伝説のピアノ(スタインウェイのピアノ)

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記事作成日:2019/5/28
最終編集日:2020/3/7
宇部市において伝説のピアノ[1]と言えば、2019年現在において渡邊翁記念会館の2階ホールに置かれているスタインウェイ社の古いグランドピアノを指す。
写真は2階ホールでの撮影。


私を含めて音楽に縁遠い方には馴染みがないかも知れないが、スタインウェイ社(STEINWAY&SONS)は世界的なピアノ製作の名門であり、スタインウェイのピアノは世界最高峰と位置づけられている。スタインウェイ社の一般的な事項については[2]を参照いただきたい。

ピアノ自体が価値あるものなのだが、後述するようにこのピアノがどのような人々の出資によりどんな目的で宇部市にもたらされたか、そして現在に至るまでどれほどの危機を乗り越えてきたかを知ればその貴重さが理解される。月並みな言い回しであろうがまさに「奇跡のグランドピアノ」という表現を憚らない。その理由については歴史的背景の項目に記述している。

すべての記述は入手可能な資料と私自身が関係者から得た伝聞を元に行っている。本編は総括記事なので、新たな情報の追記や誤謬の訂正は随時行われる。以下、特に断らずに「ピアノ」と記述している部分はスタインウェイ社によるこの古いグランドピアノのことを指す。
《 現在のピアノの状態 》
総括記事を作成している現時点で、このピアノは渡邊翁記念会館の2階ホールに展示されている。


渡辺翁記念会館はイベント開催時以外は閉鎖されていて自由に入場できないが、指定管理者である文化創造財団(隣接する文化会館の1階に事務所がある)に申し出れば、競合するイベント等がなければ見学可能である。2階ロビーは開放された空間なので音楽会などが開催されているときは付随してピアノを見学できる。管理者の随伴などで条件によっては音を出すことも可能。

ピアノの全容。
全長180cm、幅150cmのO型グランドピアノと言われる。


後述するピアノの復活計画において、しばしば「壊れたピアノ」と呼ばれる。しかしピアノは経年変化による剥げや傷みはあるもののまったく音を奏でられない程に壊れているのではない。すべての鍵盤は押し下げられることで音を出す。音の強弱などの繊細な部分まで目をつむれるなら曲の演奏自体も可能ではある。しかしコンサートホールに据えてピアニストが大音響で演奏することは不可能な状態であり、それらを問題ない程度に修復するのが困難な程度に壊れている。

内部の状況。
フレームにスタインウェイ社の陽刻が見える。
詳細画像はこちら


弦が派手に切れまくっているのではないため、傍目には正常のように見える。


問題部分を拡大したところ。
一つの音に対して3本の弦が張られている音域のうち、切れて失われている部分が数ヶ所存在する。


弦が1本や2本となっている部分があるが、0本の部分はない。したがって鍵盤を押し下げても反応しない音階はない。しかし1本しか弦がない部分は本来設計されたよりも遙かに弱い大きさの音しか出せないことになる。

もう一つの演奏上の問題として、鍵盤の剥がれが挙げられる。


白鍵は象牙製である。象牙製の鍵盤は経年変化で割れや剥がれ、黄ばみといった変化が起きやすく、このピアノでもいくつかの白鍵が剥がれている。


白鍵の剥がれは外観面だけでなく演奏の安全面において深刻な影響を与える。隣接する鍵盤とミリ単位ながら段差が生じていれば、演奏者が怪我を負うことが起こり得る。
よく知られているように現在では象牙素材の国際取引が極めて厳しく制限されている。現在製造されているピアノの白鍵は合成樹脂製である。ただし新規の象牙製鍵盤の補充がまったく不可能というわけでもなく、認可された機関のストックした素材が利用可能なようである。

楽器としての機能にかかわる直接的な不具合の他に、対処しなければ将来的に問題を起こしそうな部分もある。
全体の重量を支える脚には移動を容易にするために小さな鉄輪が取り付けられている。乾燥した環境に長く放置されていたためか、鉄輪を支える木材部分が縦に割れている。


