市道長沢源山線・横話

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情報この記事は掲載項目が増えて雑多になってきたので再構成を予定しています。

ここでは、市道長沢源山線の派生的記事をまとめて収録している。
《 宇部興産鉄工所社宅★ 》
現地撮影日:2015/1/12
記事公開日:2015/1/31
前述の宇部興産独身寮が建つ以前は、本路線と小さな水路を挟んだ東側奥に平屋が整然と並んでいて鉄工所社宅と呼ばれていた。[1]


独身寮の入口から先、地区道への下り坂が接続する付近の様子。
かつての鉄工所社宅の入口はこの正面にあった。現在は市道に段差をつける形で盛土されフラットな駐車場敷地となっていて昔の痕跡はまったく遺っていない。


現在は蓋付きのコンクリート側溝になっているが、かつては開渠で、鉄工所社宅入口の部分はヒューム管が通され、その上がコンクリート路のスロープになっていた。スロープから先は砂利道で、社宅内のすべての通路がそうなっていた。それぞれの社宅の周りには目隠しの低木が植えられており、排水用の小さなコンクリート側溝がそれぞれの家の真下を通っていた。
洗濯や洗い物、お風呂などの生活排水を効率よく排除するための設計と思われる

スロープを登った先のすぐ右側に木造平屋の売店があった。店の名前は分からない。鉄工所社宅向けだったと思われるが、社宅外の人も自由に買い物できた。このお店は私が小学校低学年のとき数回訪れたくらいしか記憶がなく、鉄工所社宅が取り壊されるより随分前に店を畳んだ。この店舗以外で鉄工所社宅の人々と関わりがあったのは幼稚園関連で知り合ったと思われる女の子だけであった。
派生記事: 鉄工所社宅の女の子
この売店の正面から左側に通路があり、その先が10m四方程度の広っぱになっていた。私たちが恩田へ越して来たときから市道沿いには民家か畑地など有効利用された土地ばかりだったが、そこだけは家が建たず遊休地になっていた。広っぱは恐らく鉄工所社宅と同じ社有地だったが、そこで遊ぶ分は誰からも文句を言われたことがなかった。しかし広っぱはところどころに灌木があり、草もかなり伸びていて地面は市道側にゆるく傾斜していた。そんな狭い場所ではろくむしや大学ピンポンをするのには向いておらず、しばしば転がったボールが溝に落ちた。市道とは直接繋がっておらず、近道するには蓋の掛かっていないこの溝をジャンプする必要があった。
周知の通り当時の溝は生活排水を流していたので決して綺麗とは言い難かった

鉄工所社宅の北端は同様に整然と並ぶ一般の住宅で、かつては自由に往来できていた。独身寮が造られたとき周囲にフェンスが出来て完全に仕切られた。家並みの多くは改築されたものの鉄工所社宅の西側に作られた住宅地の進入路は当時のままで遺っている。
知人などが居なかったので昔から入ったことはあまりない


西の端は国土地理院の地図でも読み取れるように急傾斜地になっている。この斜面には昔からの墓場があり、無縁仏が合祀されている祠がある。子どもながら怖い場所という印象があったためか殆ど近づいたことがない。私はしなかったが夏休みの夜など肝試しに訪れる子どもも居た。
最近数十年振りにその場所を訪れた…以下の派生記事を参照
派生記事: 墓地に至る道
大きく目立つ建物がなかった昔は、自分の家の場所を表現するときのランドマーク的役割にもなった。たとえば出前をとって自宅に持ってきてもらうとき、電話で「国道の床波石油商会のガソリンスタンドの道を入り右に曲がると鉄工所社宅がありますが…」などと説明したものだった。
平成期に入ってからは説明の文言が鉄工所社宅から独身寮という言葉に置き換わることになった
出典および編集追記:

1. 実際には宇部興産の鉄工所社宅と呼ばれる場所は市内に複数箇所あった。区別する必要があるときは長沢の鉄工所社宅と呼んだが日常生活では鉄工所社宅と言うだけで事足りた。
《 怖かった雨水排水桝 》
後で述べるように、市道は沢地と丘陵部の中間を沿って進んでいる。このため起点からみれば常に左側が高く右側が低い沢地となる。市道に沿って家が並んでいる部分は段差をなだらかにしたり土を盛ったりしているのだが、道路よりかなり深く落ち込んで崖のように見える場所があった。

