黒岩開古道【3】

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記事公開日:2015/12/30
(「黒岩開古道【2】」の続き)

去年訪れて進攻不可能だと絶望した酷い藪は、その奥にある幅広な古道を隠す蓋に過ぎなかった。短い藪区間を堪えて進めば再び秀麗な道が現れ、殆ど労することなく郷土史に謳われていたあの石柱を見つけることができたのだ。

石碑セクションからも参照される予定なのでインデックスを付けて記述しておく。
《 黒杭村の私設道標 》
それは平坦な道の続く端に据えられていた。


反対側から撮影。この辺りで道幅が一番広くなっている。
左側の下っていくように見える部分に先ほど見つけた溝があった。


推察だが、場所はこの辺りではないかと思う。


目標物のない場所であり、地図に記載された枝道も詳細な位置関係を調べてはいない。ただ、ポイントした地点から東北東には等高線が深く切れ込んだ沢地がある。これは道標にまみえる直前に目に留まった溝ではないかと思われる。[1]

正面からの撮影。
墨入れはされていないので文字部分の濃淡がなく判読は困難である。


もっとも[1]により刻まれている文字などはすべて記録されている。表面の道標部分は以下の通りである。
右 うべ大小じふちまがり
左 大さわかめうら
道標の表面の拡大図はこちら…

裏側に文字は何も刻まれておらず研磨もされていない自然の状態だった。
この色彩の花崗岩は近場では産出しないので別の場所から持ってきたのだろう。


横からの撮影。
ここには設置者の名と設置年月が刻まれている。
道標の表面の拡大図はこちら…


これも極めて判読しづらいが内容は以下の通りと分かっている。
明治十四巳 黒杭 勝治郎建
明治十四年とは西暦では1881年で、黒杭村としての戸数も安定してきた時期と思われる。
勝治郎とあるのはかつて黒杭村に住んでいた岡田勝治郎氏であり、字仙台にある黒杭村の墓地に同氏の墓がある。この道標は川上校区において設置された当初の状態を保っている唯一のものとされている。[1] 換言すれば道標自体は現在もいくらか伝えられているものの、それらの多くが後年の宅地開発や道路の拡幅などでオリジナルの位置から移転されている。

道標の指し示す方向は、正面から見た場合の左右である。しかし常識的に考えて元からの一本道の途中に道標が置かれることはない。旅人は目的地あってその道を歩んでいるのであり行き先は概ね知っている筈である。少なくとも三差路か一般には辻になる場所に置かれる。別の道からやってきた人がこの道標を目にし、それぞれ目的地に向かって大小路や亀浦方面に歩くだろう。
この場所は黒杭村の南の端にあたるので、黒杭村の集落中心部からこの古道に出て来る地点だったのかも知れない。そうなれば道標から逆に辿って黒杭村の方へ下っていく道があるのでは…とも思える。

しかし現地では道標を一通り撮影後、更にその先を追い求めていた。
この先はどうなっているのだろう…このまま開側まで抜けられるのではないだろうか。


道標のある広場を過ぎると道幅はやや狭まり明白な下り坂になった。


道幅は変わっていないと思われるが横から張り出す雑草が目立つ。
写真ではまだ小さくしか見えないがこの時点で正面に塩ビ管が積まれているのを見つけた。


枯れ草に隠れて見えないだけでそれは道端にも積まれていた。


それは一昨年のこと開側から進攻したときにも見た覚えがあったので、この時点で開側の前回到達地点は近いと確信した。

正面に塩ビ管の山が見えていた場所を過ぎると視界が開けてきた。
ここまでは間違いなく来た覚えがある。


下り坂はここまでで道は平坦になった。進行方向へ下る沢地が見えていて分水界を越えたことが理解された。
「日照がある区間は藪化する」の定石通りこの辺りも下草が繁茂していて道の正確な経路が分からなくなっていた。
しかしどうもその先の状況がおかしい。一昨年ここまで来たときとは変わっている部分があったのだ。


この先に見てきたものは一応、派生記事の形で切り分けておいた。時系列としては続いている。
派生記事: 里道の通行障壁について
この障壁の手前から振り返って撮影。
一昨年の1月に開側から進攻したときはこの辺りで自転車を停めて歩行踏査に切り替えていた。


