市道恩田野中線・横話

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ここでは、市道恩田野中線の派生的記事をまとめて掲載している。

《 出征兵士を送る場所 》
現地撮影日:2012/9/9
記事作成日:2015/1/7
俵田体育館を後にして本路線の幅が狭まった先、常盤水路(上溝)を横断して道路がクランク状に曲がっている場所がある。
写真では前方まさに軽トラが曲がろうとしている場所


概ね直線的に進んできた線形がこの場所で直角に左へ折れる。


この左急カーブを地図で示すとこの場所になる。


左カーブした直後、本路線はすぐ右へ直角に折れる。
直進する細い道も昔からあった道のようだ。
野中の道標がある辻へ出てくる


道路線形としてはこの種のクランクは珍しいものではないが、この場所に関して特筆すべきことがある。最初のカーブに差し掛かる道路左側はかつて広い空き地で、出征兵士を送る場所だったとされている。[1]

生きた時代が違うのでこの場所や本件について私の個人的関わりは何もない。去年ある方から頒布して頂いた資料[1]に記載されていた情報である。
現地は民家の敷地となっていて当然ながら本路線を通過しただけでは当時を知る情報は何も得られない。現代において気付くことがあるとするなら、精々自転車や車では通りづらく見通しの悪い場所だと感じる程度だ。

出征兵士を見送る場所そのものは市内の至る所にあった筈だ。しかし年月が経ち語り継がれることもない情報は必ず消滅する。ここに掲載した情報や資料が何年も継承されるか保証できないが、ひとたびでもネット界へ提出することで私以外のどなたでも記憶に留め、相応に後世へ伝えてくれるだろう。
なお、この場所と次項の石碑との関連性があるかどうかは分からない。

《 日露戦争戦勝記念碑 》
現地撮影日:2013/11/24
記事作成日:2015/1/6
野中公会堂の本路線を挟んだ反対側の路肩に極めて古い石碑がみられる。


拡大した地図を載せる。


本路線は全面アスファルト舗装されていて民家寄りに蓋付きの側溝がある。石碑は側溝に着ける形で立っていた。


石碑の設置年月を示す明治三十七八年戰役という文字が見られた。
石碑としてはかなり古いものながら彫られた文字は今なお明瞭に読み取れる。


この石碑を特徴付けるもっとも重要な文字は道路の反対側、民家のブロック塀との間を向いていて撮影はかなり困難である。
旅順陷落記念と彫られている。
石碑の上部から見下ろしたアングルでの写真はこちら


この石碑は日露戦争において重要拠点と考えられていた旅順を陥落した記念に設置されたもので、一般には日露戦争戦勝記念碑と呼ばれているようだ。[2]明治三十七八年という表記は西暦で言えば1904〜5年である。日露戦争は両年を跨いでの出来事であった。

戦意の高揚を意図した石碑の類は敗戦後多くが壊されたことは想像に難くない。特に一般大衆の集う場からは排除されたり歴史的設置物として案内されない現状がある。[3]そういった中で公道たる本路線の路側に現在なお日露戦争の戦勝を祝う趣旨の石碑がなお生き存えていることは、戦禍に巻き込まれた当事者には快しとしない点があることを差し引いたとしても歴史的にみて貴重である。
あまり広範囲に石碑の存在が知られて排斥運動なんてのが起きないことを願う

もっとも目立つ道路に面した側には何も彫られていない。
石碑の表面には赤錆の流れたような跡がみられる。


[1]によれば国旗などを掲揚するときの支柱として使われたという記述があるので、以前は石碑に沿わせて鋼製のポールが立っていたのではと推測される。直近に公開した居能花正の石碑ではポールはそのままだったのに対しこの石碑は痕跡すら残っていなかった。

側面には野中若の3文字だけが見える。野中若連中のことだろう。地元在住民による寄進と思われる。


野中公会堂に背を向けて撮影。
前方の十字路は市道草江野中線である。


石碑はアスファルトに取り囲まれているので、あるいは地中に隠れている文字があるかも知れない。それと同時に道路に面する側へ文字のない面が向けられていることについて、車が通れる程の道路に整備されたとき意図的に据え直されたのではないかと推測した。
当時の世相としては日露戦争は祝福すべき喜ばしい出来事だった。しかし異国の地を陥落させ領地化したことを祝福する石碑の存在に後年異論が唱えられ、目立たないよう旅順陷落記念の文字が刻まれた面を道路の外側へ向けたのではと考えたのである。

今まで見てきた限り同種の記念碑は市内には知られない。市外まで対象範囲を拡げればこのような戦勝記念碑は一般的なものなのだろうか。
出典および編集追記:

1.「梶返天満宮だより 第42号」”野中のいにしえを語り合う”による。

2.「琴芝ガイドマップ」4番

3. 白岩公園の東ピークに設置されていた忠魂碑は戦後周囲から国粋主義者的だなどの批判を受け身内関係者により人為的に倒壊させられた経緯がある。それほど戦争色が濃くない御大典記念碑ですら、常盤公園の園内に設置されているものは現在なおガイドマップに掲載されていない。

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