ここは道路横断の排水が通っている場所であり、ゴミ入れが置かれている背後を見ると…


深い暗渠の排水孔があった。
右横のブロック塀の段数からして現在でもかなりの高低差と分かるだろう。


こんなものをしげしげと眺めてカメラに収める私を誰かが見たら、尋常な精神の人間とはみなされないだろう。
しかし私にとってこれは何処にでもある普通の溜め桝ではなかった。
桝の天端にみられる切り欠きはかつて灌漑用パイプを固定していた痕跡である


この角桝は私が恩田へ引っ越してきた時には既に存在していた。少なくとも50年程度経っている。
桝の底は道路から3mくらいあり、現在でも相当深い。外観はかなり粗雑なコンクリート造りである。桝蓋がないのは、道路横断のヒューム管が高い位置にあるためで、雨などで流下量が増えたときは滝のように流れ落ちていた。今でこそ転落防止柵があるものの昔は何もなかった。まして背の低い子どもの自分には怖い落とし穴のような場所に映った。

溜め桝になっているのは、底へ溜まるヘドロを定期的に浚える必要があったからだ。雨水と混じって生活排水が流れ込むため、現代からすれば大変に不潔で非衛生的な存在だった。さすがに排泄物は汲み取りだったが、前述の鉄工所社宅からの台所や風呂場の排水が流れ込むので富栄養化し、ボウフラの発生源となっていた。ただしこの場所の溝普請はうちの班ではなく別のところがやっていたと思う。溝普請については以下を参照。
派生記事: 溝普請
下水道が整備され、今やこの町内も生活排水は汚水管へ流れ込む。したがって現在では雨水のみがここに集められる。しかし市道は路肩部分まできっちり舗装され、土の地面が露出している場所が殆どないので土砂の流入が少ない。道路整備のお陰で道普請と溝普請という厄介な地区の定期活動がなくなったのは平成期に入ってからのことだった。
《 鉄工所社宅グラウンド 》
市道のコンクリート側溝が途切れる場所に溝の分水嶺があり、そこから先は道路と共に下り勾配になっている。
この勾配変わりのあたりにかつて物議を醸すことになった鉄工所社宅のグラウンドに向かう入口があった。


現在は左側が同一の斜面のようになっているが、独身寮の駐車場を整備するにあたって駐車面積を増やすために入口部分を潰して盛土された結果である。入口の勾配や幅、コンクリート舗装されている点は鉄工所社宅への入口と同じ仕様だった。

グラウンドは地理院地図の航空映像[1]でも確認できるように50m四方程度の広さがあった。
映像は後年鉄工所社宅向けの浴場が造られる以前のものと思われる
地面はやや粗い砂利混じりだが平坦で極めて硬く[2]子どもたちがソフトボールをするのには大変に魅力的な場所だった。入口から奥には簡素なバックネットがあり、本塁ベースも地面に固定して設置されていた。グラウンドそのものは柵や塀で囲まれておらず、外部から自由に入ることができた。部外者立入禁止などの立て札や看板も出ていなかった。入ってすぐ右側には両側が開くバケットタイプの水色のゴミ入れと円筒形コンクリートで縁取られた花壇があった。遊園地ではないので遊具類はなかったが、砂場は入口付近と奥に2ヶ所あった。

当時は周囲に子どもが沢山居て殆ど外で遊んでいたので、別に遊びの約束など取り付けなくてもソフトができる員数を集めるのにそう苦労はなかった。私は球技自身に興味がなかったので偶にしかその輪に加わらなかったが、野球好きな兄貴は近所の仲間を引き連れてかなり熱心に遊んでいた。
しかし鉄工所が所有するグラウンドを社外の子どもたちの遊び場に提供してやるほど当時の管理者は寛容ではなかった。むしろ明確に排他的な態度を貫いていた。即ちグラウンドは鉄工所社宅のものなので、社宅外の人間にはたとえ子どもだろうが使わせないという態度だった。子どもたちが勝手に入り込んで遊び、ボールが鉄工所社宅の窓ガラスを割ったとか、社宅の若者がソフトの練習に使えないという苦情があったのかも知れない。
兄貴は実際友だちと野球をしていて何度も怒鳴られ追い出されている

