のもののようだ。


溜め池の角にバス停があり、ひっそりと説明柱が立っていた。
説明柱の下に丸い大きな石が置かれている理由は分からない


二反田池の成り立ちは古く江戸期まで遡る。享保十九年(1734年)鵜ノ島開作に必要な水を賄う目的で造られたとされている。


二反田堤の上流には主立った川はないので、小串台より染み出る水を貯めておいて鵜ノ島開作の水源とする補助池のように機能していたと思われる。

この説明柱から市道を挟んで反対側の地区道入口に猿田彦の石碑がある。


石碑の写真を撮っておいたので詳細は以下の派生記事へ。
派生記事: 二反田堤近くの猿田彦大神
バス停横から撮影。
堰堤部分は張ブロックに更新されている。堰堤からやや離れて木の杭が並んでいるのが目立つ。


樋門へゴミが流れ込むのを防ぐためだろう。小規模な溜め池では割とよく見られるが、二反田堤程度の規模の溜め池で堰堤に沿って設置されているのは珍しい。
この杭は水位が高いときにはほぼ全体が隠れる。


堰堤部分は地区道になっていて車でも一応通れる程度の幅がある。ただし県道との往来は道が狭く困難である。

堰堤の中央に降り口がある。施錠されていて立ち入ることはできなかった。


網目越しに撮影。
樋門へ降りるコンクリート階段はあるが、水位を調整しながら排出する樋門がない。既に灌漑用水需要がなくなったのだろうか…


堰堤の一番奥まで歩き、振り返って撮影。


二反田堤を見渡せる場所は堰堤からと、県道の改良区間からしかない。その他の場所は雑木林である。
堰堤から4分割で溜め池を撮影している。


溜め池の一番奥には一段高い堰堤のような部分が見える。
これが県道の改良区間に伴い盛土された場所だ。


ズームで撮影している。県道を行き交う車の一部がここからも見えている。
盛土の高さは目測で池の水面から20m近くに達する。


改めて冒頭の地図で確認できるように、かつて二反田堤の北東側は急斜面だった。このため浜バイパスを横切って登り坂が始まる県道琴芝際波線の原形となる道は、尾崎の坂を登り切った後、二反田堤の北東を迂回していた。この途中に悪名高い直角左カーブがあり交通のネックとなっていたことは格下げ後の市道小串小羽山線で記述している。
この悪線形の改良は平成20年前後までずれ込んだが、道路改良の計画自体は平成初期にあった。二反田堤の北東を直線的に通すには20m以上の盛土が必要になることが早くから指摘されていた。

県道から該当箇所を撮影している。この辺りが盛土の始まる区間の端と思われる。


以前はここからの二反田堤の眺めは、近辺に存在していた家屋からの限定だった。
県道が高台を通るようになったことで二反田堤の存在を知った人も居ることだろう。


二反田堤より下流の田は今や非常に少なくなっている。いずれは田が皆無となるのはほぼ確実で、市内でも神田池のように完全に埋め立てられ造成が始まっているところもある。しかし築堤年が明確に判明している溜め池でもあり、二反田堤が埋め立てられ消失することは恐らくないだろう。
《 個人的関わり 》
市内の溜め池探訪と地名調査を兼ねてデータ採取し始めてから訪れた溜め池である。桃山の方は学童期に親に連れられて数回訪れているのだが溜め池については存在も知らなかった。ただしうちの親はこの方面に編み物教室へ通う便があり知っていた。

市街地に近い溜め池らしく、二反田池には戦時中に投下された焼夷弾が現在も沈んでいると言われる。近年も池浚えの折りに発見されたという。[1]
出典および編集追記:

1.小串廻ヶ浴在住者による談話。(2016/6/10)

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