恩田町5丁目の生活道【5】

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(「恩田町5丁目の生活道【4】」の続き)
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《 衝立の道 》
現地撮影日:2015/1/18
記事公開日:2017/5/12
恩田5丁目の第1区画マップに直接描き込んでいるようにF地点P地点を直接結ぶ狭い道が存在する。
この道は現在どういう扱いになっているかは分からないが私の恩田在住期には里道で誰でも自由に通ることができていた。特に学童期自転車でくじ屋へ往来するとき必ず通る部分で、くじ屋街道の一部分であった。通行は私だけではなく、当時まだ恩田交差点寄りにあった恩田バス停へ往来するときはうちの親も歩いて通っている。
マップで言えばF→P→M→Q…のようになる

現在は通り抜けが物理的にも困難で一部は私有地になっているかも知れないので、両端から支障ない地点まで進行して撮影している。記述日が些か後ろにずれているが、過去に撮影した写真を元に記事作成している。
なお、衝立の道というのはこの記事のために適宜つけた勝手呼称であり、住民はもちろん私個人も学童期そのような呼び方をしたことはない。
【 F地点側 】
項目作成日:2017/5/9
この場所は市道長沢源山線の途中、宇部興産恩田独身寮下の住宅地へ降りる地区道の付け根から北側へ折り返すような経路として存在する。
現在のF地点付近の様子。


このように現地撮影時の時点で道の部分を含めてコンクリート貼りとなりその奥は砂利敷きの駐車場となっている。かつて私の幼少期から学童期にかけては通行可能な道で、白いコンクリート部分は手前が未舗装路、市道に寄る側を含めて木造平屋が存在していた。

まだこの三角地帯に家があったときの写真。
民家の玄関横は未整備で普通に通れる状態になっていた。[2009/4/10]


上の写真では現在の駐車場より高く、土砂が流れ込んでいるように見える。実際、これは長期間かかって上を通る市道斜面から流れ落ちた土砂である。幼少期から学童期にかけてここをよく通っていたから覚えているのだが、当時はこれほど高くなかった。隣接する住宅地への進入路の境には低い建築ブロック積みがあるが、最初期はその側面の数段分が見えていた。
このような状況だと雨が降る度に市道の斜面が削られて土砂が流れ込むことになる。冒頭の写真では市道の沢地側にも小さな側溝が設置されているが、これは雨のたびに沢地へ雨水が流れ込むという苦情を受けて平成期に入って市が施工したものである。側溝に沿うアスカーブも同じ時期の施工であった。

現在でもこの通路部分に水が流れ込むことに変わりはなく、塀に沿ってU字溝が据えられていた。


砂利敷きのスペースを過ぎると旧来の里道の一部が遺っているのが見える。
そこは三角形の土地にあった平屋とその隣りの家との境界にもなっている。


里道沿いのブロック塀は高さが2m程度あるが、内側の敷地は現在地より1m程度高い。この高さは数軒で構成される民家すべてに共通である。ブロック塀の下には汚水桝のようなものが造り付けられている。

桝には蓋がなく建築ブロックを流用した正方形状になっている。
この桝はここの分譲住宅地が出来た昭和40年代のものだ。


今でこそ雨水のみの処理になっているが、昭和期は何処の家庭でもそうであったように家庭排水を流し込んでいた。このため大変に汚く、ボウフラやイトミミズの発生源となっていた。現在は蓋がないが悪臭がするため当時は木の蓋で覆われていた。生活排水を流す限りヘドロが溜まるので2週間に一度くらい当番でこの汚水桝を浚えなければならなかった。数回作業を手伝ったことはあるが、後年しなくなったことからこの桝の普請はブロック塀の外側にある民家で構成される班が行うようになったと思う。昭和期の溝普請については以下を参照。
派生記事: 町内の行事|溝普請
雨水排水の樋が繋ぎ込まれているので、現在も雨水処理としては機能しているようだ。しかし泥が流れ込むこともないので恐らく現在は溝普請はしていないと思われる。