どういう訳かこの地域には昔から子どもが伸び伸びと遊べる児童公園が存在しない。子どもが増えて安全な遊び場が求められていながら、公園を作って欲しいという要望とは裏腹に現在も公園はない。[3]ソフトをしたい子どもたちは、結局ボールやバットを持って遠く離れた公園や学校まで行くか、コッソリとこのグラウンドに入って見つかるまでの時間限定で遊ぶ以外なかった。もっとも幼少期の自分たちや親も含めて鉄工所社宅に住む人々に対立感情を抱くことはなく、町内の人間ほどではないが付き合いはあった。

後年、グラウンドの奥にスレート屋根の共同浴場が造られてグラウンドはやや狭くなった。共同浴場は風呂が付属しない鉄工所社宅向けの施設なので部外者は当然利用できなかった。中がどうなっているか子供心にも興味があったが、そもそもウロウロするだけでもトラブルの元になるので、親からは「あのグラウンドには行くな」と厳しく言い渡されていた。

数こそ少ないが、グラウンドに関して心地よい想い出もあった。
この入口付近にはコンクリート舗装された一角があり、そこで市の主催したイベントか何かで紙芝居を観た記憶がある。幼稚園年長組のときのことだった。その堅いコンクリート部分はボールがよく弾むので大学ピンポンに使ったことがあるし、ろうそくを立てやすかったので夏場の夜など近所の子どもと一緒に花火をしに行ったことがあった。[4]盆踊りの会場としても使われていてその時には立ち入ることができたと思う。

ポンポン菓子の行商人は、必ずこのグラウンドを頼って来た。グラウンドの一番奥に陣取って菓子を焼き始めるのだが、年に数回のことなので慣習的に許されていたのかも知れない。そのときだけは私たちはポン菓子を買いに堂々とグラウンドへ入ることができた。
叔父さんはそこに居合わせる子どもたちから代金を集め、分量ほどのお米と砂糖などをセットしてまとめて焼いた。私たちは興味津々でポン菓子が作られるのを見物していた。最後の「ドッカーン!!」が子ども心にも怖かった。叔父さんがハンマーを持ってその瞬間を教えてくれるので、みんな耳を塞いでついでに目も瞑った。このポン菓子の行商人は独身寮が出来る直前まで来ていた。
昭和の後期…高校生になって買いに行った記憶がある

こうした良い想い出、残念な想い出のすべては今や私の脳内にモノクロ映像と共に格納されているに過ぎない。私と同じ情景を語ってくれる方が少なくともあと数人いらっしゃらなければ信憑性に薄く、ただの妄想だろうと片付けられても仕方がないだろう。

物議を醸したグラウンドそのものは鉄工所社宅の全面撤去の後、独身寮と付属する駐車場に置き換えられる形で完全に姿を消した。
出典および編集追記:

1.「国土画像情報閲覧システム - 常盤池西部(昭和49年度)の航空映像」による。この映像は後年鉄工所社宅向けの浴場が造られる以前のものと思われる。

2. 硬いというか硬すぎて転ぶと非常に痛かった。学校の運動場にみられるような真砂土の地面とはまったく違っていて締め固められたコンクリートのようだった。今思えばあの黒褐色をした土はかつて存在した長沢炭鉱で掘り出されたボタと思われる。現在は当然ながら一部は鋤き取られ長沢独身寮駐車場の下敷きになっている。

3. 恩田地区の転入者増と子どもの公園需要が追いつけなかった時代背景がある。昭和60年代に入ってグリーンタウンができたとき地元管理の小さな公園が造られた。

4. 夢中になって夜遅くまで花火をして遊んでいたために兄弟共に「締め出し」を喰らうことになった。このときの顛末は「Yahoo!ブログ - 締め出しの思い出」に詳しく書いている。
《 沿線住民の路上駐車禁止措置 》
この市道は全区間駐車禁止になっている。
今となってはまったく当たり前のことで、市の管理する認定市道を駐車場の如く使う態度こそ如何なものかと糾弾されて然るべきだろう。しかしかつてはそうではなかった。沿線住民だけではなく一般的な市民の意識が同様であったはずだし、それ故にこの市道に初めて公安の駐車禁止標識が設置されたときはかなりの衝撃だった。


