塩田川

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記事作成日:2016/9/12
最終編集日:2022/5/6
塩田(しおた)川は市の管理する指定水路の一つで、JR宇部線神原踏切の北側で渡内川を取り込み真締川へ注いでいる。
写真は琴芝橋より下流側の眺め。


現在の流路を地理院地図に重ね描きした画像を示す。は上流端、矢印は下流端を表している。
流路のGeoJSONデータは こちら


即ち現在の塩田川の上流端は、恩田から清水川を経て梶返に向かう古道との交点に設定されている。

真締川の支流であり護岸整備で現在は殆ど排水路となっている。後述する鯉の放流活動や琴芝駅付近から宇部線沿いに眺められることから相応な知名度がある。
《 歴史 》
渡内川が現在小路ヶ池に上流端が設定されているのに対し、塩田川では古道より更に上流の流れがある。それらはかなり複雑に枝分かれし、最初期の流路を反映していると思われるが、詳しくは調べられていない。

神原町2丁目以西の直線的な流路から分かるように、この経路は後年の改変である。特に参宮通りから真締川までの流路は、神原炭鉱終業以降の耕地整理によるものである。この流路は後年宇部鐵道が西へ延伸されたときの経路選定に影響を与えた。

最初期の塩田川は現在よりも真締川の上流にあたる県道琴芝際波線樋ノ口橋あたりに注いでいたと言われる。[1]樋ノ口という地名から潮の遡行を阻む潮留め樋門が想起されるが、これは塩田川に関する樋門と思われる。この注ぎ口を仮定するなら、最初期の塩田川の注ぎ口は現在よりも100m程度北側にあったこととなる。

明治期の耕地整理以前に塩田川がどのような流路をとっていたかは客観資料がなく、まだ確定的ではない。神原小学校付近は先述の耕地整理で地上げされているため、[2]北側の尾根を避けつつ現在よりかなり北側を流れていたと考えられている。

以上のことから、神原炭鉱時代以前の塩田川の流路を大雑把に以下のように推定している。
上載せGeoJSONデータは こちら


台地図は昭和30年代に撮影された国土地理院による航空映像、赤のラインは推測される初期の波打ち際である。沢地にはいくつかの補助池があり、小川となって塩田川に注いでいたと考えられる。

平成期の改修以降水量がそれほど多くない排水路となってしまったが、最初期には相応な水量があったようで、梶返に住んでいた道重上人は学童期に塩田川で泳いだり魚を捕ったりしたと伝えられている。[3]
《 流路の概要 》
適宜いくつかの区間に分けて上流から記述している。
【 上流端〜渡内川合流点 】
河川経路図によれば、塩田川の上流端は市道清水川梶返線との交点に記載されている。これより上流側は源山水路となる。管理上の区分に過ぎないため、県管理河川のような上流端標識柱などは存在しない。また、市道の交通量は少ないため欄干や親柱が付属しない簡素なコンクリート床板橋である。


これより下流は渡内川との合流点までほぼ同程度の構造を持つ排水路である。現在の護岸や構造物は、平成初期に塩田川の参宮通りより上流側の護岸改修工事を行った結果である。親水機能も意識して水路幅を拡げ、中ほどに普段は水が流れない通路部分を造っている。したがってこの区間に古い石積みや樋門は存在しない。上流端付近でも標高は満潮時に海水が遡行していたと思われるが、樋門が存在していたかどうかは明らかではない。

転落防止の柵はもちろん随所に架かった橋の欄干などにも擬木が用いられている。水路幅を拡げているため相応な橋となっている場所が多いが、新しく架けられていながら名前が与えられていない橋もある。


下浜田橋を経て神原町1丁目に入ると、テニスコートが整備された中央公園のほぼ中央を流れる。ここから参宮通りにかけては市道大塩田線沿いに進み、橋も公園や学校関連に因んだ命名のものが多い。

