恩田町5丁目の生活道【3】

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(「恩田町5丁目の生活道【2】」の続き)
別ウィンドウのマップを閉じてしまった方はこの「恩田町5丁目・第1区画マップ」を再度開いて下さい。
《 グリーンタウンの道(G→N→M) 》
現地撮影日:2015/1/18
記事作成日:2015/2/9
情報この記事は恩田町5丁目にある生活道の一つとして記述しています。
恩田町5丁目のグリーンタウンについては こちら を参照してください。

既に市道長沢源山線でグリーンタウンの項目を作成済みなので、上記テンプレートで案内する通りこの記事では現在ある道を辿りつつ、グリーンタウンができる以前の昔の地勢や個人的関わりを記述する。
上記のリンク先記事ではこの道ができた後のグリーンタウンと私との関わりを主に記述している

市道源山長沢線の中ほどでこの市道よりも幅が広く整備された分岐路に出会う。
前述のマップではG地点になる。


この道は昭和60年代はじめに造られたグリーンタウンという住宅地向けの地区道である。
かつての長沢という小字が語るように宅地造成される以前は沢地で、西の端を岬明神川に流れ込む松尾水路が通っていた。沢地は一面田んぼと畑で一般人が通行可能なあぜ道も存在しなかった。

市道の分岐点からの変化をみると、私の幼少期は入口角の民家も存在しておらず[1]この近辺の市道寄りはキャベツ畑、沢に近い方はすべて田んぼだった。

キャベツ畑はとうに存在しないが場所の痕跡は今でも遺っている。下の畑より一段高く市道とほぼ同じ高さになっている部分だ。小学校低学年のときこのキャベツ畑でアオムシを籠に採取し持ち帰ったものだった。[2][2012/6/3]


普通車が余裕ですれ違えるほどの幅の道は沢へ到達したところで右へ折れる。
折れ点はグリーンタウンのゴミステーションが設置されている。その横に建っている駐車禁止の看板の意味あいは前述のグリーンタウンの記事で触れた。


右折後、若干道幅が狭くなりそのまま沢の上流部に向かう。


直線路の間で2箇所左へ入る道がある。いずれもグリーンタウン居住者向けの生活道なので、西側にある松尾水路沿いを除いて撮影はしていない。恩田在住期も個人的に訪問する人は居らず内部の通路を通ったことは皆無である。

造成以前の地勢を遺す部分を探すのはかなり難しい。
右側に見えるガードレールの外側にやっと見つけることができた。


凹んだガードレール[3]の先には 沢を横断する方向の水路が見える。
この水路は市道の派生記事で幼少期に私が怖がっていた雨水排水桝の下流側にあたる。


水路は三面張り部分は一部をコンクリートで打ち換えている。集合住宅のある手前から暗渠になっているのは昔からだった。
幼少期に一度くらい苦労してあの雨水排水桝横から降りてこの水路沿いに歩いたことがあるかも知れない。今でも市道長沢源山線の起点付近からグリーンタウンの入口までの雨水は、市道の左側に設置されている側溝に集められここを通って松尾水路に流れ込んでいる。

グリーンタウンの道の左側は当時造られた住宅地だが、右側は私有地のまま遺された。ほぼ同じ時期に地上げされ畑や車庫となっている。


沢を下る道と合流する。
この場所がN地点である。


マップでも上書きされているようにかつてここはT字路ではなく沢を下る道が右カーブする場所だった。詳細は既に公開済みのこの記事を参照。
派生記事: 失われた道★(N'→M)
現在では沢を下る道とグリーンタウンのこの道が交わる場所は殆どフラットだが、およそ想像し難いほど変わっている。2枚上の写真では沢を下る道が緩やかな下り勾配になっているのが分かる。それでもなおかつてのN地点付近は下の田んぼに対して1m以上高かった。この近辺を宅地化するにあたって原地盤より2m近く搬入された土を盛っている。
したがって排水が機能している限り沢地ではあっても水害面での安全性に問題はないと思う

M地点到着。昔からあった沢へ降りる道とぐにゃんぐにゃん道の交わる場所である。かつての道幅は今の半分以下だった。
先には水路を隔てて丸喜恩田店の駐車場が見える。駐車場よりもグリーンタウンの造成地の方がかなり高いことが分かるだろう。


ここよりくじ屋および元恩田バス停方面へ向かう農道については以下を参照。
派生記事: 水路沿いの道(M→Q)
M地点から振り返って撮影。
今となっては穴の空くほどこの写真を眺めていても幼少期の風景はまったく重なり合わない。


現在私が立っているこの位置は昔の田畑より2m近く高い。宅地造成に伴う盛土の結果で、田畑も沢を斜め勾配で登っていく道もこのアスファルトの下に埋もれている。
ここには確かに沢地であることを実感できる眺めが広がっていた。北は国道部分が堰堤のようになって長沢の沢地を横断するのが見えたし、南は市道笹山岬台線が同じく盛土によって沢を横断する部分が見えていた。元々は農作業用の道でもあったので沢地の一番低い場所まで降りる道だった。