この先に沢の方へ下っていく右側の分岐がある。この地区道に入るためのカーブミラー前が路上駐車時代の「特等席」で、殆ど常に何処かの車が停まっていた。
現在はその場所はゴミステーションとなっている。


この場所も含めてかつては市道全線にわたって駐車禁止ではなかった。無余地駐車となり違反になりますという旨の表示板こそ設置されても公安が正規に設置した標識ではないので効力はなかった。

現在からすれば市道はみんなのものであり、そこを地域住民が駐車場代わりに使う優先権を唱えるなど許されることではない。しかし平成初期まではこのような細い市道など地元住民が適宜利用できる生活道同然の感覚があった。その裏には道普請や溝普請は地元住民が行っていたのだから、その引き替えに道路の利用となる路上駐車が黙認されて当然という流れだったように思う。

駐車禁止になったのは恐らく側溝に蓋を掛けて暗渠化され、路肩部分まできっちりアスファルト舗装して雑草が生えないように整備した時期に重なると思う。この整備により実質的な道路幅が広がって離合が容易になったし、何よりも地域の面倒な作業の一つだった道普請・溝普請から解放された。生えてくる雑草がないし、殆ど雨水しか流れない溝を浚える必要もない。この流れで町内在住者による道普請と溝普請の習慣は自然消滅した。
やや穿った見方をすれば、この整備を機に「今後は地域の市道も市が管理して住民負担を軽減するから、市民の財産である市道を恣意的に使うことは認めない」とも解釈できよう。

全区間の駐車禁止措置は恐らく予告があったと思う。しかしたとえ予告されたからとて、世の流れとして車が一家に一台から一人に一台へと変遷してきた中、住民の誰もがすぐに対処できる訳ではなかった。当時の家造りはそのような車の保有状況を想定しておらず、全区間駐車禁止に指定された直後は2台目の車を留め置けない家庭が続出した。そこで月極駐車場が随所に造られたのだが、住民や車の増加速度が早く追いつかなかった。何よりも今まで習慣的に路上駐車していたのに新たな費用負担と共に家から遠い月極駐車場へ容易に転換できる筈もなかった。

市道の中ほどに沢の方へ下っていくグリーンタウン向けの地区道がある。この道に入るためのカーブミラー前が路上駐車時代の「特等席」で、殆ど常に何処かの車が停まっていた。


市道全線が駐車禁止区間に指定された後、後述する通り路上の車は居場所をグリーンタウン側の地区道に求めるようになったのである。
詳細な経緯を以下のグリーンタウンの項目にて述べる
《 グリーンタウン 》
情報この記事は恩田町5丁目に住宅地としてのグリーンタウンについて記述しています。
生活道および宅地化以前の地勢についての記述は こちら を参照してください。

本路線の中ほどでこの市道よりも幅が広く整備された分岐路に出会う。


市道分岐点をポイントした地図である。


この道は地区道で、この先にある新興住宅地は当初グリーンタウンと呼ばれていた。同名のグリーンタウンを名乗る住宅地は市内にいくつかあり、住宅地内には児童向けの恩田グリーンタウン公園が存在する[1]が、恩田町5丁目におけるグリーンタウンという呼称は現在も住民に使われているかは分からない。

グリーンタウンが整備されたのは昭和60年代のことである。造成工事は昭和50年代の後半から始まったように思う。住宅地に代わるのと引き替えに昔からの農道は殆ど失われ、生活排水を流す汚い溝はコンクリート張りの水路に置き換わった。一連の工事が行われている間、私はちょうど大学に入ったばかりで下宿生活していたために造成工事の様子は観察できていない。夏休みなど長期休みに入って恩田へ戻ってきたとき、工事が始まっていることを知ったと思う。
沢地の田畑がなくなり古い農道が失われるのは惜しまれたが、宅地開発への反対はなかった。私自身、学生時代は現在ほど地元の景観が塗り変わることについて記録の必要性は感じていなかったかも知れない。デジカメなどまだこの世に存在しておらず自分で自由に使えるカメラも中学生時代の修学旅行に持っていった親父のお下がりしかなく、わざわざフィルムを買ってまで記録しておこうとは思わなかったようだ。

