墓地について

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記事作成日:2017/5/9
最終編集日:2018/12/31
ここでは、史跡としての墓地の総説を宇部市内における実例に基づいて記述している。墓地に関する一般的項目は[a1]を参照されたい。ここでの墓地とは単一の墓石を建てて単独者を祀ったものではなく複数の故人から成る集合体を指す。

市内における管理形態による墓地区分としては市の管理、寺社による管理、地元管理がある。
市公園緑地課によって管理されている墓園は現在のところ開墓園小羽山墓園白石墓園の3ヶ所である。[a2]写真は小羽山墓園。


寺社管理のものはよく調べていない。すべての寺院に墓地が隣接しているとは限らないようである。地元管理の墓地は単一地区のものから一定範囲の自治会に跨がるものまである。写真は恩田笹山芝中共同墓地の標示板。


地元管理の墓地は墓参者向けに設置されている看板で名称が分かる場合もあるが、一般には部外者には名称が分からないものが多い。一部に看る人が居なくなった無縁仏の墓石も混じっていることがある。写真は恩田5丁目にある墓地。


この他に管理実態が不明な墓地がいくつも存在する。それらは割と近年まで墓参されていた形跡が窺えるものから、墓石のすべてが藪に埋もれて近づく道が喪われていたり倒壊しバラバラになっているものまである。
写真は市内のある山中にみられる無縁仏の墓石群。


ある墓石が無縁仏であるかどうかの判定は居住実態の有無が分からない民家や廃屋の区別と同様であり、外観や周囲の状況に依る以外ない。
出典および編集追記:

a1.「Wikipedia - 墓地

a2.「宇部市|宇部市の都市公園一覧
《 墓地観察の意義 》
一般には墓地という場所は薄暗い、怖い、気味が悪いなどの否定的イメージが付きまとう。特に平成期以前は幽霊やお化けが出る定番地であり、それは殆どの人にとって遭遇は忌避される存在であった。この延長上に本来は怖いものである幽霊を敢えて夜間訪れるいわゆる肝試しというイベントがあった。この種の行為は今なお一部で健在であり、墓地を同種の固定的観念で眺める人々によって支持されている。
当サイトでも薄気味悪い感じのする場所を敢えて好奇の目を持って取材しているような記事は存在する。墓地に関してはかつてその極致の場と認識し、項目として記述されることも稀だった。しかし近年では別の認識をもって現地調査している。それは過去を記録した史料としての活用である。

何かの歴史的にみて重要な事件により発生した死者を葬った石碑が特定の墓地に備わっていることがある。例えば源山墓地には東見初炭鉱の被災者の墓石がある。


源山墓地は東梶返3丁目にあり、かつての東見初炭鉱の地からは相当離れている。元々は市街部にあった墓地をこの地へ移転させた結果である。
そして源山墓地自体が都市計画道路にかかるため再び移転問題が生じている

また、数は多くはないが墓地の中に寄進された石灯籠が存在する場合がある。
写真は刈川墓地にある一之山炭鉱の石灯籠。


石灯籠にある一之山炭鉱は他の書籍には見られておらず、まだ何処に存在した炭鉱なのか充分に調べられていない。こういった墓地内にある小さな史跡が歴史的資料を与えてくれる一例である。

歴史上の著名な人物の背景を詳細に調べるためには、当該人物の親族血族の繋がりから情報が得られる場合がある。生前の業績などは当該人物ゆかりの地に頌徳碑が設置されるものだが、当人そのものは当然ながら何処かの墓地へ埋葬されている。
《 観察においての注意点 》
否定的なイメージを払拭すべきであるとは言え、墓地は亡くなった方を埋葬する場所である。人は死を本能的に恐れ忌避する以上、当然ながら一般の観光地のような陽気さや明るさはない。明白に関係者以外立入禁止となっている場合は別として、一般には諸々の調査の目的で現地入りするのは自由である。ただし墓地で資料収集したり写真撮影を行うことは殆どの墓参者に対して未だ一般的とは思われていないため、普段の墓参時と同様に敬意を払った行動に加えて、以下のような注意を要する。

墓参者がある場合、何か尋ねられたときに訪問の目的を答えられるようにする。場所柄不法投棄場所の下見や野菜泥棒などと間違われる可能性は薄いが、何をしているか分からない状況を見ると人は誰しも不安になる。殊に綿密な調査と共に写真撮影を行っている場合は、刑事による事件の証拠資料収集と勘違いされる場合もある。名称や団体名を明示した名札を装着しての行動も有効である。この注意点は既に公開されている「守って頂きたいこと」に準ずる。

墓地周辺にある土まんじゅうや露岩を踏み付けない。これは昔の墓石と同等の可能性があるからである。一部の墓地には正規の墓石ではなく大きな岩や礫を置いただけのものが存在する。


現在では殆どあり得ないが、水子や若年者、事情あって正規の墓石を入手できなかった死者を弔うために仮の墓標として土を盛ったり自然の岩を据え付けている事例がある。土盛りをした手前両側に供花用の瓶を土中に埋めているものなどがある。外観は異なれど死者の葬られている場に変わりはなく、正規の墓石と同様に接するべきである。


