松尾水路

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記事公開日:2015/4/13
最終編集日:2021/11/14
松尾(まつお)水路とは恩田運動公園の野球場付近から南下し恩田町5丁目を流れる市の指定水路である。[1]
写真は恩田団地の端、丸喜恩田店駐車場付近を流れる現在の水路合流点の状況。


呼称の松尾とは長沢の南側にかつて存在した小字による。もっともこの水路について個人的関わりがあった時期はその名をまったく知らなかった。便宜上、この記事および誘導される記事内では恩田町5丁目内を通る昔から個人的関わりのあった区間を松尾水路として記述している。

河川や主要な用水路ならともかく、何処にでもあってそう美しくもない排水路が記事になるものだろうかという疑念は当然抱かれるだろう。それも幼少期からの個人的関わりの深さによるものである。そのことを記録するためにこの水路の名称が分からなくても当初から記事化する予定があった。

私がこの水路の存在を知ったのは恩田町へ越してきて間もないことだった。
説明として、恩田町5丁目の生活道でも用いた第1区画向けマップを流用する。記事化を予定しているのはこのマップに現れている太い水色部分である。


個人的関わりがあるのは国道190号から現在の丸喜恩田店駐車場内を通って合流点へ至る経路新農道C地点から民家の石積み下に沿ってM地点へ至り合流する経路と、合流点から農道が横断するQ地点とその少し先までである。
国道190号以北も水路が続いていることは分かっていたが先を辿ったことは一度もない。また、Q地点から南も田と水路を仕切る土手状態で道はなく、当時農道に架かっていた石橋から眺めていただけである。
上記マップには現れていないが、松尾水路の下流は草江1丁目の宇部協立病院北側で、赤岸の沢を南下してきた中川と合流し岬明神川として現在の宇部岬駅方面へ流れている。

以下、それぞれ区間に分けて現在の様子を映像で解説し、改変が行われる以前の昭和40年代後半頃の風景と個人的関わりを記述する。
《 国道〜合流点 》
上流部は丸喜恩田店の駐車場南側で枝分かれしている。合流点となる位置を中心にポイントした地図を示す。


現在のこの区間の様子。
スーパーの駐車場を分断するように沢地のほぼ中央を流れている。


有刺鉄線で囲まれている部分が見初線No.30鉄塔で、この部分の高さは当然ながら昔から変わっていない。
スーパーの駐車場自体も水路より1m以上高く、盛土した上で側面を練積ブロック積みとしている。この付近についての昔の状況を以下の記事に書いた。
派生記事: 国道交差部付近
農道より下流側は後述するように西側へ寄せて流れているのは水路の付け替えに依るものかも知れない。実際、合流地点と国道の間は当初から水路の両側が田んぼとなっていたわけではなく、一部は荒れ地のまま長く遺っていた。
水路の上流部東側と国道に挟まれた部分は昭和50年頃まで葦の生える荒れ地のままだった

当時既に国道横断部は函渠化されていたもののそこから合流点までは自然の小川同然の開渠だった。小川の幅は通常の流下状態で60cm程度で粘性土をねぶり着けた土手状態だった。土手の弱い部分は人が歩くだけで崩れてしまうために岸辺部分に木製の杭を打ち、長細い竹を半割にしたものを杭の前後へ交互に通すタイプの簡易柵で補強されていた。
国道から水路沿いに下る正規の道は昔からなかったが、鉄塔の保守点検業務目的で土手の上を歩いて行けるようにはなっていた。国道歩道部からの高低差は2m以上あったものの水路沿いに歩いたことがあるので、何処か子どもでも降りられる場所があったと思われる。

この水路を辿って歩けば合流点に到達するが、当時は北側から来たとき何処にも橋がかかっておらず対岸の農道へ到達するには溝をジャンプで跳び越えなければならなかった。合流地点では水路幅は通常水位で1m程度あり、幼児期の自分にはとても飛び越えられる幅ではなかった。水路や農道を隔てて田畑の持ち主が異なっていたからか往来需要がなく特に橋がなくても不便はなかったようである。

