恩田町5丁目の生活道【2】

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(「恩田町5丁目の生活道【1】」の続き)

別ウィンドウのマップを閉じてしまった方はこの「恩田町5丁目・第1区画マップ」を再度開いて下さい。

《 新農道(C→H)》
現地撮影日:2013/11/24
記事作成日:2014/4/17
旧道のあるC地点から沢地へ降りる道は、前述の見かけ上の農道の通行を禁止した代替措置として造られた新しい生活道である。


先述の旧農道は駐車場接続部分付近が本来は私有地で、買い物客が勝手に通ることで農道のようになっていた。推測だが、私有地内通行を防ぐことも兼ねてキチンとした生活道を造ったのだろう。この道が造られるのとほぼ同じ時期に旧農道の駐車場付近に柵が設置され通行禁止の札が掲示されている。
道ができた正確な時期は分からない。沢地に最初のスーパーであるダイイチ恩田店が営業している間は誰もが普通に旧農道を通っていた。丸喜恩田店に変わって駐車場が再整備された折りに国道へ出ることなく買い物へ行ける道が欲しいという要望があったのかも知れない。気が付けば道ができていたような気がするので、大学時代に下宿していて市内に居なかった時期に起きた変化と思われる。

旧道との取り付け部分はほぼフラットだが、かつてはこんな状態ではなかった。旧道の項目でも述べたようにこの場所は元々道路から田んぼまで2m近い高低差があった。崖ではないが昇降する場所がない急な土手状態だった。今や旧道沿いは月極駐車場となっているので、この付近は少なくとも2m近く地上げしている。

フェンスから下の溝を覗き込めば当時の田の高さが推測できる。以前はこの近辺すべての田が溝と同レベルだった。


この溝は長沢を流れる松尾水路の支流先端部の一つである。田だった時期はあるいはこの上流部を堰いて水を回していたかも知れない。もっとも下流に向かうにつれて溜まり水のようになっている汚い溝だった。左側の石積みは昔からのもので、そこから沢に向かって段々高くなっていて離れて見ると城壁とお堀のような眺めだった。

現在は田ではなく畑になっている。
しかしこの道ができて自転車で買い物に行っていた時期までは間違いなく田んぼだった。


元が田だったので春先から夏場には水が張られる。幅が1m程度のそう広くもない農道なので先を歩いている人を追い越そうとしてバランスを崩すと水田の中へ転落する恐れがあった。

買い物客の往来需要があるので、町内にある生活道としては珍しくすれ違う場面もあった。
そのようなときはこの折れ点で少し幅が広がっている場所で待機したものだった。
今でも自転車の買い物客が同じ事をしているだろう


この場所は当然ながらスーパーができる以前は田んぼの中であり、田の持ち主以外は接近できない。先ほどの旧農道から畑一枚挟んだ遠目にお堀のような城壁が見えるだけだった。

折れ点から眺めたところ。
松尾水路の上流端に近いこの付近で石積みが屈曲し、幼少期でも見たこともない空間を形成していた。


この場所は長沢にスーパーや新興住宅地ができる開発が入る以前のままの状態だろう。それでいて接近できない場所だったため、詳細に観察したのは恩田町5丁目の生活道を写真に記録し始めたここ最近という奇なる場所である。松尾水路の関連記事として別途撮影し記事を作成する。
派生記事: 松尾水路の末端部
(記事が書き上がり次第リンクで案内します)

農道の後半部分は既にスーパーの駐車場の一部にかかっている。
スーパーダイイチ恩田店時代はここまで駐車場ができていなかったかも知れない。[1]


H地点に到着。
旧農道の末端部と一致する。


振り返って撮影。
この場所は旧ベスト電器恩田店(現在はBOOK・OFF恩田店)の建物の裏側になる。駐車場とは1m以上の段差があるため直接の往来はできない。旧道および国道部分からは家屋一軒分の高低差がつている。