春先の暖かくなり始める頃、この辺りの田は一面に蓮華(れんげ)[4]が咲き乱れた。花を摘む女の子の姿もときに見られた。充分に土が乾いていたなら蓮華畑の中にわざと仰向けに倒れて草いきれの感触を味わった。ヘビが出るかも知れないという心配は実際すべきなのだが考えたこともなかった。
夏場は一面が短い苗の伸びる水田となった。稲の背丈が伸びるにつれてカエルがやかましく鳴き始め、その声は私が寝起きしていた2階の部屋まで聞こえていた。夏の暑い夜に窓を開ければカエルの鳴き声が子守歌だった。

時代が下ってグリーンタウンのこの道ができたとき、くじ屋へ自転車で行っていたあの懐かしい道がなくなったことを悔やんだかも知れない。ただ、当時私は下宿生活で宇部を離れていたためまさに昔慣れ親しんだ道や田畑が消えていく現場を目にすることはなかった。

恩田を離れるまでには私たちも丸喜恩田店へ買い物に行くときの選択路となり、いつしか今あるグリーンタウンの道に馴染んでいた。スーパーダイイチ恩田店時代は買い物へ行くときも沢へ下る道か新農道を通っていたので、グリーンタウンのこの道だと家から出て一旦反対方向へ進むことになる。明らかに遠回りだが、車でもM地点までは到達できるほどに道幅が広い。カゴに買い物満載のママチャリでも安心して走れるので最後期では常にグリーンタウンの道を通っていた。

恩田を離れて十数年も経つ現在では今やそれも昔の想い出である。かつてこの沢地がレンゲ畑となる田であったことも、長沢という地名さえも人々から忘れ去られているが、今ある生活道や住宅地もまた新しい歴史を刻んでくれることだろう。
出典および編集追記:

1. その隣りの集合住宅(地図では金剛アパートと記載されている)は恐らく私たちが越してきた以前からあったが、角の民家が建ったのは昭和50年代半ば以降である。

2. 小学校低学年の理科ではモンシロチョウの幼虫からさなぎ、成虫に至るまでを学習した。授業では籠に入れられたアオムシの実物を観察するので、この目的で近くの畑でアオムシを捕まえて学校へ持っていく必要があった。虫かごを持ってアオムシを集めるのは全く平気で素手で捕まえていた。気持ち悪いという感覚はなくこれがあのモンシロチョウになるというだけで可愛いという印象すらあった。
アオムシはキャベツの葉にくっついていて、数が多いときはどうかすると畑に入るだけでアオムシのキャベツを齧る小さな音が聞こえることがあった。アオムシを捕るとき餌の採取も兼ねてキャベツの葉も少し千切り取って持ち帰った。この畑が誰の所有かは全然知らなかったか、春先に子どもがキャベツ畑へ入ってモンシロチョウを眺めたりアオムシを捕まえるのはまったく普通に行われていたことであり、私自身そのことに関して畑の持ち主に怒られたことは一度もなかった。

3. このガードレールは私が車をこの生活道沿いに青空駐車していた時期から誰かがぶつけて凹んでいた。もう15年以上前のことである。恐らく設置されてから一度も取り替えられていない。

4.「Wikipedia - 蓮華
なお Wikipedia の項目では「ゲンゲ」となっているが、植物学上の和名を正式項目名として採用し他はリダイレクトとする方針による。私を含めて周辺では蓮華の実物を見て「ゲンゲ」などと呼ぶ人は誰も居ない。特に私の想い出の中にあるものはあくまでも「れんげ」である。それ故に敢えて振り仮名を添えている。この呼称には地域差があるのかも知れない。
ただし「ゲンゲ」でもレンゲを指すということはもちろん理解できる
《 ぐにゃんぐにゃん道・前半(M→J) 》
現地撮影日:2011/6/26
記事作成日:2015/2/10
マップのM地点は、かつては田んぼを見下ろしつつ南へ進む緩やかな坂道と、東へのやや急な坂道との分岐点だった。このうち坂を登ってJ地点へ至るまでの区間は非常に狭くかつ異様に曲がりくねっていることで幼少期から興味深い道だった。
この道を通るのはくじ屋に行った帰りが最も多かった。往路はここを通らず沢へ下る道を通っていた。遠回りになるので徒歩や急ぎのときに通ることはなく、専ら自転車で遊び半分に通る道だった。
特徴的な区間はM〜Jだが、自転車で通るときはしばしばD地点に出ていたので、ここまでを表題の道として解説する。

ぐにゃんぐにゃん道の開始地点付近。
アスファルト舗装されたことを除けば道幅も線形も変わっていない。


ぐにゃんぐにゃん道は長沢の左岸側をほぼ直角に登っている。したがって勾配は失われた道から沢へ下る道へ接続されていた区間よりもきつい。ただし先述の通りM地点は2m程度昔より高くなっているので、その分坂道の長さは切り詰められている。幼少期はこの坂へ自転車を漕ぎ入れるには坂の手前からかなりペダルを踏み込む必要があった。