ピアノの大屋根やリムには無数の傷が生じている。新川小へ置かれていた時期には掃除のとき移動されることもあったようで、壁にぶつけるなどした傷がある。人為的に引っかかれたような傷や、学童の名前とみられる引っ掻きで描かれた文字の跡もみられる。それらは外観の問題だけで演奏に直接的な影響は与えないが、木材部分のひび割れなど音響や寿命に間接的影響を与える部分もある。
《 歴史的背景 》
写真を観ただけでも古いピアノであることは理解されるであろう。実際それは現在ピアノが据え付けられている渡邊翁記念会館 - 昭和12年に竣功 - よりも遙かに古く大正期のものである。この時期に製造されたスタインウェイ社のピアノで現存しているものは極めて少なく、演奏可能か否かにかかわらず歴史的資料として貴重である。更にピアノは一般的な演奏が困難にしてもすべての音階を再生可能であり、それは納入された当時の音である。

以下にこのピアノの来歴を時系列に沿って記述する。殆どを関係者による談話や伝聞に依存している。詳しい記述のある書籍に[6]がある。この他にまだ参照されていない資料が相当存在する。
【 ピアノの来歴 】
グランドピアノは現在とて高価な楽器である。最高峰と言われるスタインウェイ社のピアノは、当時の地元の有志がお金を出し合い購入されている。
ピアノの側面部には寄贈者20名の名前が描かれている。


寄贈者名が描かれた部分は経年変化によって現在では読み取るのが非常に困難となっている。(→寄贈者名の褪色問題
このためピアノを観る人がすぐ分かるように寄贈者名を記した説明板が別途置かれている。


ピアノは大正12年(1923年)3月、宇部市立新川尋常小学校(現在のANAクラウンプラザホテルがある近辺)に納入された。購入価格は当時で2,000円だった。前年の大正11年に竣工した木造2階建ての旧市役所庁舎の総工費が65,000円であったことからも価格水準が窺える。

金額レベルだけに目を向ければ、あるいは贅沢な寄贈品という見方になるかも知れない。この背景を理解するには、当時は新川尋常小学校の講堂(新川講堂)は、子どもたちだけが集う場ではなく器楽の演奏が可能な唯一の公会堂であったことを念頭に置く必要がある。即ちピアノは小学校に在学する学童の授業や音楽鑑賞だけではなく、宇部市民に広く音楽に触れて欲しいという願いから寄贈されたのだった。

ピアノが納入された翌年大正12年4月3日には第一回の記念演奏会が開催され、多くの宇部市民が訪れて活況を呈したと当時の新聞で報じられている。このときのピアノ演奏者や弾かれた曲目まで克明に記録されている。

新川尋常小学校は昭和16年に現在の西小串にある新川小学校へ移転した。このときピアノも小学校と共に安住の地を移動したようである。当時の新川小の学童にとってピアノは自慢の種であったことは想像に難くない。
【 戦禍に命を繋ぐ 】
ピアノに降りかかる最初の危機は、およそ想像されるように昭和時代の大空襲である。熾烈を極める焼夷弾攻撃に生産拠点であった工場群は元より、庶民の暮らす宇部市街地も壊滅的被害を受けた。そして日本国民の戦意を削ぐために(当時としてはまったく一般的な手法であったのだが)焼夷弾攻撃は市内に散在する学童の学び舎にも仮借なく行われた。当時学童だった方々により新川小で起きた当時の危機的状況が語り継がれている。

反撃のすべを持たない一般庶民は焼夷弾攻撃に対してまるで無力で、空襲が始まったその時も我が身を護ることを最優先に防空壕や狭い溝の中へ身を潜めていた。折悪しく焼夷弾の一つが新川小の校舎付近に落下し、炎を抱いた油が飛び散ったことでピアノの格納されている校舎へ着火してしまった。後続の攻撃が止んだところで小学校の6人の教諭たちにより木造校舎全体へ炎が広がる前にバケツリレーを開始した。その間に次の空襲が起きても不思議ではなかったのだが、学校の、ひいては宇部市民の大事な宝を護りたい一心がそこにはあった。近くに貯水槽があり、空襲に伴う火災に備えて消火の助けとなる水が確保されていたのも僥倖だった。

