市道恩田八王子・横話

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以下に述べる内容は当初、元記事の「市道恩田八王子線【1】」およびその続編の【】にそのまま書いていた。しかし市道レポートからあまりにもかけ離れること、私的な記述を含むこと、内容が濃く長文になることから後出する部分も含めて分離し相乗せ記事として本編にまとめることにした。
横話が濃い他の記事についても同様に適用するかも知れない

早い話が殆どが市道沿線にまつわる私固有の裏話なのだが、裏と言うとダークなイメージが付きまといがちなので敢えて「横話」と言い逃れている^^;
それぞれの話題は市道恩田八王子線関連の記事から呼び出されている。この記事のみを単独で読んでも理解できない場合があるのでご了承いただきたい。
《 小学生のときよく通った「くじ屋」 》
市道恩田八王子線と市道恩田線の交点にある平屋は、恐らく昭和50年代半ばまでは駄菓子屋だった。
もっとも当時私たちは「駄菓子屋」という言葉を使わず「くじ屋」と呼んでいた


外観から想像される通り、家屋自体は当時のままである。
対象が個人の家屋なので精密な写真の掲載は差し控える

恩田へ越してきたのは昭和40年代半ばで、当時はスーパーが一軒もなく個人営業の八百屋や雑貨店が散在していた。雑貨店にもお菓子は売られていたが、気軽にお菓子を買いに行く店と言えば「くじ屋」と相場が決まっていた。

このくじ屋へ行くのには国道やこの市道を通らず、沢を渡る農道を通っていた。車は通れないが自転車には充分だった。幼少期は兄貴と2人で行っていたが、自分一人で行くことも多かった。
お店の前に自転車を停め、黙って入るのではなく必ず「ごめーんっ」と言ってあの木戸をガラっと開ける。今では扉にセンサーが着いていて開閉するとチャイムが鳴るのが主流だが、そういうのが無い時代なので店に来たなら挨拶しなければ分からなかった。

声をかけて中に入ると、奥の座敷から店番のおばあちゃんが出てきて私たちの品定めを見守っていた。
元が駄菓子屋なので安い菓子が主流だったが、私の興味はもっぱらくじ引きだった。当たりをもらうのに技巧がない代わりにインチキもなく、純粋に確率の問題だった。運の善し悪しという努力ではどうしようも出来ないものに賞品を左右されるのだが、何が当たるかというドキドキ感とたまに上位の賞品が当たる喜びは適度な中毒性があった。

くじ屋の隣りには個人の雑貨店があり、そこでも何度か買い物をしたことがある。
その店のすぐ横から左へ入る道がある。車での出入りを容易にするために歩車道境界ブロックが切り欠かれていた。


くじを引いた後はお菓子を袋に詰めてもらい、再びこの道を通って帰った。
友達と一緒に来たときには家まで帰らず、この道の少し先にある低いブロック塀の上に腰掛けて菓子を食べたこともあった。
くじ屋へ行く重要な道だったなのでいずれ別件記事を予定している


このお店は私の知る限り、恩田地区にあって一番最初に店を畳んでしまったくじ屋と思う。どんな経緯でいつ頃閉店したのかは分からないが、詳細については自分自身詮索せず想い出として仕舞っておこうと思っている。
《 笹山児童公園 》
この市道と笹山岬台線の交点より少し先に、笹山児童公園の入口がある。

市道より撮影。
入口より向かって右側に古い公衆トイレがあり、公園の遊具はもう少し先まで歩いたところにある。


トイレは恐らく水洗化を施しただけで、建屋そのものは昔のままだと思う。


この公園の成り立ちはかなり古い。入口の門柱には昭和40年という銘板があった。
「笹」の字が異体字になっている


別のところでも述べた通り、かつて住んでいた恩田には児童公園がなかった。昭和50年以降になって漸く恩田小学校の国道を挟んだ反対側に公園が造られただけで、ちょっと広い場所を要する遊びを楽しむには自転車で移動しなければならなかった。