国道沿いにあるスーパーへ自転車で買い物に行くときこの道はやや遠回りだが道幅が広いためしばしば利用した。元から車では通り抜け不可能なので外部から無用に車が入ることがなく、歩行者や自転車が通り抜ける点についてグリーンタウンの住民は寛容だった。
むしろ、先住民である私たちは市道が駐車禁止になってからは車の留め置き場所をグリーンタウンへの地区道に求めて大変な迷惑を及ぼしていた時期があったことを素直に詫びなければならない。

ここが当時特に問題となった場所である。
かつては正面に見えるミラーの手前が路上駐車で最も利用されやすい「一等地」だった。しかし市道が駐車禁止になり、ミラー周辺がゴミステーションとして改変されてからは車がまったく置けなくなった。そうして行き場所を失った車がこの地区道の右端に並ぶようになったのである。


事実として、それまで路上駐車が容認されていながらある日突然、今後は全区間駐車禁止だと宣告されたからとて地元住民がすぐに車の置き場所を確保できる筈がなかった。[2]必然的な流れとして、市道の駐車違反取締りを避けて法的効力の及ばない地区道に向かった。

地区道はそれなりの幅はあるが、片側に縦列駐車されると幅は狭まる。実際、この区間の路上駐車は凄まじいものがあった。特にお盆や正月など地元に帰ってくる人々が増える時期には沢に下っていく直線部分の縦列路駐でもなお収まらず、奥の白いガードレールに沿って停める車も出る有り様だった。
自分も何度も駐車したことがある

当然ながらグリーンタウンへ出入りする住民から車が通りにくくて困るという苦情が出るようになった。これを受けて地区道が沢を下って右へ曲がる突き当たりに「駐車禁止」の立て札が立った。しかし公安が正規に設置した駐車禁止標識ではないので法的拘束力がなく、殆ど何の効果もなかった。
初期には標示板はもう少し高い位置に設置されていた


グリーンタウンは私たちの町内や班とはまったく異なっていたし、暮らす人々の年齢層も違うせいか殆ど付き合いはなかった。
ただ例外が2件ある。お一方は母の方で付き合いがあった人で、私もパソコンのメンテナンス関係でお話をしたことがある。もう一方は私が個人的にネットで知り合った方だった。
当時はまだ数少なかったホームページで地域の情報を書かれている方を見つけ、掲示板でコメントの往来があった。書かれている記事を読んでいてもしかすると同じ町内では…と思い始めていた。その後これほど近くにお住まいと知って驚いたことがある。
一度だけお宅を訪問した記憶がある

今ちょっと調べてみたら、まだ当時のホームページが遺っていた。リンク集には自分が当時造っていたホームページもそのまま登録されていて平成時代ながらタイムスリップしたような不思議な気持ちになった。
もしこのホームページにお気づきになられましたら…その後の恩田町の変遷などお話を伺いたいです
出典および編集追記:

1. 住宅地の奥に恩田グリーンタウン公園(S.61.04)という標示板が設置された地元管理の児童公園がある。


2. 実際にはそんなに突然駐車禁止になったのではなく一定期間の告知があった筈である。しかし半年や一年程度で地域住民のすべてが車の置き場所を容易に確保できたかとなれば疑問は払拭しきれない。
《 おばあちゃんの店 》
グリーンタウン入口の先に平屋のお店がある。
ここが中学1年生の頃よく菓子を買いに行っていた「おばあちゃんの店」[1]だった。
一部画像を加工しています


現在は改装されていて屋号が表示されているが、私が買い物に行っていた頃は確かお店の名前が出ていなかった。店ができたのも私たちが恩田へ越してきた後のことなので、比較的歴史は浅い。

幼少期はまだ市街部以外にはスーパーが皆無で、日常の買い物は専ら個人商店だった。最も多いときで、この近辺から歩いて5分程度で行ける距離にある個人商店が4軒あった。
このお店は昔住んでいた家から最も近かった。扱っていた商品は野菜や菓子類で、当時から甘いモノ大好き人間だった私にとっては「お菓子箱の方から私の家に近づいて来てくれた」ような状態だった。実際、私の嗜好に合うお菓子を切らさず入荷してくれていたのでその菓子に関しては私は「上得意客」だったと思う。