駆けつけた当時の学童は、我が身の危険を顧みずバケツリレーで消火活動にあたっていた先生たちの活動を固唾を飲んで見守っていた。校舎全体が炎に包まれる前に火は消し止められ、延焼を免れたと分かった折には危機的状況でありながら大きな拍手が起こったという。

かくしてピアノは最初の試練を越えて無傷に護られた。焼夷弾の校舎直撃がなかったこと、早期の消火活動が奏功したことは伝説のピアノ自身の持てる運と言えるかも知れない。[3]
【 渡邊翁記念会館との関わり 】
敗戦の痛手を受けつつ再度人々が立ち上がり始めた初期の昭和21年、宇部好楽協会が発足する。この時より協会主催の講演の折にはピアノは渡邊翁記念会館へ運搬され、著名な音楽家によって演奏されるようになった。したがってその後も何度か記念会館へ運び込まれつつも基本的には新川小学校に置かれていたようである。現在、ピアノが渡邊翁記念会館の2階ホールに置かれているのは、渡邊祐策が寄贈者の筆頭格であったこともさることながら上記のような事情による。

スタインウェイのピアノがいつ頃まで演奏に使われていたか定かではない。学童をはじめ市民に本物を堪能して欲しいという願いのこもった寄贈品なのだが、最後期は充分な定期メンテナンスが行われていなかったようである。単に古くなったからというのではなく、演奏するのに好ましくない兆候(部品の老朽化など)が発生し、修理にかかる予算的な事情や純正の部品を取り扱う支店との繋がりの問題があったのかも知れない。

現在の渡辺翁記念会館の大ホールでは、ステージ上に伝説のピアノとは異なる別のスタインウェイ社のピアノが据えられ、コンサートの時に使用されている。
写真は渡辺翁記念会館のバックヤードツアー時に撮影


詳細は明らかではないが、昭和中後期に入って古いピアノが新川小へ移され、新しいスタインウェイ社のピアノに置き換えられたと推察される。新川小に戻った時点でもまだ体育館か音楽室へ据え置かれていた。運び込まれた当初はそれが宇部市で活躍した有志により寄贈された重要なピアノであることは、当時の学校関係者にも認知されていた筈である。しかし教諭の転校や退職による世代交代が進むことで伝達が十分に進まなかったのかも知れない。いずれにしろ実際に演奏するのに不具合を生じたか、あるいは単に老朽化しているから新しいものに置き換えられたことにより、ピアノは学校の音楽室ないしは器具庫へ押し込められた。
【 ピアノの再発見 】
ピアノはまったく演奏されなくなったばかりか、目に触れない場所へ追いやられたことで学校関係者からも殆ど忘れ去られかけていた。平成期に入ってからのある一時期のこと、殆ど誰も立ち入ることのない新川小の器具庫の一角に埃をかぶったグランドピアノが放置されていることが報告された。どのような経緯で再発見に至ったのか分からないが、状況からして古いものを整理する過程ではないかと思われる。

最初に発見された時点ではそのピアノの素性を知る人が誰も居なかった。器具庫へ運び込まれて数十年が経過しており、ピアノはカバーで覆われることもないまま放置されていたために塗装には褪色や剥落がみられた。乾燥が原因で一部の鍵盤は剥がれ、鉄輪を支える木製の脚は割れがみられた。弦も数ヶ所が切れて部分的に失われていた。傍目にも状態が悪く修復に費用がかかることが明白だったこと、場所を占有するという理由から廃棄処分さえ検討されたという。[4]

「新川小学校の器具庫に古い弾けなくなったグランドピアノがある」という事実が、少しでもその素性を知る人々へどのような過程で伝わったのかは私には分からない。ただ、古くて場所を取るだけだからと深慮もなく廃棄してしまうより前に、この古いピアノがどういう顛末を辿ってきたのか調べる人々の存在があった。恐らくこのときまでにピアノの側面に郷土の発展に貢献した有力者20名の名前が列挙されていることが判明している筈である。