笹山児童公園は恩田の家からはかなり遠いせいか、遊びに来た記憶が殆どない。恩田小学校まで行くのと距離的に変わりがないので殆ど小学校に行っていた。どちらかと言えば幼少期の心痛む出来事だけが想い出に残っている。
兄貴と遊びに来ていて中学生の悪ガキに絡まれ兄貴は殴られて帰った

そうは言うものの小学校時代の級友と遊びに来たことは何度かあるかも知れない。追加の情報や写真を撮影次第、追記することにしよう。
《 コーヒー牛乳の自動販売機 》
市道岬赤岸線との交差点の角に、現在でも明治乳業の取次所がある。建物は改装されているが昔からこの場所にあった。


ここに関しても中学時代の「些か黒い」想い出がある。
黒いと言っても万引きとか何か犯罪めいたことをしでかしたのではなく、純粋に自分自身に関する「いけない」行動だったのだが…


今だから書ける。
夜中にこっそり家を抜け出して
コーヒー牛乳を買いに来ていた。
忘れもしない中学2年生の夏休みのことである。
元から「中だるみの2年生」と言われていただけあって、私も中学生活にある程度慣れ、来年は受験生と言われても実感が沸くものでもなく、のんべんだらりと生活していた。

元から甘いものが好きなところに、紙パック入りのコーヒー牛乳が売られ始めた。この近辺では昭和52年に入ってからのことだった。
紙パックの1000ml入り牛乳が店頭に並び始めたのはそれより若干早い昭和50年以降だった
私は(今でもそうだがw)甘い系乳飲料が殊の外好きで、駄菓子もそろそろ卒業かという中学生時代に食べる菓子はポテトチップ系スナック、飲み物は500ml入りコーヒー牛乳と決まっていた。ポテトチップが100円、500ml入りコーヒー牛乳が130円で、当時の自分は「200円ちょっとで手に入る幸せ」と呼んでいたようだ。
ほぼ同等のものが現在ではより安価で買えることは驚きだ

夏休みになるとこの年代の子どもの多くは夜更かしなどで生活リズムが乱れる。しかし現代ならまだしも昭和50年代前半では夜に出歩いて買い物できる店など皆無だった。急にコーヒー牛乳が飲みたいなどと言っても店が開いていないし、それ以前に中学生が夜一人で出歩くなど当時はまともな親が容認する行動ではなかった。
そんな中、私はこの場所にコーヒー牛乳の自動販売機があることを見つけ出していた。
市道岬赤岸線沿いに別の駄菓子屋がありそこへ行くときに見つけたらしい

初めて「抜け出し」をやったのが正確にいつなのかは当時の日記を参照することで特定可能である。恐らく従兄弟が家に遊びに来ていて、従兄弟の家でもやっていたのと同じことをやろうという話になったと推測される。
従兄弟の家での「抜け出し」は中学1年生の夏休みにやっていた…目的は買い物ではなく日の出観察だった
こうして初回は従兄弟と一緒にコッソリ家を出て自転車でこの自動販売機まで買い物に行った。

従兄弟が帰った後は、自分独りで数回同じことをやった。玄関から出ると解錠する音が大きく響いて親に見つかる恐れがあるので、寝室から遠い四畳半の部屋の窓から出たこともあった。
コーヒー牛乳を買いに行く理由は単なる付け足しで、万が一親に見つかったらそう答えようという言い訳に過ぎなかった。自動販売機で買い物をするのが目的ではなく、夜中誰も居ない時間親に内緒でコッソリ家を抜け出て外を徘徊するスリルを楽しむ方へ軸足が映っていたのは否めなかった。

「抜け出し」は夏休みの間だけで3度くらいやったと思う。確か4回目のとき、無事に買い物を終えて家に戻り、洗面所で一息ついているとき父親がトイレにやってくることで発覚してしまった。
洗面所の床にコーヒー牛乳の紙パックがあったので否定できなかった