あまり目立たないが両側は昔からの石積みがみられる。
舗装される前がどんな路面だったかは覚えていない。


嬉しいことにぐにゃんぐにゃん道の異様な線形は幼少期の頃とまったく変わっていない。
左側は背の高い植え込み、狭い溝を挟んで正面は建築ブロック塀。その塀と溝が左へねじ曲げられている。


最初のこのカーブは異様にきつい。自転車でここを巧く乗りこなすには慎重なハンドル捌きが必要だった。図体も扱う自転車も大きくなった今なら更に徐行しなければとても乗ったまま通れない。

道幅は入口部分よりも更に狭まる。昔から農作業用道として使われてきたいわゆる「三尺里道」に近い。
溝には蓋がなく民家の生活排水を流せる最小限の仕様である。その先で更にうねうねと曲がっているのが見える。


少し進んで右へ30度の折れ線、また少し進んで今度は左へ30度の折れ線である。
この辺りはまだ昔ながらのコンクリート路だった。既に一部が割れて剥がれ溝の上に載せられていた。


ぐにゃんぐにゃん道を記事化するにあたって最初にここを通ったとき撮った写真である。
露出が強すぎて写りが悪いが、幼少期に興味深く感じた部分を撮っている積もりだ。


民家の排水路が塀の下をくぐって通されている。生活道と敷地の境界となる建築ブロックは溝を暗渠化することなくその上を跨ぐように築かれている。そのままだと一番下のブロック塊が溝へ落ちてしまうので、半割りブロックを下へかませている。
民家の敷地からブロック塀などの下をくぐって排水路が現れるのは、雨水以上の生活排水を流していた昭和中期特有の構造である。[1]
このような構造はかつて割と普通に見られていたようで、現在でも恩田町5丁目内にあと一箇所似たような場所が知られる。かつて宇部興産(株)鉄工所社宅があった時代は各戸の中央に排水溝が設置されていた。居住空間に近接して汚水が流れる開渠があった訳で現在ではとても考えられない構造だ。
現在では恩田町5丁目で生活排水を河川放流している家庭は皆無ですべて各戸に汚水管が接続されている。この溝も現在は雨水しか流れていない筈だ。

この折れ点を通過して10mくらい進むと再びアスファルト路となる。
ここで右へ直角に折れ、ぐにゃんぐにゃん道の困難区間はここまでとなる。
進行方向に見えている直線路は行き止まりである


ぐにゃんぐにゃん区間の末端部J地点から振り返ったところ。
イチイの植え込みは今では珍しいかも知れない。割れまくってボロボロなコンクリート路がまた何とも良い感じだ。


要所要所で写真を撮ると分かるように、ぐにゃんぐにゃん道は生活道としてYahoo!マップに掲載はされているが、その線形までは再現できていない。沢から登ってきた場合、最初にヘアピンカーブ急のきつい左カーブ、それからつづら折れとなっている。

断片的な静止画だけでは分かりづらいと思って初期の段階から動画撮影していた。
この特徴的な区間を歩いたときの動画を掲載しよう。

[再生時間: 30秒]


この生活道が複雑な屈曲路となってしまった理由は分からない。坂が急で意図的にカーブを増やしたのとは違うようだ。最初の登り坂はきついのに直線的で、勾配が緩んだ先で屈曲しているからだ。自然発生的に生じた里道を修正することなく両側に家が建ち敷地が定まってしまったのだろうか。
出典および編集追記:

1. 一連の建築構造に関する事実とは別に、何故にまた幼少期の自分が曲がりくねった道とは別にこのような場所へ目を向け興味を持ったかは謎めいているかも知れない。実のところ建築時期は異なるが恩田の家もこれとやや類似した”普通ではない構造部分”があり、それがどれほど珍しいものなのか一般的なものなのかを知ろうと観察していたためと思われる。
《 ぐにゃんぐにゃん道・後半(J→K→D)》
現地撮影日:2015/1/28
記事作成日:2015/2/13
ぐにゃんぐにゃん道の後半部分は至ってマトモなブロック塀に囲まれた直線路となる。
この区間も舗装された以外は昔と同じ幅である。[2011/6/26]


この区間までは四輪が入れない道なので、近接する民家は敷地まで車を乗り入れることができない。車社会の到来後は別の場所に駐車場を確保している。そのような民家がかつて町内にもかなりあったが、近年では解き退かれた家が増えている。次にその敷地が利用される折には近傍の生活道は改変されるだろう。[1]
出典および編集追記:

1. 左側にあった民家は最近(2015年1月)再訪したときには解体されているのを確認した。
マップには反映されていないので×印を上書きしている
(「恩田町5丁目の生活道【4】」へ続く)

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