上の写真付近の場所で幼稚園児か小学校低学年期のとき水路の土手部分に積まれていた砂を溝の中へ投入してダムのようなものを造ろうとしていて叱られたことがあった。遊園地の砂場にあるような感じの砂だったので、上流から流れてきて堆積した砂を浚えたのだろう。子どもの目ではダムを造ってみたいという単純な興味に過ぎなかったのだが、せっかく苦労して浚えた砂を再び投入して水路を塞ぐなどとんでもないことであり、ましてただっ広く目に着きやすい場所だったので何処の誰か知らない大人がやってきてかなり厳しく怒られたのだった。[2]
《 C地点〜M地点 》
地図には記載されていないが、実際には古くからあった民家の石積み下をお堀のような形状で上流に向かっている。合流地点〜M地点までは1m程度の幅があって殆ど流れがなく淀みになっていた。この石積みは当時のままである。
ただし石積み下のコンクリート部分は当然ながら水路補修後のもの


M地点から上流側は城壁のような石積みの下を流れていて水路を挟んだ反対側は縁まで歩ける余地もない田んぼだった。外観は昔の城にみられるお堀のようであり、接近する手段がまったくないこともあって幼少期からかなり興味をそそられる区間だった。特に石積みの北側は農道からはまったく見えず、登下校のとき歩いていた旧道からも一部しか見えなかった。

スーパーへ降りる新農道が造られたときこの石積みの近くを通るようになった。そのときは既に水路を調べたくなるほどの興味がなく、幼少期から未知だったこの区間を詳細に調べたのは最近のことである。
写真は幼少期接近不可能だった場所の一つ。


この場所は後日詳細な写真を採取している。以下を参照。
派生記事: 石積みの裏側区間
上流部はC地点へ向かうにつれて段々と細くなり、C地点では殆ど溝同然でこの状況は現在とあまり変わらない。
小学校の下校時は道路の右側を歩くので、自分の背丈よりはるかに深いこの溝は怖い場所だった。
写真はC地点付近


更に上流部はかつて国道と市道の間に存在していたガソリンスタンドの裏手を同様の溝として流れていた。ガソリンスタンドの裏側は白いコンクリート壁で、溝の反対側は畑地だったと思う。先を辿ったことはない。
《 M地点〜Q地点 》
水路沿いが農道となっていた部分である。くじ屋や恩田バス停へ行くとき通った道沿いなので、この水路をもっともよく観察できていた区間だった。
写真は現在の当該箇所の様子。


両区間は水路・農道ともにゆるやかにカーブしており、当時のままを保っているのはこの線形だけである。写真では随分と深みのある水路となっているが、住宅地になるとき農道を含めて水路から沢地の下流側を2m程度地上げしたためである。
沢の上流部でありながらスーパーの駐車場の方が1m程度低くなっている

排水路として沢地の最も低い場所を流れていたので、個人的関わりの薄かった上流部はともかく以下に記述する範囲では固定井堰は昔から存在しなかった。[3]専ら田畑へ充てた灌漑用水の余剰水と雨水、そして昭和後期までにおいて生活排水も流していた。[4]国道側から流れて来る方の水量がM地点を経て流れて来る水よりも多かった。特にM地点〜合流点は水路としての勾配が殆どないせいか先のお堀と同様常に淀んでいた。C地点から流れて来る水も少ないため水の入れ替わりに乏しく、この区間は底が見通せないほどのヘドロが溜まり黒ずんでいた。
幼稚園時代か小学校低学年のとき、この道を歩いて帰っていて友達と溝をジャンプし跨ごうとして足が対岸に届かず、どぶの端へ足を突っ込んでしまったことがある。長靴を履いていたが膝下くらいまでヘドロの中に埋まり、友達の手を借りて引き揚げてもらっている。何とか涙を堪えて家まで歩いて帰ったものの玄関にたどり着くや大泣きした記憶がある。このときの詳細な状況は過去に外部ブログへ書いている。
外部ブログ記事: 子どものころ、はまった遊びはコレ!
この区間のほぼ中ほどで国道を横断して流れてくる本流部と合流する。水路が三つ叉状になっているイメージは恩田水路の三つ叉部分に近い。合流点から下流側も水路の勾配がほとんどなく流れは極めて遅かった。梅雨時や豪雨で上流からの流れが多くなると農道部分まで水に浸ることもあった。小舟を浮かせて追っていく遊びを愉しむような水路ではなく、先述の幼少期の想い出とも相俟ってとにかく汚いどぶ川という否定的なイメージしかなかった。それでも現代では両岸が草の生えている自然の土手という水路を見つける方が難しく、この水路も今やC地点から下流の一部しか土手部分が遺っていない。

