写真は東芝中町の映像。
現在の経路を地理院地図に重ね描きした画像を示す。●は起点、矢印は終点を表している。
(経路のGeoJSONデータは こちら
)五反田は現在ではまったく耳にすることのない地名だが、本路線の起点から踏切付近まで西進する道は成り立ちが古く、かつて五反田通りと呼ばれていた。見初地区では笹山通りに並んで昔からの道である。
昭和初期に制作されたスタンフォード地図には、五反田通りと笹山通りに相当する道が記載されている。
中央東西に伸びるのが五反田通り、その南側にある道が笹山通りで、両路線に交差するように伸びているのが市道名切笹山線の前身となる道である。
(芝中通りができたのは昭和10年前後と推測される)
昭和10年代に制作された宇部市街圖では、住居表示法として五反田通り一丁目のような命名がされていたことが分かる。
宇部市街圖には芝ノ中通りの記載があり、これは芝中跨線橋を経由する現在の国道190号の前身となる道である。
(高良家文書)
早くから両側に民家が建ち並んだ区間が多く、全体的に道幅は極めて狭い。殊に終点付近は両側がブロック塀の離合不可能な区間が長く続く。
《 概要 》
起点から終点まで概ね同程度の幅の道が続くが、歴史的にみて早くから一続きの道とみなされていたのかは分からない。経路には不自然な折れ点や他路線との重用などがみられる。市の道路管理上から適当に一続きにまとめたのかも知れない。ここでは、写真管理上で分けている3つの区間として記述する。【 起点〜名切笹山線 】
4車線仕様の市道東海岸通り線に起点がある。ここからが昔から五反田通りと呼ばれていた区間となる。ただし東海岸通り線が現在の形になったのは昭和40年代以降であり、それ以前は反対側の鉄工所がある敷地まで続いていたかも知れない。後述するように、五反田通りの直下には常盤池からセントラル硝子工場付近にある芝の中ポンプ所まで常盤工業用水管が埋設されているからである。五反田通りの路上には点検用の鋳鉄蓋がみられ、同じものが鉄工所の敷地入口にもみられる。(社有地内にあるためまだ撮影調査は行われていない)
起点からはほぼ直線的に東進する。途中でいくつもの市道を横切り、この区間は起点からの一方通行となっている。
見初という語に代表されるように、内陸部の開作地であるため殆どフラットである。家並みが途切れて右側に工場が見え始める辺りから若干左カーブする。東芝中水路を横切り、芝中墓地の中を通ると東西に伸びる古い道につきあたる。
これより本路線はイレギュラーな形で更に東進する。常盤工業用水は、上の写真で白いガードレールが見える先の水路下を通っている。
【 名切笹山線〜笹山通り線 】
市道名切笹山線から本路線の起点方向を撮影している。ここで僅かながら名切笹山線と重用し、かなり狭く曲がった道を進んでいる。この辺りのクランク状の線形は印象的で、前掲のスタンフォード地図にも宇部市街圖にも同様の部分が観察される。早くからこの線形が定まっていたことが窺える。
カーブを過ぎると芝中第1踏切に差し掛かる。この踏切の少し手前でV字型に左にも分岐する道があることに気付く。
この道は鉄道の手前で行き止まりのように見える。
かつてはこちら側にも往来可能な道があり、芝中第2踏切で繋がっていたと考えられている。
昭和30年代後半の航空映像を見ると、鉄道の少し手前で道が分岐していることが分かる。道を外れて直線的に伸びている部分は、先述の常盤工業用水路の施工跡であろう。
芝中第2踏切であったと思われる場所を反対側から撮影。
芝中第1踏切は普通車の往来が禁止されており、このため踏切を隔てて南北の宅地開発に温度差が生じている。踏切より西側は国道190号の恩田小通用門付近から広範囲に造成されて新興住宅地となったが、東側は未だ個別の家屋建設にとどまっている。
芝中第一踏切を過ぎると、新興住宅地を挟んでV字の分岐になる。
本路線は右側である。
現在では住宅地の道の方が広いが、かつては四輪も通れない農道があるだけだった。常盤工業用水路はこの農道の真下を通っている。[1]この道が工業用水道の敷設経路として整備した後に農道としたのか、恩田方面に向かう昔からの道だったのかはまだ調べられていない。
笹山の丘陵部へ向かって僅かながらの丘越えになる。
最高地点付近で右に折れる。
この十字路で直進すると、恩田小学校の現在は使われていない西側の門の前にでてくる。この辺りは道幅が狭く、普通車での通り抜けは困難である。再び道は下り、恩田小学校の南門前に抜ける道と分岐する。ここは西側への小さな沢を横切っていて道は再び先よりもややきつい登り坂となる。