直射日光に晒され極度に乾燥する器具庫は、伝説のピアノのみならず如何なる楽器の保存も論外な環境だった。詳細な時期は不明だが、このまま器具庫へ存置するだけで劣化が進むことが明らかとなった時点でピアノはまず島にある旧市立図書館へ運び込まれたようである。[6]
【 ピアノを再度表舞台へ引き出した人々 】
現在、ピアノは渡邊翁記念会館の2階ロビーに置かれている。私の知る限り少なくとも数年前からであるが、島の旧図書館からここへ運び込まれたのがいつかはまだ正確に調べられていない。ただ、元々が楽器であり図書館のような場所では演奏もままならないこと、そして随所に傷みがみられるものの補修することで再び演奏可能となる可能性が高いことから、ピアノをもっと市民に広く知ってもらえる場所へ運びだそうという動きがあったことは想像に難くない。単なる歴史的資料に過ぎないのなら、そのまま旧図書館に隣接する郷土資料室へ存置すれば済むからである。このことは以後ピアノをどう活用するかの方向性を定めることともなった。

ピアノの寄贈者の筆頭格に渡邊祐策翁の名がある。渡邊祐策に関しては素行渡邊祐策をはじめ膨大な資料が遺されており、どのような背景からピアノが寄贈されたかについての手がかりがあった。更に演奏会などでピアノの音を実際に聴いた方からの聞き取りも行われており、器具庫へ放置されていたに過ぎない古ぼけたピアノから少しずつ多くのことが知られ始めた。

当時を記録する書籍や証言以外にも、ピアノそのものから当時の情報を取り出すことを試みる人々もある。
ピアノの鋳鉄フレーム部分に型番を示すO型と6桁の製造番号がペイントされている。
細い針金のようなものが紛れ込んだ理由はよく分かっていない


驚くべきことにスタインウェイ社には一世紀近く前のこのピアノに関する記録が遺っていた。製造番号 212387 のこのピアノは大正11年(1922年)にドイツのハンブルグ工場で製造されたことが判っている。20名の崇高な寄贈者による資金によって購入されたピアノは製造元より神戸から日本に上陸し、その後再び船便で宇部の地まで運ばれている。ピアノの購買や納入について誰が仲介したかについてまで突き止められている。
【 ピアノの情報共有 】
地道な調査で判明した情報は、昨今のネット環境によりまず音楽関係者の間で共有された。更にこのピアノが地元の有志によって寄贈されたという歴史的観点から、郷土史関連の人々もその価値が深く認識された。この過程で学童期ピアノに関わりを持った方々の証言が明らかになり、先述のような真に数奇な運命をたどりつつ現在に至ったことが正しく理解され始めたのである。

ピアノの来歴やその特性を知る音楽家は、国内外で少しずつ数を増やしつつある。ピアノがドイツのハンブルグ工場で製造されたものであることとモノ造りの技術に長けて良いものを長く大事に使うドイツの国民性とも相俟って、ドイツ国内で著名な演奏家たちは高く評価している。後述するようなピアノの修復計画に対しても積極的で、資金面だけでなく毎年宇部を訪れて演奏会を開き、このピアノに再度楽器としての命を吹き込みたいと多くの人に訴えかけている。
《 取り組むべき問題 》
前述のようにこのピアノは音を奏でることはできても満足な演奏ができない程度に壊れており、楽器として復活させるには手を加える必要がある。しかし元々のピアノが高価なものであっただけに修復には多額の費用を要し、更にその手法についても歴史的部分をできるだけ保存するために検討が必要な箇所がいくつもある。以下は個人的な考えを含む。
【 ピアノをどうするか 】
ピアノをどうするかについては、もっとも初期に提起されしかも最初に大方の合意を得た問題である。初期には以下の2通りの処遇が提起されていた。
(1) 歴史的資料とみなして現在のまま手を加えず静態保存する。
(2) ある程度手を加えてでも楽器として演奏可能な状態にして活用する。
大正期に活躍した有力者による歴史的資料であることのみを重視するなら、改変せずこれ以上の経年変化も起きないような環境下で保存展示するのが妥当である。他方、楽器であることを重視するなら、オリジナルな部分に手を加えてでも通常の演奏が可能な程度に修復した方が良いと考えられる。

