真締川・鎌田堰【旧版】

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現地踏査日:2014/7/14
記事公開日:2014/7/20
情報この総括記事は内容が古くなったので旧版に降格されました。現在の総括記事は こちら をご覧下さい。旧版は互換性維持のために残していますが、編集追記はされません。

鎌田(かまた)堰は真締川のもっとも下流にある井堰で、後述する尾崎用水路の取水口となっている。
写真は左岸側からの撮影。


位置図を示す。


鎌田堰は真締川へ最初に架かった橋として知られる鎌田橋より100m程度上流側にある。
鎌田橋の上から撮影。


右岸は市道真締川西通り2号線が通っていて井堰には安全に近寄れない。左岸側は軽トラ程度なら通れる未舗装路があって鎌田橋の袂から自転車で容易に近づくことができる。
写真は2年前の春に撮影されたもの


井堰というと通常は河川の流れに対して垂直に設置される。鎌田堰は用水路の取り入れ口がある側に導水部分があって余剰水が直角に流れ落ちるようになっている。


時期柄、岸辺には草木が生い茂っていて井堰の全体像が写しづらい。
かと言って足元は既に斜面がどんな状態になっているかも分からない大藪で一歩も踏み出せなかった。


導水部分の途中に取水口らしきものが見える。その上部は全体が藪に覆われていた。
草木が刈り取られた形跡がないということは、灌漑用水需要期でも取水口で堰板を操作することはないらしい。[1]


容易に接近できないので対岸からズームで窺った。
道路の下をくぐって用水路へ供給しているのだろう。


冒頭の地図でもこの堰から道路の下をくぐって水路が伸びているのが分かる。この水路は尾崎用水路(蛇瀬池水路)として知られる。尾崎とは現在の県道と浜バイパスが交わる辺りの尾根にあった地名である。現在も管理運営されているが、東小串2丁目付近からは地中化し線形をたどりづらくなっている。
鎌田井堰は水位を上げているため常時水が溜まっている。プールがない時代は学童にとって一般の溜め池と同様に格好の水遊び場だった。[2]この溜まり水を利用して農耕に使う馬を洗っていたのは他の井堰でも同様に行われていたようである。

護岸の一部はコンクリートで補修されていてさすがにそこは草木が生えていなかった。
この護岸の補修は2年前の春に行われている


角度を変えてこの護岸から撮影。


果たして鎌田堰は尾崎用水路の造られた当初からこのような形態をしていたのだろうか…


本編は総括記事だが、今すぐ多くの項目が盛り込まれることはなさそうなので時系列に沿って語ると…
この日、鎌田堰の写真を撮りに来たのも尾崎用水路についての現地資料を整えるためだった。初めて訪れる場所でもなく、前回来たとき左岸側の農道に石碑が建っていたのを覚えていた。
以下の記述は総括部分の記載事項が増えた折には分離するかも知れない

上流側を撮影。
遠方に見えているのは御手洗橋だ。御手洗橋の袂にも御手洗堰がある。
ヘビが農道を横切ろうとしているのが見える


石碑のあった位置は覚えていたつもりが、藪に飲み込まれていて何処にあるのかすぐには分からなかった。


石碑はほぼ完全に草むらで覆われ隠されていた。


明瞭な写真を撮るために周囲の草をなぎ倒そうかとも思ったが面倒なので止めておいた。何しろ先ほど大きなヘビが農道を横切るのを目の当たりにしていたからだ。今の時期は下手に深い草むらへ手足を突っ込むのは危険だ。
どういう訳か今年はよくヘビの姿を目撃するようだ

そこまでしなくても以前に石碑の文字が分かる写真を撮っている。以下の3枚は2年前の4月に撮影されたものである。
草木が伸び始める前の季節で、真砂土を搬入するトラックの出入りのせいか石碑は若干傾いていた。


このときは増水した流れで削られた護岸をコンクリート擁壁に置き換える工事の下準備が進められていた。
鎌田堰近くには足場確保のための土のうがいくつか積まれていた。
土手に護岸の丁張が見えている


石碑に記された説明書き。これが重要だ。


毛利藩開拓の鵜の島開作の用水・取水の施設
ここから灌漑用水を取水して鵜ノ島開作一帯へ送っていたとされる。即ち尾崎用水路の開始地点ということになる。

石碑がここにある以上、鎌田堰の位置は昔から変わらないだろう。しかし井堰の形態や取水口が現在とまったく同じだったのかは分からない。特別なことをせずにここから鵜ノ島開作まで広く灌漑用水を供給できたのだろうかという疑問があった。
その件は尾崎用水路の項目で述べている

もう一つ疑念に思うことがあって、写真を撮りながら再び井堰の方へ戻った。


率直に感じたのは、
ここまで海水が遡行することはないのだろうか?
という点である。


詳細に調べた訳ではないが、今でも新西ノ宮橋あたりまでは海水が遡行すると聞いている。鎌田堰は河川長でそこから1km程度上流にある。鎌田堰より下流側に堰はないから、大潮のときは潮位次第で何処までも海水が遡行する。
稲作に関して殆ど知見を持ち合わせない私でも、田に海水が混じったら米作りにならないことは知っている。ここ鎌田辺りもそれほど標高がある場所とは言えない。昔も今も鎌田堰が海水に脅かされることはなかったのだろうかと思われた。恐らく潮の干満を注意深く観察して最大限潮が遡行するときでもここから上流には及ばない位置に造られたのだろう。井堰時代以前では琴崎まで舟を乗り入れたらしい記述が窺える。海水の遡行に乗るというよりは真締川の水量に助けられ、水深が浅くても通れる舟で漕いで上ったのだろう。

したがって鎌田堰は厚東川の末信にあるものと同様、潮留井堰の役割も果たしているかも知れない。現在でも鎌田堰より下流には潮留の樋門などは存在しない。

本編は総括記事なので、今後の情報次第で内容を追記編集する。夏場の撮影で井堰に接近しづらい状況だったので、良好な写真が撮れた折には部分的に差し替える予定である。
《 近年の変化 》
・2017年のはじめにたまたま自転車で通りかかったとき石碑が完全に倒れているのを見つけた。


以前から石碑は少し傾いていたが、近くの土手が雨で崩れたため倒れたらしい。かなり重いものだったが引き起こすことができたので、垂直に戻して下地を踏み固めておいた。

たまたま土手道を散歩で通りかかった方もあり、一緒に踏み固めておいた。


しかし土手が完全に崩れて石碑が下の田んぼまで落ちたら引っ張り揚げるのが詮無いだろうと言い合った。[2]
もう少し堰のある場所へ近付けるように移設した方が良いかもと思った次第だ。(2017/1/28)
さすがに市道側には据えられないだろう
出典および編集追記:

1. たまたま草木が伸びる時期で隠されていただけであって灌漑用水需要期には草が刈られ堰板が操作されるようである。

2. 読者コメントによる。傾いた石碑を起こすときの様子も含めて以下に記述している。
FBページ|2017/1/27の投稿

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