この辺りは私の幼少期と殆ど変わっていない。
ブロック塀の真下に少し掘り下げた形の排水溝がある。


道はやや下っているため、左側のブロック塀は出発点よりも高くなっている。
右側はすぐに民家の建屋である。


現在は庭先の低木が大きく張り出していて安泰には通行できない。
下地も草ボウボウである。既にここを通行する人は誰も居なくなっていた。


ブロック塀の形態から分かるように、この辺りの宅地化の順序としては最初期に右側の家があり、昭和40年代にこの左側の塀を築いて住宅地としている。元々が低い沢地に面していたためか、現地盤より1m程度持って宅盤を造っている。この通路は恐らく昔からの里道だったため、この細い部分のみが取り残される形となったらしい。

無理やり通れないこともなかったが、傍目にも草ぼうぼうの中を歩くと不審者に思われそうだったので一旦引き返した。


現在はこの道の開始地点から敷地を含めて全面的にコンクリート張りされていることから、恐らく払い下げを受けて駐車場敷地として組み入れられたのだろう。
もっとも里道部分を含めて自費でコンクリート張りにしている可能性もある
【 P地点側 】
項目作成日:2017/5/12
草だらけの区間は通らずに反対側へ移動している。
沢へ下る道の分岐点である。奥までアスファルト舗装されているがもちろん初期は未舗装だった。


この電信柱も最初期はなかったような気がする。写真左側の民家も最初期にはなかったので、敷地にしたとき電柱を移設したのかも知れない。
右側の建築ブロックは上部に笠部分が備わったタイプである。この民家は先ほどの住宅区画が整備される以前からあった。

こちら側からも下りになっている。
流れ込んだ砂が溜まって下り坂の最後の方は平坦路に変わっていた。


電柱の先には道を横切るように建築ブロックが一段据えられている。
当然ながらこれは最初期にはなかった。


このブロックは高い方から流れてくる雨水を桝へ導くためのものと思われる。この先にある民家は衝立の道と同一平面上にあるので、雨のとき敷地に水が流れ込まないように据えたのだろう。

大人の目線なら右側のブロック塀の天端が僅か下側に見える高さである。
幼少期は当然ながらブロックの反対側が見えず衝立の間を通るような感覚だった。


左側のブロック塀の敷地と昔からあった民家との境目あたり。
ここで右側のブロック塀がクランク状になっている。


雑草に埋もれているがここにも雨水の溜め桝がある。
先にみた溜め桝と同様に定期的に砂泥を浚える必要があった。


この場所を既存の地図で示すとポイントされた地点となる。


第2の桝があるこの場所が道中ではもっとも低い。したがって塀の外側に落ちた雨水はこの桝へ集まる。そうなると雨水は何処にも行き場がないように思える。


しかし実際にはここの排水は通路に対して逆勾配になっている。この場所にある桝から方向を変え、民家の敷地下を通る排水管を介して松尾水路に繋がっている。[1]


逆向きから撮影。くじ屋に行くときは何度もこの眺めを目にしたものだった。
下地はアスファルト舗装されているが道幅や高さは昔から変わっていない。子どもが自転車に乗って通り抜けるのには何の困難もない幅だ。


数年前、初めてこの道へデジカメを持って入ったときの写真。
このときは奥の方はまだそれほど荒れていなかった。


アジサイの葉がまだ目の高さに見えている。後述するようにこの低木は誰も伐ることなくそのまま伸び続けて里道を塞ぐ形となっている。
出典および編集追記:

1. 溜め桝がこの民家の庭端に存在する。地目ではいわゆる青線の筈なのだが恩田在住期に登記簿の写しを請求したときには青の記載はなかった。昭和40年代に宅地造成された折に暗渠化され、溝普請の用がないので特に切り離されることなく民地の一部へ取り込まれているものと思われる。私有地にあるため、上流から流れる砂泥を一人で浚えなければならなかったようである。
【 本項目記述後の変化 】
現地撮影日:2017/5/12
項目作成日:2017/5/13
2年振りに現地を訪れたところF地点側に大きな変化はなかったが、P地点側では通路上に生えた灌木が大きく育ってまったく通り抜け出来ない状態になっていた。


建築ブロックに挟まれたまま残っているので現在も里道(赤線)であると思われる。

いずれこの衝立状に残った部分は完全に埋め潰されるかも知れない。しかしその場合でも通路に沿って排水管が埋設されているので、桝部分だけは今と同じ位置に遺るだろう。

(「恩田町5丁目の生活道【6】」へ続く)

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