幼少期から親を含めて大人の言うことには必ず従う従順で品行方正な(?)子どもであり、母もそう信じていただけにこの事件は当時、母親を酷く憔悴させた。真面目な子に育てていた積もりなのに裏切られたという想いがあっただろうし、泣かせてしまったかも知れない。兄貴も「お前らしくもないことを…ありえないことだ。何でそんな馬鹿なことをやったのだ?」とばかりに激しく叱責した。当時の私からすれば、現状に何か不満があったとか親に反抗したかったとかの動機はまったくなかった。夜中に出歩けば自分がどんな怖い目に遭うか分からないのは自明だが、そのことは見えずに単に上っ面のスリルだけを追い求めていたのだった。
結局、私はもう二度としないと母に固く誓った上で一夏のいけない遊びは幕となった。
当時の日記にも強い自戒の念を感じた記述がみられる

それ以降、恩田の家にあって親に黙って夜中に抜け出したのは高校生時代に一回あるかないかだと思う。
このときは見初にある市内唯一の24時間営業の店へ買い物に行く用事があった
我が家で偶に私の中学2年生頃の暮らしぶりに話が及ぶと、今でも殆ど間違いなくこの件を蒸し返される。私はもうそろそろ勘弁してよって言っている。もっとも母は今や「そんなこともあったね」と笑い話で済ませる程度に一つの想い出になっているが…

一連の詳細な記述は当時の日記から得られるが、日記帳は段ボール箱に詰め込まれ押し入れの奥に格納されている。これらを参照して消えることのないネットの場に保存する作業は、今後何十年とかけて行われる息の長い作業となる予定である。

なお、平成期に入って深夜まであるいは24時間営業するコンビニなる小売店が出現してからは紙パック入りのコーヒー牛乳を自動販売機で買い求める需要がなくなったのか、現在では自動販売機は撤去されている。
最近まったくそのような自動販売機を見かけないことから既に「絶滅した」と考えられる
《 八王子踏切 》
注意以下の記述にはショッキングで非常に残虐な記述内容が含まれています。(猟奇的な写真はありません)ご注意ください。

以前この項目に与えていた表題「犬切踏切」からこの場所で一体何があったか薄々感づくだろう。そして殆どその想像通りだ。
以下、かなり具体的かつ正確な描写になるので、たとえ文字でもそのような話題に接するのが耐えられない方は決してお読みにならないことを強く推奨する。
相乗せ記事なので、他の項目を閲覧中に画面スクロールしていて不本意にも目に触れてしまうことを避けるため、本項目は以下の核心部分は既定で非表示に設定している。納得された読者のみ下のボタンを押すことで閲覧できる。


しかし出来ることなら、こういう事件が皆無になるに越したことはないと思う次第であった。

最近、踏切や構造物に遺された地名調査の過程でこの踏切のすぐ西に存在する水路を横断するガードに名称があることを知った。詳しくは後述する。
【 緊急に対策の検討が必要な宇部市内の踏切(その1) 】
項目記述日:2018/6/13
この踏切は、国土交通省が公表している「踏切安全カルテ」によって「緊急に対策の検討が必要な宇部市内の踏切」とされている。指摘理由は歩行者の通行区間の未整備による。[a1]宇部市内には同様の指摘事項を受けた踏切が他に3箇所存在する。[a2]

八王子踏切の交通量はかなり多く、恩田小や常盤中学校など学童の往来も多い。最寄りの十字路として海側に市道空港線があるが、踏切からはやや離れているため列車通過時の他路線への影響は少ない。
出典および編集追記:

a1.「踏切安全カルテ|八王子踏切

a2.「国土交通省中国運輸局|踏切安全カルテの公表について
《 芝山橋りょう 》
八王子踏切のすぐ東側を流れている水路を横切るガーダー橋には芝山橋りょうという名が与えられている。
諸元は以下の通り。

位置名称支間桁下交差する対象物特記事項
23K351M芝山橋りょう4M101.6M水路


ある小字絵図ではこの付近は「紫山」と記載されている。別の絵図では「柴山」となっており、どちらが正しいのか判定しかねていた。漢字表記こそ異なるが、芝山橋りょうという表記を確認できたことで、紫山は柴山の誤りであり、読みが「しばやま」という小字の存在が裏付けられた。

芝のつく地名として琴芝や芝ノ中が知られる。背丈の低い草が生える地が想起される。

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