初期にピアノへ接した人は音楽関係者が多く、ピアノを再活用したいという (2) の意見が優勢であった。一般のより多くの人の意見を取り入れることとピアノの情報を伝播する目的で、後述するFBのグループが立ち上げられた。このグループは再発見の場に立ち会った方や音楽に関する知見を持つ人々の活動を受け継いでおり、個人的にはこのFBグループの段階でピアノの存在を知ることとなった。FBの情報共有効果もあって多くの人が問題部分を可能な限り修復して楽器として甦らせたい意向を示した。単に歴史的資料として後生大事に保管しても仕方がない、楽器は音を奏でてなんぼのものであり、本来持っている能力を発揮できないままにおかれるのでは楽器が喜ばないなど、修復を望む意見が大勢であった。

現役で使われていた時期には国内のみならず世界的に著名なピアニストが来訪してこのピアノを演奏しており、音楽関係者の殆どが当時の音をもう一度取り戻したいという意見だった。絶望的なほど壊れているならまだしも修復可能であり、中身を総替えしてオリジナルな部分が完全になくなる程の規模ではないことも判明している。この件については調律師が現物を精査し、問題を起こしている弦数本の交換と調律を経れば問題なく演奏できるようになるという見解だった。

したがってピアノをどうするかについての方向性は、演奏上で問題がある部分に限定して修復を行い、現役時代に奏でていた楽器としての役目を取り戻させるという方針で一致している。
【 修復にかかる諸問題について 】
最大の問題として、演奏可能なスタインウェイのピアノに修復されるのにかかる費用の捻出がある。この問題はピアノの処遇が確定する前から認識されており、早くから修復費用を賄う活動が開始されていた。大量生産されている一般のピアノとは異なること、重量物であるため修理工場までの往復輸送費用がかさむことから修復すべてにかかる費用の見積もりすら困難な状況である。部品の調達や技術者の問題については、国内にスタインウェイ社の支店が存在する。しかしピアノ本体を満足な状態に修復すれば足りるものでもなく、今後の維持管理面では据え付ける場所の空調をも検討しなければならない。

修復されたピアノを渡辺翁記念会館に再度搬入したとしても、保管する環境が悪ければ修復作業にかからなかった他の部分のひび割れなど再度問題が起きてしまう。そして遺憾ながら渡辺翁記念会館は平成期の改修工事で空調設備こそ追加されたものの、ピアノのように温度湿度に繊細な楽器を問題なく保管できる程度にコントロールされたものではない。現在、コンサートで使用されている現役のスタインウェイのピアノとて、コンサートが終了すればホールよりも環境の悪い倉庫へ押し込められていることが判明している。そういった保管状態の悪さが現に演奏上の問題を起こしている。[7]現役使用されるスタインウェイのピアノがこのような状況なので、経年変化著しいピアノの適正な保管環境は尚更困難が予想される。

この困難な問題を後押ししてしまっているのは、渡辺翁記念会館自体は国の登録有形文化財となっている点である。ピアノに最適な空調環境を備えるための改変工事を行うこと自体が困難である。可能であれば、倉庫の一角に温度湿度を一定に保てるカバーのような空間を確保してそこに保管するのがベストであろう。次善の策としてピアノ本体に係る部分のみ修復し、それを保管する環境については当面目をつぶる以外ない。精々、現在ある渡辺翁記念会館内において製品の劣化をもたらさないような保管場所や方法を検討するのが限度と思われる。

2019年9月21日に開催された第3回目の演奏会後の会合で、保存環境の問題は重要であるものの当面ただちに対処することは不可能であり、こだわり続けるとピアノの修復すら進まなくなり堂々巡りとなることから、まず修復作業に着手した上で後に考慮することで合意に至っている。
【 寄贈者名の褪色問題への対処について 】
ピアノ筐体の側面には寄贈者20名の名前が記されているが、そのすべてが徐々に薄れている。塗装が剥げたり幾度となく他のものと接触して文字の一部が欠けて極めて読みづらくなっている。