河床の両側にはコンクリート通路のようなものが造られている。親水機能を考えて設計されていたようで、河床に降りることのできる階段がいくつか存在する。上流側の水量が少ない区間は富栄養化した土砂が河床に堆積しているからか、季節によっては水生植物が繁茂する。
定期的に河床部の水生植物刈り取りや管理道部の清掃が行われている


参宮通りをくぐる部分は既にボックスカルバートとなっている。上流の東側には県仕様の黄色いガードレールがあるが、プレートが逸失しているため橋の名称や架橋年月は不明である。
数年前までは塩田川と記したプレートのみ遺っていた


参宮通りにまだ一の鳥居が存在していた昭和中期の写真には、コンクリート製の低い橋の欄干が写っている。
【 渡内川合流点〜塩田川ポンプ場 】
参宮通りをくぐって渡内川と合流後、進路を45度ほど振る。
写真は渡内川との合流地点。


合流点よりすぐ下流に極めて豪勢なコンクリート造りの橋が架かっている。
この橋には立派な親柱が付属していながら橋の名前や竣工年月などはいっさい記されていない。


これは神原公園を整備するとき御大典記念事業として架橋したものではないかと考えられる。橋に名前がないのは、通路としての橋というよりは神原公園の一部と考えられたからであろう。最初期の神原公園はここが正面入口であり、昭和中期頃までは川に沿って道が通っていた。現在は橋を渡った先は神原保育園の敷地で行き止まりである。以前は宇部の街を緑に変えるために各種の植物を育てていた神原育苗があり、市関係者はこの橋を渡って出入りしていた。

45度曲がった先でJR宇部線が神原川橋りょうで渡っている。


鉄道の下をくぐった後、更に経路を45度振って参宮通りに対して直角方向に進路を変える。この経路は本来直角に曲げるべきところであるが流下速度を考慮して面取り状に2度曲げたものと思われる。この結果生じたコーナー部分の空き地に神原ポンプ場が設置されている。この設備は専ら汚水処理を担当していて雨水処理は行っていない。[4]

これより下流は市道塩田川線と宇部線の間を直線的に流れる。市道沿いには春先には八重桜や枝垂れ桜が咲くことで有名である。


渡内川合流点より末端部までは両岸に補強のコンクリート通路が施工されているだけで、護岸は石積みのままである。このコンクリート通路部分は一部の橋の直下では途切れており、連続的に歩いて行くことができない。親水機能というよりも両岸を補強することと流路を中央に寄せる意図から施工されたようである。

原田橋の直下には、縦方向の切り欠きをもつ石材が石積みの両側に埋め込まれている。


切り欠きが上流側を向いているので、近接する田に水を引くために堰板を落として上昇させるかゴミの流下を防ぐためのものと思われる。もし前者の意図で設置されたものなら昭和初期に常盤池が大渇水を起こしたときここで堰いて水を逆流させ源山墓地の下で汲み上げていた[5]時期の遺構かも知れない。現在のところまだ裏付けは取れていない。この川幅で堰板を落とせば膨大な水圧がかかり、現地にみられる石材程度で耐えられるかという疑問もあるので、ゴミを防ぐスクリーンを設置していたのかも知れない。

塩田川に泳ぐ鯉は宇部線の列車からも眺めることができる。この辺りは景観上もっとも優れている区間であり、市民にとって塩田川と言えば概ねこの周辺の景色をイメージする。おそらく昭和後期あたりから環境美化が強く意識され、汚れが目立ち始めた塩田川を蘇らせる取り組みがあった。この過程で鯉が放流され育てられている。現在でも宇部線の車窓から塩田川に泳ぐ緋鯉を見ることができる。また、塩田川美化に関する看板は現在の渡内川沿いにも現存する。大雨のときなどに鯉が下流へ流されてしまわないように、河床の随所には自然石を投入して浅瀬を造っている。

新堀橋の下をくぐると、塩田川は僅かに南へ進路を曲げる。この辺りは真締川の流下水面にかなり近い。後述するようにポンプ場があるため海水が遡行することはないが、満潮時には上流からの水が滞留する。


