恩田町5丁目の生活道【6】

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(「恩田町5丁目の生活道【5】」の続き)

位置記号の示す場所については「恩田町5丁目・第1区画マップ」を参照して下さい。

《 水路沿いの道(M→Q) 》
現地撮影日:2015/1/18
項目記述日:2017/5/13
沢へ下る道とぐにゃんぐにゃん道が交わる先、松尾水路の上流部に沿って西へ向かう道がある。
この道は恩田バス停やくじ屋に向かうときよく通った道だった。ただし現在は沢地にグリーンタウンを始めとする新興住宅が造られることで沢へ下る道の後半部分が失われ、沢地自体も2m程度地上げされていることから道の線形以外の要素は昔のものは殆ど残っていない。

M地点の様子。南東を向いて撮影している。
直進すればやや急な坂を経てぐにゃんぐにゃん道に向かい、右折すれば現在はグリーンタウンの住宅地内を通る道となる。


上の写真において昔の姿をとどめているものは左側に僅かばかり写っている石積みのみである。それ以外の排水路から道から殆どすべてが昭和60年代以降の改変を受けている。特に現在店舗の駐車場となっている場所の端と今いる道とは高低差がついているが、先述の通り昔は2m程度低くフラットな道だった。その分だけどちらへ進むにしても坂道が長かったことになる。

幼少期および学童期にこの場所へ立ったときの状況となれば、くじ屋へくじを引きに行った帰り道であることが多かった。寄り道せずサッと家に帰るならここで右へ曲がって緩やかな坂道を登り、暇潰しにぐにゃんぐにゃん道を通るなら助走して真っ直ぐ坂へ向かったものだった。バス停への往来は当然徒歩だが、くじ屋は小学校中学年からは自転車で行っていたと思う。農道は両端に草が生えていて人が通るところは粘土に近いような真砂土だった。田んぼとは高低差が殆どなかったため、大雨になると排水路の水があふれ出て冠水していたし、それでなくても粘土状のため雨上がりにはぬかるみが出来た。このぬかるみは天気が回復して固まるとしばしば自転車の轍の跡がそのまま遺り歩きづらかった。

遺憾ながら現在では道を撮ろうにもカメラを向けるべきアングルがない。松尾水路の上流部となる排水路を隔ててスーパーの駐車場で買い物客が往来しているし、反対側はすぐ民家のブロック塀で何も見えない。

Q地点に背を向けた状態で撮影。
水路はここが合流点になっている。この道を通って買い物に行く客の便宜をはかって水路にはいくつものコンクリート床版橋が架かっている。


水路の流れ方は昔と同じで、現在の道に沿った水路と、それより太くて国道の方から流れてくる水路があってここで合流していた。しかし最初のスーパーが出来る以前は排水路で田が仕切られていたのみで橋はまったく架かっていなかった。

合流地点から東を向いて撮影。
農道自体だった当時の道幅は今あるより狭く、当然ながら見渡す限り田んぼだった。


沢の下流側が見えるようになった場所で少しばかり昔の眺めが再現される。
見初変電所と引き込み鉄塔(No.31)だ。


変電所に最も近い引き込み鉄塔は概ね背丈が低く特異な形状をしている。この鉄塔も私が幼少期に恩田へ来たときから変わっていない。そして上の写真のアングルからの眺めを一番よく記憶している。
詳細は送電鉄塔見初線の項目で記述する予定

農道の線形は水路の手前で軽く屈曲して直角に横切っている。現在はコンクリート床板となっているが、宅地造成が行われるまでは花崗岩の石橋だった。
【 石橋★ 】
項目記述日:2017/5/13
反対側から撮影。
農道の線形は当時とほぼ同じだが、下の水路に対してこんなに高くなく元は1m程度低かった。


上記の写真ではコンクリート床板となっている部分は、かつて花崗岩を平板に加工した形の石橋だった。
既に存在しないので大体近い感じのものを掲載する。写真は厚南塩屋台自治会館の横にある御撫育用水路に架かる石橋である。


写真は4本掛けになっているが実際はこれより若干一本当たりの石材の幅が広い3本掛けだったように思う。長さはこれより若干短かった。恐らく両岸はきちんと橋台部分を造った上に架かっていたと思われるものの、しげしげと観察したことは一度もなく覚えていない。

花崗岩で造られた石橋は重量物なので、水路改修時もそれほど離れていない場所へ転がされたままになっていることが多い。しかし近くにそれらしきものが発見されておらず、広域の宅地造成時に搬出され処分されてしまったものと思われる。

防長風土注進案によると、長澤土橋として長三尺幅三尺のものが3ヶ所、恩田石橋として長壹間幅四尺が一ヶ所という記述がみられる。この農道が昔からの道であることに疑いはないが、恩田の中心部は現在の国道ないしは更に北へ寄った側なので、この石橋は土橋3ヶ所として記載されているうちの一つではないかと思う。

元の状況を保存しているのは上の写真の向かって右側にあたる地盤の高さのみである。松尾水路自体が字長沢と字中長沢の境になっていて、右側の中長沢側は緩やかに高くなっていく丘陵部だった。水が回せないので一面キャベツ畑になっていた。排水路自体は畑に沿って僅かに屈曲していた。
長沢側はすべて田んぼで、水路にそって田を造るとき余った粘性土をねぶり着けた土手状だった。したがって正規に歩ける道はなかったが、溝普請のときはこの土手を伝って下流側まで泥を浚えていたようだ。溝普請に参加した記憶はないものの土手を伝ってこのどぶ川を下流へ歩いたような記憶はある。

橋の上から排水路の下流側を撮影している。
今や完全な三面張りのコンクリート水路となっている。線形も直線的に修正され昔の面影はない。


この近辺の航空映像は国土地理院などが時期を変えていくつか採取しているが、当然ながら現地の写真はない。グリーンタウン以前の在住者は記憶を留めていることだろうが、私を含めてそれを映像化する手段がなくいずれ過去のものに葬り去られる運命である。

(「恩田町5丁目の生活道【7】」へ続く)
出典および編集追記:

1.

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