登り切ったところで市道笹山通り線にでてくる。
ここで左折し、短い区間を笹山通り線と重用している。
【 笹山通り線〜終点 】
100m程度市道笹山通り線を進み、再び独自区間へ分岐する。ここからの区間は非常に狭く、軽四でも離合できる場所が少ないため四輪の通行自体殆どない。道自体も奇妙に折れ線で繋がっていて四輪の通行もできない枝道が無数にある。後述するように個人的にはこの区間がもっとも個人的関わりの深かった場所である。
最初の左クランク手前での撮影。
畑があり、やや遠くに宇部サイコン線の鉄塔が見えている。この風景は半世紀以上殆ど変わっていない。
(正面の家がなくなったことと鉄塔自体の立て替えがあった程度)
クランクから奇妙な形の右カーブを過ぎると、全区間でもっとも狭い道幅となる。
ブロック塀の衝立のような区間を過ぎると、押しボタン式信号が見えてきて終点の市道恩田八王子線に到達する。
恩田小学校の南門を経て登下校する子どもたちの通学路であり、下校時にはしばしば押しボタン式信号が稼働している。
《 Googleストリートビュー 》
笹山通りから恩田八王子線までの狭隘区間を除いて採取されている。映像は東海岸通り線からの分岐点。
《 個人的関わり 》
この路線との個人的関わりは恩田在住期時代に集中している。元から狭い道のため通行手段は専ら自転車で、徒歩や車での通行は一度もない。以下、上記区分に準じて記述する。
![]() | 以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。 |
《 近年の変化 》
旺盛な宅地需要を反映して、五反田通りの名切笹山線までの区間を除いて変化が著しい。新規の個人住宅の建設は除外して、解き除けられた民家も含めて記録されている範囲で掲載している。【 2014年 】
・11月頃までに芝中第1踏切の東側まで造成工事が終了した。この造成工事は同年8月にラーメン醤々の裏手から休耕田を埋めて嵩上げすることから始まり、徐々に西側へ造成を拡大させていた。この過程は常盤工業用水管が埋設されている上の農道がどうなるか気になっていたため、頻繁に訪れて写真で記録されている。
【 2015年 】
・本年の終わりまでには上記の造成工事が終了し、宅地の区画割りを経て家が建ち始めた。【 2021年 】
・5月から7月の間に、芝中第1踏切手前のV字分岐に建っていた民家が除却された。左側の分岐が私道ではなく昔からの道であり、芝中第2踏切があったと推察されたのもこの頃である。この分岐点は重要地点だった可能性があるが、道標などがあったかは分からない。現状は昔のブロック塀の痕跡がV字の先端部まで見えている。左側の分岐路は、恩田の中心部に向かう主要な道の一つだったかも知れない。【 2025年 】
・4月に訪れたとき、恩田小学校の西側を通る区間にあった民家などが解き除けられ、新興住宅地として整備されていた。(個人的にはこの光景はかなり衝撃的だった)
この区間は Google sv で採取されているので過去の映像を見ることができる。ここに宇部小町(うべこまち)と名付けられたバラの創出者の家と庭があった。個人的関わりとしては、過去に勤務していた会社の繋がりで訪れたことがあった。秀逸なデザインの家と庭で、住み人が居なくなったと推測される間もこの方面を訪れたときには撮影していた。宇部小町は6月のバラの時期に山口宇部空港の庭園にも実物が展示されていた。
《 五反田について 》
本路線の名称に現れる五反田(ごたんだ)とはかつて現在の幸町付近に存在した字名である。写真は本路線の工事看板に現れた路線名。
五反田とは五反の広さを持つ田という意味であり、反(たん)とは尺貫法における昔の単位である。一反は現在の表記では約991.736m2で、現在の10a(アール)に非常に近い。この偶然の近似のために尺貫法からメートル法への移行は比較的スムーズに行われた。
一般に「n反田」という地名は字名に限らず広くみられ、共同開発された墾田に由来する。したがって同一の地名は至る所にみられ、同じ五反田という字名が厚東区にもみられる。同種の地名として、新川地区にある二反田池が著名である。他には三反田、八反田が確認されている。原理的には一から九までの「n反田」が地名として存在し得るのだが、上記のもの以外は知られていない。
本路線名には五反田という字名が遺っているが、幸町となってからは五反田を確認できる構造物は存在しない。
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