山口宇部道路・未知の跨道橋【9】

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(「山口宇部道路・未知の跨道橋【8】」の続き)

その後時系列では迫田にある里道の坂を自転車押し歩きで近道し、市道丸山黒岩小串線へ出た。
写真は後岡ノ辻バス停付近の映像である。


便宜上こちらも参照用のインデックスを付けておく。
《 岡ノ辻側の里道 》
現地撮影日:2015/10/3
記事公開日:2015/11/1
同様に地理院地図で分岐点を示す。


この場所だ。砂利が敷き詰められているごく狭い帯状領域が残っている。


初期の探索時にこの場所は一度訪れていた。自転車を停めて先を窺おうとまでしていながら進攻せず引き返している。あまりにも私有地の臭いがしたことと近所に子どもの姿が見えたからだ。

上の地図の右下にある+を押して最大限にズームすると、市道の同じ側から90度方向に伸びる進入路も記載されている。このことから現在地を正しく確定できる。
幅の広い枝道はこの部分だ。


外観からおよそ推察されるようにこの幅広の通路は民家への入口である。念のため入口からちょっと先まで覗いたものの庭先で行き止まりになっていることだけを確認し引き返した。

そうなれば如何に信じがたいと言えどもこれがあの跨道橋へ繋がる里道と考える以外ない。


最初訪れたときはまだ地理院地図で位置関係を把握していなかった。今や国有財産の払い下げ処理などがなされていない限り、これは間違いなく里道だ。

幸い周囲には人の姿が見られなかった。
里道の外側の舗装されている部分は私有地になるのだろうが、ちょっと自転車を停め置かせてもらうこととして…


冒頭で既に結果を述べているものの、地理院地図でこの経路を確認した直後は「これで解決した!」と思った。市道からの分岐部分は狭いながら里道の態を保っており、このまま進むだけで安泰にあの跨道橋の上へ到達できるものと確信していたからだ。
少なくとも私有地立ち入りという最大の懸念材料が払拭されたなら、少々道が荒れていようが進攻するだけの大義名分がたつ。

片側は民家のコンクリート垂直壁、片方はごく低いコンクリートで仕切られていた。
通路の幅は1m未満。いわゆる三尺里道で里道のなりとしては普通である。


地理院地図では橋へ至るまでに等高線を横切る部分がみられる。確かにその描写の通りで緩やかな登り坂になった。
左側のL型擁壁の立端が次第に低くなることで分かる

この擁壁の端までやってきたとき異変は突然に現れた。


道がない。
里道両側にある敷地の端にあたる場所だ。
そこから突如足元が荒れ始め、その先は畑に繋がっているようだった。


民家の畑地とは境部分も不明瞭で空き地には車が停まっていた。
もはや何処が里道なのか分からない。


足元の雑草は膝上にかかるほどで地面がまるで見えず…とても踏み込めたものではなかった。


振り返っての撮影。
ここまでキチンと砂利を敷き詰めた通路のようになっていること自体が信じられない。


既に里道でなくなっている可能性を思えば断念せざるを得なかった。
ここからの進攻は時期を問わずとても無理だ。


里道が失われていた最終到達地点をポイントした航空映像を参照してみよう。


航空映像を見る限りではこの地点から民家一区画分の区間がもっとも荒れているらしく里道の痕跡すら窺えない。しかし次の民家の裏手には比較的明瞭なラインが窺える。恐らくそのまま直線的に跨道橋まで到達しているのだろう。

こういう塩梅で迫田・岡ノ辻両側からの進攻は、共に里道としての態を成していない状況で進行不可という結果に終わった。
したがって南側にある跨道橋の上には今もまだ到達できていない。この経路は私有地の絡みもあって安泰に通行できないし跨道橋からも遠い。迫田側から強引に斜面を登るか、初期に北側の跨道橋へ到達したときと同じく山口宇部道路の車道から向かう以外ないだろう。
いずれも充分に藪の勢いが衰えてこの方面を再訪したときということになる。南側の跨道橋へ到達できたなら続編を作成しよう。

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ここからは山口宇部道路の跨道橋と言うよりはむしろ生活道・その他の道セクションへ収録すべきだが、記述量がそれほどないので続けてここに収録している。将来的には移動するかも知れない。
《 一連の里道の存在意義について 》
記事公開日:2015/11/1
地理院地図で眺める限りでは、南側の跨道橋を通るこの里道は既に到達済みの北側を通るルートよりも頻繁に通行されていたのではないかという仮説が立てられる。それは地理院地図に現在も明確な経路として記述されているという理由の他に、床波と上宇部を徒歩で往来していた行商人にとっては最短距離となる経路だからだ。

子落とし坂の麓部分、市道迫田長谷線の起点との分岐から上宇部に向かう場合、子落とし坂を経て岡ノ辻へ出るよりは失われた里道を通るのが最短距離である。ただし現在では四輪も含めて子落とし坂を通る経路が最も有効に活用されている。
迫田から岡ノ辻の高台へ登るのは、上宇部方面へ向かうにはかなり無益な経路である。前述したように岡ノ辻から後岡ノ辻へ向かうとき高度を10m程度下げるので、遠回りになるだけではなく余計なアップダウンの労力を強いられているからだ。それにも関わらず子落とし坂のルートが四輪も通れる道として今も継承されている理由としては、岡ノ辻の交差点付近が早くから交通の要所として開けていたからではないかと考えられる。

市道丸山黒岩小串線の総括記事でも言及しているように、亀浦から岡ノ辻へ尾根伝いに進む道は周防國と長門國の国境道であり、古くから通行されていた。その過程で岡ノ辻は道中の最高地点近くにあり、床波や阿知須方面からの行商人が歩く道と近づく地でもある。遠回りで厳しい坂を登ることにはなれど、一旦岡ノ辻に寄って休憩したり海産物を卸すなどのメリットがあったのではと思われる。

相応な往来需要があれば、当然ながら道は整備され狭い場所は拡げられる。特に馬で荷を運ばせたり大八車を牽いたりするなら、三尺里道では対応できない。子落とし坂は後年拡げられたが廃された跨道橋経由の里道はそうではなかった。単一の目的地のみに用事があれば、できるだけ短時間に到達したいのは昔も同様の筈である。特に上宇部方面にのみ用事があるとか、荷を背中に担いで徒歩で向かっていた行商人、そして近場に住んでいた人々が近道として歩いていた道なのではと考えられそうなのである。

現状では床波から上宇部方面へ向かう同様の道としては迫田坂経由のみが生き残っている。そして上宇部方面にある宇部高校へ自転車通学する学生は現在もその経路を最適化ルートとして通行しているのは興味深い。
出典および編集追記:

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