村松沖ノ山の岩脈

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記事作成日:2019/6/28
最終編集日:2023/4/2
白土海水浴場より更に東へ進み、行き止まりの道を奥まで進んだところから浜辺へ出た先に周囲との色や形状が極端に違う帯状の露岩がみられる。
写真は2020年の再訪時の撮影。


この場所は今まで数回訪れていながら気付いておらず、2019年6月に海の風景を撮りに来たとき初めて見つけた。場所は村松海岸において字沖ノ山より海側になるので、暫定的に村松沖ノ山の岩脈として現地を時系列的にレポートする。なお、現地への行き方は末尾に記載している。
《 現地の映像 》
地区道の行き止まり地点から浜辺へ出て海の方へ歩いた。この日は特に目的をもってここを訪れたのではなく、青空が広がり天気が良いから海の写真を撮っておこうというだけだった。

砂浜から真っ直ぐ海の方へ歩くと…黒々とした村松に特徴的な岩場の中に薄茶色をした岩が混じっていることに気がついた。
写真ではやや分かりづらいがやや右寄りの岩


始めに見えていたのは一つの岩だったのだが、近づくにつれて同じ色をした岩が帯状に伸びていることが分かった。明らかに周囲とは異なる岩だ。


色の異なる岩のところまで到達すると…そこには何とも言えない奇妙な光景があった。周辺とは色や質が異なるだけではなく、その岩は東西に向けて綺麗な帯状に伸びていたのだ。

周囲は平坦なのでこの違いが分かるように撮影するのに苦労した。
陸地に向かってカメラを縦に構えた状況がこれだ。異なる種類の岩が割り込んでいるのが分かる。元々の岩より砕けやすいのか、なくなった部分に海水が溜まっていた。


その帯状の岩が何処まで続いているのか…岩に沿って西に歩いた。
それは元からあったと思われる黒々とした岩と共に海中へ沈んでいた。


西の端から太陽を背にして撮影している。これが一番全体像が分かりやすい写真だろう。
幅4m程度にわたって周囲とは異なる岩が入り込んでいる。永年波に削られたせいか露岩の平均的な高さは周囲とあまり変わらない。


岩の質や色はこれほど異なっていて、接する部分はきれいな平面を形成していた。


境目に近づいて撮影している。
黒っぽいのは村松ではごくありふれた筋状の岩で、割り込んでいる岩はそれよりかなり明るい薄茶色である。


明るい岩の表面は緻密で、割れた断面が至る所で平面的である。


磯の岩といえば不定形のごつごつしたものがイメージされる。ここで観た薄茶色の岩の断面は平面で構成されているものが多く、現れている部分はピラミッドのような形をしたものが多い。色調は異なるがここより西寄りの白土海岸の端に平面的な岩が見つかっていた。

この場所から東寄りの岸辺を向いて撮影している。
周囲には同様な色調の露岩はまったくない。ところどころ見られる同じ色をした礫石は、ここの露岩が波に洗われて散らばったものだろう。


帯状の岩はどこまで伸びているのだろうか。
東の端へ向かって歩いてみた。


足を濡らさず進める東側の端である。帯状の岩は浅い角度で海中に向かっていた。
浅い波で洗われて金色に光るのがとても美しい。


午後訪れて東へ向いて撮影することで、西日を受けてちょうど良い塩梅に反射していた。
間断なく岩の上を洗い流す海水も西日を浴びてガラスのように光り輝いていた。


その様子を撮影しながらふと思った。
この金色に光り輝く岩場って別の場所で観たような気がする…
すぐに思い出した。それは東岐波の端、若宮海水浴場のすぐ東側の岬付近だった。あの辺りでは逆に村松のような黒々とした露岩が殆どなく、ほぼ全体が薄茶色をした岩場である。ややピンク色がかった岩もあった。それは日の山に登ればごく普通に観られる岩と色も質的にも一致する。

海水に洗われる岩は、濡れ加減で元々の色合いがより強調されて見えた。
平面的な岩の表面には石英と思われる粒々が目立っている。これは私が勝手に霜降山系と呼んでいるあの石質そのものである。


宇部市南部の海辺に近い山野では、霜降山を代表格として主にこのような種の岩で構成される。石英と雲母と長石から成る花崗岩である。含まれる素材の比率によっては風化しやすい性質を持ち、ぽろぽろと砕けて真砂土となる。同じ花崗岩でも恐らく比率が異なることで緻密で堅い岩にもなる。そういった岩が割れるときは何故か不定形ではなく平面を形成するような割れ方をする。

この海岸にある薄茶色の岩は堅い部類のようで、亀裂が入っている岩の多くが平行線を形成するような割れ方をしていた。
この結果、砕けて生じた礫石も平行六面体のような形をしているものが多い。


これと同様な直線的亀裂の入った露岩は、持世寺川城生原川など霜降山の裾野の沢地で容易に見つけられる。外観の形状や色調が類似しているので、この海岸にみられる貫入した帯状の岩は、日の山と類似した成り立ちを持っているのではないかと思った。