Q地点で農道はこの水路を横切る。当時は花崗岩3本掛けの石橋が架かっていた。この石橋は沢地が住宅地開発されたとき解体され場外搬出処分されたらしく石材は見つかっていない。この石橋は防長風土注進案に掲載されていると思われ現在確認中である。
《 Q地点〜グリーンタウン公園 》
グリーンタウン後に造られた新興住宅地への出入りにコンクリート床版橋がいくつか架けられている。


松尾水路を横切るコンクリート床版の上から下流を撮影。


下流側から撮影。


この直線部分について変わらないのは大体の経路のみである。かつての姿は現在グリーンタウンの通路となっている部分や家屋部分すべてが田で、水路沿いにはねぶり着けた土手があるだけであぜ道程度の歩ける道もなかった。また、松尾水路より西側は長沢の田より一段高くなっていて一面キャベツ畑だった。この様子はグリーンタウンの通路より対岸側の駐車場敷地の方が若干高くなっていることに現れている。
住居表示改定で恩田町5丁目となるまでは合流点から南側へ下る経路は字長沢と字中長沢の境界だった。沢地を田んぼとして整備したとき有効利用するため水路を西側へ寄せて付け替えたのかも知れない。
現在でも恐らく町内会もしくは班の境になっている

汚れが酷く特に合流点から下流側は幅が広くなり流れる汚水の量も増えるため半年に一度くらい溝普請と称して班から数名清掃要員を出さなければならなかった。浚えたヘドロの量も膨大で夏場などは悪臭を発した。我が家では親が参加していたので自分は一度も溝普請に参加したことはない。

水路はグリーンタウンの端で暗渠化し地元管理の公園下をヒューム管で通じている。


この付近で松尾水路はやや中長沢側から張り出した部分を迂回して流れている。暗渠化されたのはグリーンタウン公園の設置時と同じと思われる。以前は開渠だったと思われるものの幼少期に下流側をたどって歩いたことは一度もなく詳細は分からない。
《 グリーンタウン公園より下流側 》
幼少期に辿ってはいないが下流は迂回部分を経て沢地の東側に沿って南下する。
写真は迂回部分を下流側から撮影している。


市道笹山岬台線の下をくぐって五十目山町入りしてからは赤岸の沢を下る中川と合流する。この地点は平成期に新興住宅地が造られた折りに函渠化され地区道の下を通っている。その後岬明神川として市道上中堀岬線の函渠として宇部岬駅付近へ到達している。

2015年のはじめにグリーンタウン公園下流側の管渠から市道笹山岬台線までを調査している。この付近はかつて長沢炭鉱のボタが積まれていたことが知られている。
出典および編集追記:

1.「宇部市|宇部市防災マップ」の恩田校区防災マップに松尾水路の表記がみられる。上流端部や経路については「宇部市河川水路図」による。

2. 小川へ故意に土砂などを投入して流れを阻害する行為は現代でも殊の外重い処罰が設定されている。灌漑用水や排水路における水の流れが重要視されていた時代の名残りとも言えるだろう。

3. ただし土手の両端に木製の杭を打ち込んで堰板を落とし隙間部分に農協で売られている肥料袋を挟み込んだ私設の堰は見たことがある。

4. 特に汚水管布設の遅れた恩田町5丁目の一部の班では平成の初期までこの水路に生活排水を流していた。

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