先述の通りスーパーダイイチ恩田店時代は自転車で旧農道を通っていた。丸喜恩田店へ変わって通路がこの新農道に付け替わってから何度か通ったものの、買い物帰りでママチャリのカゴに商品を入れたまま通るとすれ違うとき不安定なため、後年はグリーンタウンの道を通るようになった。

出典および編集追記:

1. 丸喜恩田店になってからはスーパーの買い物客がダイイチ恩田店時代に比べて激増した。もしかするとこのときグリーンタウンの方からも往来できるように松尾水路にコンクリート床版橋を架けたり駐車場を拡張したかも知れない。
《 失われた道★(N'→M)》
記事作成日:2015/2/8
グリーンタウン内を通る道との交点にN地点がある。
現在はT字路状態になっていてここまでグリーンタウン整備時に車も出入り可能なだけの道が造られている。


総括でも述べたようにかつてここは沢へ下る道が直角に曲がる場所で元々は一本道だった。ここより低い位置は宅地化されるとき相当量の土砂が投入され既存の農道はグリーンタウンの道に吸収されたため昔の面影はない。第1区画マップに描き込まれているN地点付近を内回りする細い線が概ね昔の道である。

かつてこの場所がどうなっていたか…脳裏には大体の映像があるのだがそれを的確に表現する手段がない。上の写真では沢へ下る道がグリーンタウンの道に取り付く舗装部分が斜めに接合されているだろう。概ねここで沢へ下る道は90度曲がっていた。この場所でなお下の田んぼとは1m以上の高低差がついていた。そこから現在のグリーンタウンの道に沿う形で一定勾配で下っていきM地点で高低差を解消するのである。
現在はグリーンタウンの道のM〜N区間は宅地内なのでフラットである。しかしM地点では下を流れる松尾水路との高低差がかなりついているので、今あるグリーンタウンの住宅地は以前の田んぼを1m以上盛土で地上げしている。かつては農道の路面と排水路の流下水面の高低差は数十センチだった。[1]

失われたM〜N区間を何とかして映像化しようと稚拙な手でイラストを描くことを試みた。
私の技量では精々この程度だ。殆ど伝えることができないだろう。
90度曲がり地点を俯瞰する仮想アングルから描いた積もり


実際にN地点からM地点まで歩いたときの道は幅が1m以下で下地は薄茶色の粘土系、左側の田んぼは草の生えた土手状だった。砂利道ではないので雨降りの後は若干ぬかるんだ。自分を含めて自転車での往来も結構あったからか、よく轍がついていた。右側も一段高い畑地があって農道との境には目隠し用にやや背の高い灌木が植えられていた。

この農道を通った住民は少なくない筈である。しかし私が思い出せるのはここまでが限界だ。現地の写真を撮っている人などまず居ないはずで昭和49年度の当時の航空映像で上空からかすかに窺い知るのみである。頭に思い浮かべた映像を視覚化できる技術が開発されれば良いと願うのだが…[2]
出典および編集追記:

1. 長雨が続いて沢地の水がはけ切れなくなるとしばしば松尾水路の水があふれて農道の上を浸した。

2.「FB|40年前のN地点付近の映像(要ログイン)
《 沢へ下る道(N→P→L→E)》
現地撮影日:2013/11/24
記事作成日:2015/2/9
沢へ下る道は現在では先述の新農道グリーンタウンの道を含めて3本ある。しかし学童期では沢の方へ下って横切り恩田バス停まで至るメインの農道だった。後述するぐにゃんぐにゃん道も同じく昔からある道だが、幅が狭く曲がりくねっているため遊びで通るだけだった。行きと帰りで同じ道を通ることが多かったので沢へ下るのも沢から登ってくるのもほぼ同回数である。しかし体感的には帰り道となる登りが当時の状況をよく思い起こさせてくれるので、ここでは沢地から市道方向へ辿って写真を撮った。