寄贈者の名は当初金色の文字で筐体の側面に描かれていた。20名の筆頭者として冒頭に渡邊祐策の名が書かれている。見づらくなっていることについて、当初は上から類似する色彩のペイントなどで意図的に消されたという説が提示されていた。これには何事につけても名前を顕彰されるのを快しとしなかった祐策翁の意向があったこと、昭和21年3月に立ち上げられた宇部好楽協会主催の演奏会時には既に黒くペンキで塗りつぶされていたという報告を根拠としている。[6]

しかし現在では再発見されるまでピアノが粗悪な環境に長期間放置されていたことによる経年変化による褪色と考えられている。祐策翁の名前だけでなく他の寄贈者名も同様に薄れていること、戦後ピアノが救出された頃は20名の寄贈者名が金色に読み取れていたという証言があったことを理由とする。殊に小学校の音楽室に置かれていたとき移動時に側面をぶつけたり、掃除のときに雑巾で拭かれるなどして褪色したことも考えられる。

ピアノが再発見された初期の状況を知っている人々によれば、名前部分は更に薄く読み取りづらくなってきているという。これには新川小の音楽室から渡辺翁記念会館の2階ホールへ運ばれた後も一時的に直射日光が当たっているのを知らずに保管していたことが原因かも知れない。そのことが判明した後は、説明用のパネルをピアノへ寄せて置くことで日射を遮るように配置替えされた。それでも最終的には殆ど読めなくなってしまうだろうと懸念されている。

この扱いについては、遺憾ながら可能な限り鮮明に映像記録できる方法で寄贈者名部分をデジタル記録し、そのままに置いておくのも致し方ないだろう。

署名のある部分をピアノ本体から取り外したり光を避けて覆いを付け足すのは著しい現状改変にあたること、それを実行したからとて更なる文字の褪色を阻止できないため賛成できない。ただし側面の板そのものが強度不足などを理由に修復の過程で交換が必要と判断されたなら、新規部材と取り替えた後に署名のある部分を褪色が進まない方法や場所で歴史的資産として保管するのが良い。

そもそも寄贈者20名が誰であるか完全に判明しており、その事実で足りる。更にピアノ本体に描かれている署名はそれぞれが本人の自筆ではなく、ピアノが納入された後に(誰が描いたかは分からないにしても)追加されたものと考えられる。したがって楽器としてのオリジナルなパーツ保存以上に強くこだわる理由に薄い。ただし当時描かれていたと思われる色調と文字の輪郭部分も丁寧になぞって再現することが可能なら、もし手を加える前の状態を画像保存した上で改変するという意見が多数であるなら反対はしない。

現在ではピアノをかつて奏でていたような音を甦らせることに主眼が置かれており、この寄贈者名部分の変化についてピアノ修復における本質的な問題とは認識されていない。したがって音響効果や耐久性に問題をおよぼさないうちは現状のまま援用し改修対象とはされないであろう。
【 演奏に関与する部品の交換について 】
難しい問題である。どこまでオリジナルを保つかはデリケートな問題であり、主要な部品や交換箇所があまりにも多い場合、もはや大正期に寄贈され戦禍を乗り越えて今に至ったピアノと言えるのか[5]という問題は確かにある。現在あるピアノにおいてそれ自身をもっとも伝説のピアノたらしめている部分はどの程度の範囲に及ぶのかは人により解釈が異なるだろう。

極端な仮定だが、今ある弦のどれもが保管状況の悪さから劣化が酷く長期使用するのに不適で総替えしかないという判断が下された場合、たとえスタインウェイ社純正の部品であってもなお「戦禍を乗り越えたピアノ」そのものという見方は難しいかも知れない。他方、その場合でも傷だらけの筐体はオリジナルであるとか、奏でる音響は当時と同じ荘厳さを保っているならば完全オリジナルにこだわる必要はないとも言える。あるいは当初は20名による寄贈であり、現在はこのピアノに再び命を吹き込みたいという有志市民の情熱により時を超えて引き継がれている奇跡のピアノという考え方も可能ではないだろうか。

