市道大塩田線・横話

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ここでは、市道大塩田線の派生的記事をまとめて収録している。
《 鯉見橋 》
現地踏査日:2014/4/10
記事公開日:2014/5/9
本路線をスタートして神原小学校の区画を過ぎるところで、学校の裏手に向かう橋に出会う。
写真は小学校の区画を向いて撮影している。


橋の位置を地図で示す。


市道側から橋を撮影している。
橋のスタイルは昔の木造橋を模しているのだろう。欄干部分が軽く湾曲している。もっとも通路部分はフラットなコンクリート床版だ。


橋の幅は四輪が通れる程はあるが、橋から先は神原小学校の裏門に向かう道の一部となっていて車が通ることはない。

河川名の塩田川が漢字表記されている。
今風の金属プレート仕様だ。親柱は通常のコンクリートに擬木仕様の加工を施している。もっとも経年変化でかなり剥げが目立つ。


上流側の親柱は漢字表記で「鯉見橋」となっていた。
何とも洒落た命名だ。


鯉見なんて地名は存在しないから、橋の名前は塩田川に放たれている鯉の見える橋というイメージで命名されたのだろう。真締川に架かるやすらぎ橋と同じコンセプトだ。

橋の上から塩田川の下流側を撮影。
時期柄、サクラの花びらが大量に舞い落ちて水面を覆っていた。鯉が泳いでいるかどうかはさすがに分からなかった。


学校のある敷地側から橋を撮影。


下流側の親橋に平かな表記で「こいみはし」
流れるような平かな自体がまるで泳いでいる鯉のようだ。


竣工年月は平成2年3月であった。


橋から上流側を撮影。
塩田川は街中を流れる河川と言うか水路であり、本路線に沿っているので名前のないものも含めていくつもの橋が架かっている。すぐ上流側にも橋が見えている。


この近辺はかつて常藤とか道ヶ嶋といった小字だった。順当にいけばその地名を冠した橋の名前になっても良いところである。しかし神原町1丁目が現在の住居表示になったのは割と早い。既に昔の小字は馴染みが薄れていたことだろう。更には神原小学校の裏門に通じる登下校路だ。地名の継承を優先させるよりも子どもたちに親しみをもってもらいやすい名前にしたのだろう。

橋の名前はどうやって決まったのだろうか。地域住民や子どもたちによる名称公募で決定したなどの背景があるかも知れない。
《 神原耕地整理の南端? 》
現地撮影日:2017/1/11
項目作成日:2017/6/8
前項の鯉見橋の近くで本路線は数十センチの奇妙な高低差を生じている。
写真は塩田川の上流側から撮影。


この地点をポイントした地図を示す。


下流側から撮影。
橋を過ぎてストンと落ちるような高低差が出来ているのである。


近年になって毎週火曜日の買い物の折にこの道を自転車で通るようになった。普通車が一台やっと通れる程度の道幅でしかも舗装されているとは言え路面の状態はかなり悪い。デコボコが目立つところに鯉見橋のところでは異様な段差があるので、最初のうちは自転車で通るたびに走りづらい場所だとのみ認識されていた。

参宮通り側、即ち本路線の起点側から走行すると塩田川を遡る向きになる。塩田川自体にそんな段差などなく道路だけが鯉見橋のところで数十センチ下がる形になっている。この高低差は護岸を低くすることで埋めている。
思えばこの高低差はとても不自然である。相応な距離をもっての段差ならともかく、写真でも分かるように10m程度の距離で建築ブロック4段分の高低差である。自然の地形ならもう少しなだらかになるので、これは人為的なものではと気付いた。そしてこの段差は神原炭鉱などの閉鉱後の耕地整理で地上げした結果ではないかと考えた。

現在の神原交差点から神原小学校がある辺りにかけては、大正初期まで神原炭鉱が操業していた。終業直後の大正2年では質の悪いボタと周囲の地盤の荒れが著しく、塩田川も川筋が定まらずまともな土地利用ができなかった。土地自体もまだ相当低かったので、このとき梶返方面の高台を切り崩してトロッコで土砂を運び地上げしたことが判明している。塩田川が現在の流路となったのも耕地整理によるものとされている。[1]

神原は南に位置する緑ヶ浜に対しては随分と低い。神原小学校が出来たのは大正12年で、神原耕地のほぼ中央にあって土地が極めて低かったらしい。しかし広範囲に地上げするには大量の土砂が必要となる。そこで学校用地として見込まれる範囲だけ高く盛ったのではないかと推察される。鯉見橋付近でストンと落ち込む段差の原因はここにあるのではと考えたくなる。以上の仮説は同年1月16日にメンバー限定で公表している。[2]

厳密な検証はされておらず今のところ仮説の段階であるが、自然由来の地形とは思えないのでかなり確実と思われる。学校の敷地より南である本路線まで高くなっている理由は説明困難だが、まだ塩田川の川筋が最終決定していなかったからかも知れない。これも仮説ではあるが、神原炭鉱が始まる以前の塩田川は現在よりも北側、産業道路に近い辺りを流れていたのではと推測している。この件については塩田川の記事を参照。
総括記事: 塩田川|歴史
同様の原因かも知れない奇妙な段差は、実は産業道路と参宮通りが交差する神原交差点でも生じていることに以前から気付いていた。このことに関しては神原交差点についての記事を作成したとき記述する。
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」p.53

2.「FBタイムライン|神原耕地整理に伴う盛土の南端?(要ログイン)

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