N地点より少し進んで撮影。
アスファルト舗装されたことと一部の民家が消滅していることを除いて、道のなりや両側のブロック塀などは学童期と同じである。


頻繁に通っていた生活道ながら沿線の住民とは馴染みがあまりない。住民の入れ替わる借家は町内には少なかったので殆ど間違いなく当時の住民がそのまま暮らしていらっしゃることだろう。


馴染みがないというのもかつて私が住んでいた家からはかなり近い距離ながら班が異なるからである。町内で行う溝普請などでは顔を合わせる機会があったと思われるが、学童期の自分は参加を求められていなかった。何さんの家とか姓は一部分かるものの離れるにしたがって全然知らない方もある。換言すれば私個人もうちの家族も近所の誰それが云々といった情報に関して頓着しなかったことの現れ[1]だった。

両側を衝立のようなブロック塀に囲まれた区間。この区間は学童期に個人的な想い出がある。
自分の歩く足跡が奇妙に甲高く反響するように聞こえるのであった。


何故そうなるのか理由が分からなかったもののこの現象は小学校中学年時代あたりには経験的に知っていた。今ならかなり明白だろう。ブロック塀が平行に設置されていて足音が反響しやすいからだ。普通なら足跡は四方八方に発散し減衰するのでその一部が聞こえるのみである。この道は適度な幅があって双方のブロック塀も充分に高い。このような場所だと靴から発生した音が拡散せず平行なブロック塀の間を往復するので音が尾を引くこだま現象が起きる。面白いと思って歩くときわざと靴裏をペタペタと打ち付け反響音をたてた記憶がある。
永く通行した生活道だとこのような些末な現象でも記憶に残っているという好例だ

道は失われたN'地点のカーブから緩やかな登りになっている。その途中で右側にごく狭い分岐路がある。ここがP地点だ。


ここにも生活道があったのだが、通行需要がなくなったのか廃道同然な状態になっている。


しかし狭いから通らないというわけでもなく幼少期は他の道よりもむしろ頻繁に通っていた。別途記述する。
派生記事: 衝立の道
(記事が書き上がり次第リンクで案内します)

P地点で振り返って撮影。


更に進んだところに今度は逆方向に伸びる道がある。


L地点である。
総括記事で書いた小路部分で、この先にぐにゃんぐにゃん道から出てくるK地点がある。


この小路へ接続するL地点から市道へ接続するまでの10m程度が何故か未舗装路として遺っていた。
片側は植え込みのままである。この低木は当時生活道と民家の庭先を仕切る典型的アイテムと言えた。
現在でもそう珍しいものではないが数は確実に減っている


この区間だけ舗装される遺されている理由は恐らく土地利用の絡みだろう。先方左側には普通車のお尻部分が見えている。この場所には平屋が3軒並んでいたのだが、もっとも市道寄りの1軒は私たちが恩田を去る前に解かれた。その後暫くコンクリート基礎部分が残ったままになっていたように思うが、やがて月極駐車場となっている。
駐車場部分は未舗装でロープで区画のみ仕切られている。この状態だと生活道部分を舗装すれば雨が降るたびに土砂が流れ込んで掃除を要するだろう。舗装せず砂利道のまま置いた方がむしろ管理はしやすい。

市道長沢源山線接続部より振り返って撮影。ここがE地点だ。
今やブロック塀のある側も家が解かれ駐車場となっている。
駐車場となったのはここ数年の間のことと思われる


途中で若干の屈曲はあるが正面に見初変電所の鉄塔群が見える。沢へ下る道を歩く間ずっと同じ角度で見え続けるため、ここからのアングルの眺めは特に記憶に残っている。
特に変電所構内引き込み用のNo.31鉄塔の見え方
出典および編集追記:

1. 父も母も若い頃田舎育ちだった。地方部では近所付き合いのない人に関しても誰それが就職したとかお嫁に行ったなどという私的イベントを伝播されやすい傾向があり、そういう風潮を嫌っていたことが背景にある。
(「 恩田町5丁目の生活道【3】」へ続く)

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