私自身、多くの音楽関係者が主張する「満足な音を出せないまま放置されるのでは楽器が喜ばない」という意見に与するものであり、したがって不完全な部分があるために演奏できない状態となっているなら、その部品についてはオリジナルであることを諦めて修復するのはやむを得ないと考える。例えば逸失している鍵盤はそのままだと演奏者が怪我を負いやすくなるから補修が必要だが、象牙製鍵盤の入手は非常に困難であるため、代替品の導入もやむを得ない。廃棄されるグランドピアノの情報を把握できるなら、そこから移植できるだろうが、情報を把握すること自体困難だろう。その次にスタインウェイ社を通して正規の象牙製鍵盤の移植を検討すれば良い。もしもそれが費用や手続き的にどうしても困難で、鍵盤さえ修復できれば演奏可能という状況なら、演奏者が支障を来さない程度の代替品を取り付けて当座を凌ぐのも仕方ない。演奏会においては演奏者が鍵盤の段差によって怪我を負わないように、一時的に剥がれた鍵盤の上に厚紙を宛てて後で元に戻している。

恒久的な修復については、9月20日の演奏会のとき演奏者の手によって同種ピアノより採取された健全なパーツと置き換えられたのが微細ながらも最初の事例である。


修復に関する更なる前進として、同年11月に専門家によるピアノの実地検分が行われている。
【 ピアノにアクセスできる人々について 】
ピアノの現物を観ることと演奏することは、分けて考えなければならない。まず、ピアノの見学は今まで通り管理者の随伴を前提に誰でも無償で自由に可能なのが望ましいだろう。実際に演奏されるのではなく現物を目にするだけならばピアノは歴史的資産である。すべての歴史的資産は可能な限り制限を排除して閲覧に供すべきであり、制限が多くなれば重要な資産も認知度が低下する。このピアノは渡辺翁記念会館でイベントが開催される都度、自由な閲覧環境におかれているので現状を支持する。見学においての管理者の随伴は、目立たない場所に設置された映像記録用の監視カメラで代替可能かも知れない。

他方、ピアノを用いて曲目を演奏する場合は調律など保守にかかる費用が発生するので、試弾イベントなどでは相応なコスト負担をお願いしても良いと思われる。世界最高峰のピアノを演奏してみたいという需要は一定数あり、これを受けて実際に試弾イベントが行われている。
《 近年の変化 》
この総括記事を作成した期日以降について記述している。

・2019年9月21日にやまぐち音楽文化振興会による第3回目の複合演奏会が渡辺翁記念会館で開催された。テーマは「楽器を奏でる 音でつながる」[8]であった。
プログラムの3番目で「壊れたスタインウェイを弾く」と題して、このピアノの特性を熟知したピアニストによる演奏が行われた。このプログラムは誰でも無料で鑑賞でき、ピアノを間近で観察するだけでなくその奏でる音を堪能することができる数少ない機会となった。
この総括記事も演奏会前に合わせて全面的に作り直して公開している

・上記を受けて9月入りするまでに常スマの玄関付近に UBE Exhibition の一環として”伝説のピアノ復活計画2019「楽器を奏でる 音でつながる」”のパネルが設置された。


ほぼ同時期に入口のすぐ横へ置かれているディスプレイでピアノとプロジェクトの概要を説明する動画がエンドレス再生されていた。

・同年11月21日、ウィーンより専門家が来訪してピアノの状態確認が行われた。このときの様子がTYSニュースタイムで午後6時15分に放映されている。[9]

・2020年2月27日、前回の専門家によるピアノ状態確認を受けて本格的な修復作業が開始された。初日は内部のハンマーや弦などすべてを取り外して丹念に清掃された。今後10日間かけてドイツから調達された部品に交換され、音律チェックを通してオリジナルのスタインウェイが奏でていた近い状態に調整される予定である。[10]

・同年3月6日、ピアノの第一次補修完了により破損していたパーツがオリジナルのものに修復された。[11]
2015年8月20日に作成されたFBグループ。初期は限定公開状態だったが、項目を整理した後に一般公開にされている。現在は後続のFBページに意向しているため更新はされないが、初期の取り組みを知ることができる。
外部サイト: FBグループ|伝説のピアノ復活プロジェクト
2015年8月22日に作成されたFBページ。
外部サイト: FBページ|伝説のピアノ復活プロジェクト
渡邊塾の活動を通して、私自身が初めてこのピアノを目にしたときの詳細記事。全3巻。
なお、この時系列記事は当初関係者に写真や音響などを伝える目的で作成されたため、遺憾ながら一般公開できない。
時系列記事: スタインウェイのピアノ【1】
出典および編集追記:

1. 公式な呼称ではないが、ピアノの復活計画において「ここから始まるストーリー 伝説のピアノ復活計画」と銘打ったスタインウェイのピアノ自体は後年購入されたものも含めて市内に数台あるためこのように書いている。なお、この総括記事のファイル名(legendary_piano.htm)は、全く単純に”伝説のピアノ”なる呼称を英単語に置き換えたに過ぎない。実際にネイティヴにこの伝説のピアノを説明するにあたっては別の呼び方が適正である可能性もある。
ピアノの存在を海外の人々に知って頂くために同じ内容の英訳版を作成した方が良い

2.「Wikipedia - スタインウェイ・アンド・サンズ

3. 同様な焼夷弾攻撃を受けて消し止められず校舎も楽器類もすべて焼失してしまった学校が殆どである。

4. 分野は異なるが、2015年の終わり頃に開5丁目のある私宅から特異な石柱が報告された件がある。明治期の年号がある墓石にしては特異な形をした石柱があるので調べて欲しいという依頼を受け、現地調査したところ最初期の常盤通りに架かる初代新川橋の親柱であることが判明している。この石柱はリノベーションを行うにあたって重機進入の妨げとなるため、破壊され産廃処理されることになっていた。私的物件であるため現時点で未だ詳細報告はできないが、一連の経緯は映像とドキュメントによる明確な記録を遺している。この石碑は関係者と連携し宇部マニアックスの手により救出され旧郷土資料館内に仮置きされている。現在のところ宇部マニアックスとしての最大の成果であり、この親柱が破壊されることなく救出されたのは伝説のピアノと同様、この親柱自体が持つ運とそこから発せられるシグナルによるものと考えている。この親柱は将来的に元あった新川橋の袂へ可能な限り近い位置まで”里帰り”させるのが最も妥当であろう。「開5丁目の石柱」も参照。

5.「Wikipedia - テセウスの船」として知られるパラドックスである。

6.「炭山の王国」p.175〜177

7. あるコンサートでピアニストが演奏の途中で「この(スタインウェイの)ピアノは何故思い通りの音を出してくれないの?」と不満を訴える一幕があったという。コンサート前にピアノは調律師により精査されるが、保管されていた環境が調律師の想定していた以上の変化を及ぼしていたようである。

8.「FBページ|宇部市民センター青空からの投稿

9.「宇部・100年前のピアノ修復へ専門家が確認
FB局長タイムライン|2019/11/21
FB塾長タイムライン|2019/11/21

10.「スタインウェイの修復作業始まる|宇部日報

11.「宇部の”伝説のピアノ”復活へ 第一次修復完了、よみがえる当時の音色|山口宇部経済新聞
《 個人的関わり 》
このピアノの存在を初めて知ったのがいつだったか今となっては分からない。ただしFBで繋がっている人々から発信される情報によって得たものは確実である。当然ながら遙かそれ以前から存在していたわけだが、地域SNS時代を含めて聞いたことが一度もなかった。渡邊翁記念会館に搬入されるまでは新川小学校にあり、通っていた以外の小学校のことは何も分からないのが普通なので当然とも言える。

初めて実物を目にしたのは、FBで存在を知ってから暫く後の2016年7月7日である。このときは渡邊ゼミのメンバーを介して渡邊翁記念会館の指定管理者である文化創造財団の案内により視察が実現している。なお、同じ日に市立図書館の2階講座室に置かれていた俵田家寄贈のベヒシュタインのピアノも視察している。

その後、上記のやまぐち音楽文化振興会による音楽祭やバックヤード視察ツアーで渡邊翁記念会館を訪れた都度、写真の撮り直しを行っている。2019年春に開催された宇部観光コンベンションによる地旅では、ピアノの来歴に関して渡邊塾の局長が参加者に説明を行った。

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