即ち元々は村松特有の黒々とした露岩主体であったものが、遙か昔の地殻変動で大きく割れ、そこから染み出て(あるいは噴き出て)きたマグマが冷えて固まって出来た…という感じだろうか。あるいは元から村松特有の露岩に断層や亀裂が生じていて、そこへ地下からの圧力を伴ったマグマが押し広げて出てきた…など。この辺りの精密な分析は地質学の基礎がない私には当面無理な話だ。
《 現地踏査前の分析と踏査後の考察 》
実はこの場所は航空映像で以前から気付いていた。地理院地図の過去の空撮映像でこの帯状部分が鮮明に見えていたからである。
出典:地理院地図 1975年撮影の航空映像からキャプチャ


白土海岸との境になる砂州や東側にも似たようなものが見られるが、この場所の直線的構造は特に目立つ。ちょうど岬部分で露岩が海に突き出た部分を直線的に横切っているので、露岩の多い浅瀬を迂回する面倒を避けるために、舟が通れる幅で岩を削った人工的な小運河ではないかとみていた。

普通ならその程度のことで100m近くも岩を削るとは考え難いが、この辺りから東岐波にかけてはかつてレンガ製造が盛んで、完成品を船に積んで出荷していた背景があった。[1]頻繁に舟が往来するので労力を省くために舟の通れるバイパス路を掘ったのではと考えていたのである。しかし海の中のことであり検証は困難と思われていた。

今回この岩脈を見つけたのはまったくの偶然で、先の航空映像で見ていた直線的構造はまったく頭になかった。舟の通れる直線的な小運河の存在を仮定していたものの、その正体は溝ではなく周囲と色の異なる岩脈であったことで否定的に解決された。それでも長さ100m程度にわたって周囲と異なる岩が貫入している様子は現地で観てもすぐ分かる存在で、人が岩を削って出来た人工物ではなく自然の産物であったというだけでも驚くに足りる。
【 投稿に対する反応 】
帰宅後、運営しているFBページへこの題材を提出したところかなりの反響があった。[2]以前紹介した床波漁港の端にみられる床波の洗濯岩は、記事などで紹介する以前から知っていたという人があった。しかし村松のこの場所にある岩脈は知っていたというコメントがなく、床波の洗濯岩と同様地区の郷土マップでの紹介もされていない。上のように航空映像を参照することで「何か奇妙なものがある」と認識していた人はあるかも知れないが、干潮時に現地へ行かなければ直接確認することができず、殆ど知られていないと思われる。
【 マップによる紹介 】
更にその後の調査により、この岩脈が西岐波ふれあいセンターに掲示されているイラストマップで「凝固溶岩(干潮時)」として記載されていることが判明した。
このイラストマップ自体は2014年に画像でデータ採取していた


したがって航空映像で全体像を眺められるようになる以前から、この場所に特異な海岸地形があることが知られていたようである。
《 近年の状況 》
2020年11月度のサンデーうべコラムにおいて、Vol.54として「遙か昔に掘削された小運河?」を記述し提出している。コラムでは航空映像で海の中に溝が見えているのを見つけて岩場を近道する航路と考え、その後現地を訪れて岩脈だった経緯がそのまま紹介されている。

冒頭に示した画像は再訪時のものであり、初回踏査時よりも岩脈の色調がやや黒ずんでくすんでいる。その後数回訪問したが、初回撮影ほど明るい岩脈の撮影ができなかった。短期間で自然にこうした色調変化が起きるとは考え難いので、油などが流れ着いて付着したのではないかと思われる。
《 現地へのアクセス 》
白土海水浴場前の道(市道西岐波東海岸線)を東に進む。吉田川を渡って進むと右側に小さな吉田ポンプ場が見えてきて市道はそこで左へ折れている。


この三差路をポイントした地理院地図を示す。


直進する地区道には「この先行き止まり」の看板が出ている。道幅は狭いが途中に2箇所ほど広めのスペースがある。車の場合はそのいずれかの場所で端に寄せて停めるようにする。

一番奥で行き止まりであり、そこより先の私有地(徒歩なら通り抜けて構わない[3])を介して浜辺へ出られる。


岩脈はここより真っ直ぐ海へ向かったところにある。潮が高いと海水に隠れると思われるので、宇部周辺を潮見表で参照してできるだけ潮の引いた時間帯に訪れた方が広範囲を観察できる。
【 付随する話題 】
東岐波地区は昔からレンガ製造が盛んな地であった。そのことを象徴するように、この地区道沿いには他の地域では見たこともないような特異なレンガによる塀と建屋がみられる。私的案件なので記事化は予定していないが、この方面での関心がある人には一見の価値があるだろう。
村松の海岸を訪れることにしたのはこのレンガの撮影も一つの目的だった
出典および編集追記:

1. この場所より東側の海岸には製品を出荷していた船積み場跡の遺構がいくつか知られている。

2.「FBページ|2019/6/24の投稿

3. かつて私有地であることを明示する看板が出ていたが当初から立入禁止にはなっておらず自由に海岸へ出入りできていた。

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