当時の私からしてもお婆ちゃんの域に入る方が店番されていて、しょっちゅう買い物に来る私はお婆ちゃんにいたく気に入られていた。買ったお菓子とは別にリンゴやパンなど「これ持ってお帰り」と渡されたものだった。お礼は言ったけど、照れもあって素っ気ない態度をとるこましゃくれたガキだったような気がする。学校ではろくに女の子にモテないのにどうしてお婆ちゃんに気に入られてしまうんだろう…などと生意気なことを思っていた。
今思い起こせばこの頃から既にずっと年上の女性からしか評価されない男だったのだろうか…

もらったリンゴを母がナイフで切った。多分そういう品種なのだろうけど、芯に近い部分が半透明になっている「蜜入りリンゴ」だった。 リンゴをもらっても「お菓子の方が良い」なんて考えてしまう悪い子だったが、頂き物だから当然一切れ食べた。元々リンゴはあまり好きではないのだが、本当に蜜を掛けたみたいに甘かった。こういうリンゴがあるということ自体、当時の私は知らなかったのである。[2]

最近は滅多にないけど、親元に戻ってたまにリンゴを切って蜜入りだったりするとお婆ちゃんのことを思い出す。
だけど今元気だろうか…どうなさっているだろう…と改めて確かめるようなことはしない。人間、知らないまま心の奥底へ仕舞っておく方が幸せな思い出もある。

だけど常に思う。
これは順繰りだ…
次は自分がそうする番だ…
出典および編集追記:

1. この商店は現在も営業しており「ミキヤ青果」という商号である。しかし私が個人的に買い物へ行っていた頃はまだその商号はなく自分も母も共々「おばあちゃんの店」と呼んでいた。個人的関わりの強さ故にそのまま記事項目とさせていただいた。

2. 最近はそのような状態のリンゴは事故品扱いになるらしく一部のスーパーで「お買い求めになったリンゴがそのような状態であった場合は返品・交換に応じます」という掲示が出ているのに驚いている次第である。
あのようになったリンゴこそ甘くて美味いのを知らないなんてホント可哀想だ
《 短期間利用した月極駐車場 》
当時住んでいた家の車庫には、普通車と軽四が1台ずつやっと入る程度の大きさだった。
私は最初の頃は免許を取っていながら車を持たず、父の車を借りて乗っていた。しかし就職して個別に行動するようになってからは車が必要になったのだが、3台目の車を家に置けず車庫証明が取得できない状況に陥った。

それでやむなく月極駐車場を借りることになった。それがこの場所だった。
契約ナンバーまで覚えていない…なお奥に停まっている軽トラは無関係


あいにくこの駐車場は家からかなり離れていた。そのため仕事に行くにも家からここまで歩く必要があった。急ぐときには自転車でここまで漕いで自転車に施錠し車に乗り換えて出勤…という何とも面倒なことをしていた。

どうにも不便で仕方ない状況を察して親父が庭石を移動し、狭い門扉を撤去して何とか3台目の車を乗り入れられるようにしてくれた。これを機に駐車場契約を解除した。
撤去した門扉は引っ越しの時に親父が運んで裏口の門扉として再利用している
《 源山と思われる丘陵部 》
現地撮影日:2012/4/29
記事公開日:2015/1/27
市道の終点を前にして、向かって左側にこんもりとした草木の生い茂る丘陵地帯がある。


市道に向けて階段がある。
斜面はネットフェンスに囲まれており、私有地かも知れない。


十数段の階段で、市道からは家一軒分の高低差がある。


現在は斜面のすべてがフェンスで囲まれているが、昔は柵がなくその気になれば市道側から上がることができていた。


幼少期からやんちゃで好奇心旺盛だったが故にこの市道沿いで入ってはいけない場所も含めて大概は行き尽くしたのだが、この草の斜面だけは一度も立ち入ったことがない。私だけでなく兄貴や近所の子どもたちがここに入るのも見たことがない。
木々が鬱蒼と茂った状況は昔と殆ど同じだ。特に危険な場所でもなく、その気になれば先の階段を上がって行くことはできる。現在でもかなりの草地になっているが学童期はもっと草丈が高かったように思う。どうして行こうとしなかったのかは後で述べることに関連があるのだろうか…
民家にはブロック塀があるのでこの森状領域は公地かも知れない