そして上の撮影位置から数十歩進んだところで一体何処まで続くやら分からない藪に挫折し引き返している。今まで見てきた通り、もうあと百歩程度我慢して突き進んでいれば道標に出会えていた筈の場所で引き返していたのだった。
藪漕ぎ物件での引き返しによく起きる現象だが結果論であり強引に突き進むのが良いとは必ずしも言えない

一昨年に開側から到達した場所まで出て来たことを確認できたので、敢えて先へ進む必要はなかった。今回は自転車ではない。車を黒岩側へ置いて歩いてきているのでそのまま引き返した。

さて、道標を見つける直前に気になっていたものがある。
この広場から斜めに下っていく道とも溝とも言えぬものだ。


それはややカーブしながら片倉の方へ下っていた。
道にしては造りが荒い。幅が狭いし勾配もきつい。


溝の中には枯れ枝が散乱したり倒木が上を跨ぐ形で塞いでいたので、中を歩かずに上から観察しつつ下った。


最初にズームで観察したとき溝の先に石積みのようなものが見えた気がした。しかし…そこには人工物は何もなくそこで沢地は急に抉れていた。


ズームで窺っていたものは恐らくこれだ。
人の手が加わった形跡は何もない自然の蛇紋岩だった。


沢と言うよりは急斜面で一面に枯れた竹が積もっている。先に道の形はないし何処へ向かうやらも想像つかなかった。


そもそも明白に道では無い部分を歩いているので、深入りする気が起きなかった。山野は大抵誰か所有者がある。そういった場所を歩き回ることについて殆どの土地所有者は快く思わないという最近の傾向があるので。元の古道へ向かって引き返した。

この溝状部分のもっとも深く削り取られている部分を撮影。
木が根を下ろしている部分より1m以上掘り下げている。


後から思えばこれは溝ではなく道だったのではと考え直している。[1]酷く荒れているのは通る人が居なくなっただけという理由だろう。自然の降雨が削るにしてはあまりにも幅が狭くて深い。しかし今回は報告を受けて黒岩側から追加調査を行い、通行できたのみならず道標を見つけることができたというだけで成果としよう。

来た道をそのまま引き返す。どの踏査の場合にも当てはまるが帰り道の方が早くて短く感じられる。先の状況が分かっているのと分からないのとでは心理的距離も異なる好例である。初回訪問時では絶望的な酷い藪に思えた区間も今となっては藪のうちにも入らない程度だ。ホイトプルーフなウェアの助けもあり、通過に何の困難もなかった。

しかし改めて地図と実際の歩行過程を比べるに、黒岩側の進行不能部分と開側の進行不能部分は隣接しているという程に近くはない。一昨年は黒岩側・開側の進行不能地点は極めて近接していて10mもないのではと予想していたが、実際には200m程度離れている。そして進行不能地点の内側は延々200mもの藪漕ぎ区間となっているのではなく、ごく短い藪で塞がれた内側には郷土史の写真にあるのとまったく同じ幅広の山道が閉じ込められていたのだった。

晴れ間が広がり気温が上がってきた。日照のあまりない古道とは言え寒さ対策が過剰だった。
ネックウォーマーの下は汗びっしょりだ。


市道に停めた車へ戻ったとき時刻はまだ正午を20分ばかり回っただけだった。憩いの家ワークショップの受付開始までまだ30分以上あった。しかし時間が足りず途中で退散するよりは余る位の方が良い。時間が余ったときのために別の訪問先も念頭に置いていた。次の記事が完成したら、時系列記事としてリンクで案内しよう。

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以上のような状況で、確かに黒岩と開を相互に連絡する割と高規格な古道が存在し、その最高地点付近に黒杭村在住者による私設の道標も確認された。この古道に接続される枝道の追跡調査は行うかも知れないが、大きな変化が加わらない限り本編の続編記事が作成されることは多分ないだろう。
出典および編集追記:

1.「歴史散策かわかみ」p.72
なお、上記書籍では「黒杭村集落から南西方向の坂道を登ったところの旧道に黒杭の道標はある」と記述されている。このことから本編で見つけた溝のような部分は黒杭村の中心部へ下っていく道かも知れないと考えた所以である。

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