正規の墓石を足蹴にしたりもたれ掛かったりすることがないのと同様に、およそ墓地とされる領域に見つかる同種の石や土まんじゅうは避けて通るようにする。実際の墓石を踏むことと同様に科学的根拠(罰が当たるという現象)はないが、その所作を別の墓参者が目撃した場合にはほぼ間違いなく嫌悪の念を持たれる。上記の写真のようにかなり離れた場所にある転石は可能性に薄いが、かつて墓標代わりに使われていたものが外れて転がってきた可能性もある。
《 予想される今後の墓地の変化 》
情報以下の記述には個人的見解が含まれます。

家族や親族の死を悼み弔う風習が廃れるとはまったく思えない。むしろ今後は繋がりのあった人に対しても拡張されるだろう。ただしその作法については人々の価値観の変化に伴う要望を伴い、既存の枠組みや法律の改定によりかならず変化することを予想する。

端的に言って、まず人里離れた地の墓地はどこかのタイミングで移設され廃止するか、看る人がなくなり続けて悉く無縁仏と化すかの二者択一となるだろう。現にその動きは進行しているし、これは死者を弔う意識が希薄になったこととはまったく無関係である。この変化の理由は、有り体にいって「不便だから」の一言に尽きる。

平均寿命が延びれば明らかに高齢化社会となる。自動車のような人の足で移動する手段を拡張する機器を手に入れた現代でも、いつかそれを扱えなくなる時期が来る。お盆や彼岸に自宅から離れた山野へ墓参に行くのが苦痛となり、やがて自然と行かなくなった事例は多い。車を運転できる世代ですら行かないなら、足腰の弱った高齢者が墓参し続けられる筈がない。
このことは、墓石と一緒に自分もいずれ草が生い茂り誰からも顧みられることなく自然に還って行く結末を望まないのならば、人里離れた山野へ墓を造るべきではないことを意味する。やがて看る人もいなくなり無縁仏となるのは自明である。もっと目の届く場所へ仏様を置いてあげれば良いのである。それが普及しなかったのは、かつて死者は真に汚れた存在であったこと、それを忌避するために死者を弔う場所に法的な制約を加えてきたことによる。

庶民も墓石を建てて弔うようになったのは江戸期辺り以降のことである。それ以前はごく一部の有力者が墓を構えられた程度で、一般庶民は死ねば山奥や人が訪れないような谷地へ棄てられた。それらの場所の一部はいわゆる葬送由来地名として遺っている。最初期は身近な場所へ埋めていたと思われるが、やがてそれは飲料水の汚染による伝染病という経験知により忌避された。人里離れた山地へ死者を運び野辺送りして埋葬し、その流れで墓地が同種の場所にできるようになった。その後土葬から火葬に変わることで管理すれば居住地に近い場所でも埋葬できるようになり、そのような墓地がいくつか造られた。後年、人口の増加や往来する道路の拡張などからいくつかの墓地は特定の場所にまとめられた。そして墓地の持つ不気味さや景観上から死者を埋葬する地は他の場所と地目を区別して扱われるようになった。現在の墓地の法的制約はこの流れを受けている。

お寺などで合祀された無縁仏はともかく、山野で藪に埋もれる無縁仏の墓石は侘しい。墓石に刻まれた故人は既に誰も顧みる人が居ないことを明示する存在である。そして実のところ現代においてもそのことは同様で、真に一個人として認識され永代供養される人はごく一握りの有力者や歴史的人物に限定される。すべての家系の墓を一箇所に集めている事例はいくらでもあるが、その最も古いものは単に「墓石がある」に過ぎない。そしてそのためだけに我々は新たに墓石を増やし続けてきたために、それらの保管や移設時に後世を生きる人々が困難を被っている。かと言って現行の法制度はたとえ自分の私有地と言えども新たに墓を設置することを公的に認めてはいない。最近無くなった大事な人を悼み遺骨を仏壇へ置いたままにしたり、庭先へ墓石を据えれば成仏しないと言われるものである。

今後、必要なのは人々にいくつかの選択肢を提供し法的にも整備することである。やはり今まで通り祖父祖母の眠る山野の隣りで墓石を伴い永眠したいと願う人がいれば、山奥へ葬られて墓参されなくなる位なら近くに葬られたい、あるいはお骨自体無意味だから不要でむしろ自分の遺してきたものを伝えて欲しいと願う人もあるだろう。従来タイプの埋葬を求める人には庭先に簡素な墓石を設置し、引っ越す折りに一緒に連れて行ってあげれば良いという考えも一理ある。現時点でその方法に違和感を覚えるならば、まだ誰も普通にはやっていないからである。何故誰もしないのかは法律が認めていないことに加えて、人並みにキチンとした葬送を行わなければ成仏できない、あるいは不幸になるといった呪縛に捕らわれているからに過ぎない。

後の世代を戸惑わせないよう配慮するには、元気なうちに自分の没後の処遇を明らかにしておくことである。人並みに墓石を建てて欲しいのか、墓石もお骨も要らないから生前に起こした精神的活動の成果を正しく伝えるかといった点である。この意思表明が今後一般にも重要視されてくるのは、近年のいわゆる「終活」と呼ばれる提唱に顕著である。
《 個人的関わり 》
以下、お墓に対する個人的な観念や教育について記述する。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

先述の「終活」とも相俟って、今後は人が遺すべきものが骨と墓石のみから別の価値あるものに変わっていくことは疑いない。それにしても故人を明記したものと象徴は必須であり、今後の変化があるにしてももう少し時間を要することだろう。

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