高低差が等高線として表記される国土地理院の地図で眺めることによって見えてくるものがある。
長沢には、確かに等高線で確認できる程度の沢地になっており、市道は丘陵部の中腹に沿って進んでいる。そして終点付近には周囲より10m程度高い丘陵部が認められる。
下の図は周辺に対して丘陵部を形成しているピークを中心にした国土地理院地図である。[1]


本路線は市道長沢源山線と命名されており、長沢は確かに起点および経路にある小字だ。しかし終点場所として現れる源山が分からない。源山という小字はこの周辺には存在せず、市内で知られる源山は野中方面に現存する源山墓地くらいのものである。方向が全く異なり、明らかに別物だ。

このことから、源山とは終点付近東側に存在するあの森林領域のピークを指すのではないかと考えている。恐らく終点付近も同じ字長沢で路線名を表現できる地名が存在しなかったか、かつて源山という狭い領域の小字が存在したものの字長沢に併合されたかだろう。もし前者であれば、このピーク部に与えられていた名称ではないかという推論に至る。
そう広くもない沢に「長沢」という小字が充てられる時代のことなら、いくら標高が低かろうと一つのピークを形成する場所はランドマーク的役割を果たす。固有の名前が与えられていてもおかしくはない。現在こそ家が建ち並び見晴らしが利かないだけで、かつて源山とされるピーク部からは今よりも遠くが見渡せていた筈である。

ただ、私たちが恩田へ越してきて数十年間暮らす間、この丘陵部を指して源山と呼ばれるのを一度も聞いたことがない。そもそも毎日お世話になっていながら、引っ越す直前まで市道名さえも知らなかったのである。
コンクリート側溝を設置する工事の名称を記載した看板で初めて市道名を知った

この件については私の親も知らないと答えた。親と私がこの地で過ごした時間は等しいから他に信頼のおける情報を求めるなら、文献かかつてこの地に住んだ人々の証言のみとなる。現代では殆ど重要性のないこの丘陵部の正確な呼称を確認できるとは思えない。遺憾ながら源山が何を示すのか完全に解決できる日は恐らく来ないだろう。[2]
出典および編集追記:

1. 埋め込み地図で対応可能なのだが、2015/1/25以降にリリースされた改訂版でもなお読み込みが非常に遅く、しばしばブラウザがフリーズするのでやむを得ず該当部分を切り出したマップを掲載している。地理院地図による該当箇所の全表示マップはこちらを参照されたい。

2.「防長風土注進案」では該当巻のp.447より主要な山や山野の名が記載されている。しかし並び順から推測しても恩田村に源山は記載されていない。この辺りで人々との関わりが持たれ始めた頃に自然発生した慣用的な地名または丘陵部の名ではないかと考え始めている。あるいは比較的後年になって与えられた地域名かも知れない。
《 何故私は恩田を後にしたのか? 》
私が生まれてから幼少期までを過ごしたのは常盤町だった。幼稚園2回生のときに恩田へ移り住みそこで30年程度暮らしているので、私が今後何歳まで生きようが恩田での生活が最も長いことになる。

この記事を制作する現在より十数年前、私を含めた家族は当サイトでしばしば「野山」と表現している父の郷土へ引っ越すことを計画していた。家が老朽化してきたこと、生まれ育った郷土へ過ごし老後に土いじりを愉しみたいという父の意向があった。野山には親戚が住んでいて居住のための山野地を安く譲渡してくれるというのも理由にあったらしい。しかし土地の取得と新しい家を建てるための頭金捻出には住み慣れた家の買い手が現れるのを待たねばならず、実現はかなり困難と思われていた。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。


何年振りかにこの道へ自転車を漕ぎ入れたのは2009年11月18日のことであった。現地で写真を撮る過程で自分の人生に大きなウェイトを占めた恩田町5丁目に関する記事を遺す重要性に気づき、記事化にあたって必要と思われる場所の写真撮影で数回訪れている。しかしこの道の存在自体が今も私にとって重いため、撮影目的以外で通行することは殆どない。そして一通りの道路レポート向け撮影を終えてからは、意図的に選択経路から外すようにしている。
この理由はかなり明白だ。生まれ育ったこの地がこれ以上に変わり果てた姿になるのを見たくないからだ。特にあの場所が道路から全く見えなくなったことを不用意にも自分の目に焼き付けてしまったなら、暫く立ち上がれなくなるかも知れない。

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