このカーブの半ば辺りの護岸に橋台の遺構がある。これは新川と塩田川、宇部線に囲まれた三角形領域に往来するための橋の跡である。名称は明らかではないが、簡素なコンクリート床板のような橋で昭和40年代頃まで遺っていたと言われる。春日町1丁目との往来に地元在住者によって渡られていた。現在は高層マンションの敷地となっている。

塩田川は寿小橋により市道宇部新川恩田線の下をくぐって塩田川ポンプ場を介して真締川に接続されている。ポンプ場は干潮時には塩田川の自然流下に任せるが、海水が遡行してきた折には樋門を閉め切りポンプで塩田川の水を強制排出している。
《 主要な構造物 》
上流から順に記述している。

名称詳細
---市道清水川梶返線との交点。簡素なコンクリート床板。
塩田橋市道神原町草江線が横切る橋。
---市道清水崎恩田線の交点。名称なし。
下浜田橋市道神原町沼線が横切る橋。
若人橋市道塩田川線沿いにある橋。中央コート内の往来用。
鯉見橋市道塩田川線沿いにある橋。神原小学校裏手の登下校路に架かっている。
---参宮通りとの交点。ボックスカルバートで上流側にガードレールが遺っている。
神原川橋りょうJR宇部線が渡る橋りょう。支間6M60、25K779M80に存在する。
原田橋市道柳町線との交点。名称プレートなし。
琴芝橋琴芝通りに架かる橋。
新堀橋栄町通りに架かる橋。
(遺構)真締川合流点より上流にあった橋。橋台の痕跡のみ遺っている。
寿小橋市道宇部新川恩田線が横切る橋。寿橋と連続して架かっている。
塩田川ポンプ場

塩田川という名称は、河川経路の中ほどで通過する小字に由来している。詳細は以下を参照。
派生記事: 塩田について
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」p.53

2.「FB|2016/8/18のタイムライン

3.「琴芝小学校三十周年記念誌」p.9

4.「宇部市|東部処理区のポンプ場

5.「ふるさと恩田」p.36〜41 をはじめ複数の郷土書籍に記録されている。源山墓地下の揚水ポンプが設置されていたと思われる場所も大まか突き止められている。
《 近年の変化 》
項目記述日:2017/9/23
・2017年5月頃、渡内川との合流地点付近にあった管理用階段に簡素な門扉が取り付けられ、河床にはブロックを敷いて足を濡らさず降りられるようになった。


前述の合流地点の写真で分かるように、以前から階段はあったが門扉がなく虎ロープで簡素に締めきられているだけだった。
ブロックが敷かれているのは階段を降りたごく狭い領域のみであり、連続的に塩田川の上流まで辿ることはできない。親水エリアとして設置するほど水質は綺麗とは言えず、施工の意義があまりよく分かっていない。ただ、このブロック敷きによって前述の重厚な橋の真下を観察することができるようになった。

・2021年の4月から秋頃にかけて春日公園に接する護岸の改修工事が行われた。


写真でも分かるように、この区間の一部で石積みがやや低くなっており、満潮時と豪雨が重なって河川水位が上昇したとき石積みを越えて水が浸透するのを防ぐためと思われる。
《 個人的関わり 》
個人的には特にない。高校時代は自転車の通学路で毎日塩田橋を渡っていた筈だが、橋周辺がどうなっていたかはまったく頓着していなかった。

小野田方面へ電車で家庭教師に通っていたとき、塩田川に鯉が泳ぐのを電車から眺めていた。緋鯉がかなり泳いでいたように思う。現在も鯉は棲息しているが、ありふれた濃灰色の個体ばかりである。

親父が神原より上流部分の河川整備工事を施工担当したことが分かっている。親柱の年号より平成3〜4年頃のようである。転落防止柵などに擬木が用いられているのは当時の流行とも言える。施工時のことを尋ねてみたものの何も覚えていないようだった。

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