山口線・浅地川橋りょう

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記事作成日:2024/12/26
最終編集日:2024/12/27
浅地川(あさじがわ)橋りょう[1]は、JR山口線の仁保〜篠目間にある浅地川を渡る橋りょうである。
写真は浅地川下流側からの撮影。


位置図を示す。


地理院地図の該当箇所のキャプチャ画像。


地理院地図では浅地川と道路(山口市道両浴1号線)が別々にトンネルとして横切っているように描写されているが、冒頭の写真のように実際は河川と道路が2階建て状態になっている。橋りょうと言うと鋼製のガーダーを想起するが、鉄道側では形状にかかわらず鉄道が河川や道路などの上方を横切っている部分の構造体は橋りょうと命名される。

道路目線では断面の形状からトンネルと変わらないように見える。後述するように、実際には川が流れる谷地に盛土して上部からの圧力に強い楕円面のアーチ構造を造っている。

正面から縦置きで撮影。
かなり高い所を鉄道が通っていることが分かる。


同種の構造体は山陽本線にもみられる。鉄道構造物としては、古くはこのような構造体は拱橋(きょうきょう)と呼ばれていた。現在はこの名称で呼ばれることはない。

厳密な精査は行われていないが、浅地川橋りょうは山口線における恐らく最大規模の拱橋である。道路部分の拱橋断面の大きさは、その後に知られた拱橋とほぼ同サイズであり、浅地川橋りょうは通路の下に川が流れる二重構造になっている。このことは拱橋のアーチ構造の下部が河川面まで及んでいることを意味する。

この区間が津和野線として建設されたのは大正年代であり、資材としてコンクリートが利用可能になったとは言えこの規模の構造物を建設するにあたって綿密な設計と安全率を見込んだ施工が想像される。そのことは拱橋部分のみならず前後の河川の取り付け部分からも推察される。
《 詳細な観察 》
以下は2024年12月の「にんげんのGO!」メンバーの忘年会があった翌日の遠征による撮影である。

浅地川が直線的に流れているのに対し、道路を屈曲させて河川の真上に配置している。
道路が部分的に河川の真上にかかるため、対岸からコンクリート柱で道路側面を補強している。


河床と護岸部分にびっしり石材が配置されているのが分かる。特に護岸部分の石材は隙間が殆どみられず、河床部分より緻密に積まれていることが分かる。


3本掛けの転落防止柵は明らかに昭和期以降のものだが、対岸から突っ張っているコンクリート柱が当初からの施工かどうかは分からない。当初は川の水を安全に排出することが主眼で、道路部分はこれより狭かった可能性もある。しかし拱橋が馬車や荷車程度を通す規模に造られていることから、当初から四輪の通行を想定していたことは明らかである。さすがに後年拡張したとは考え難い。

拱橋の内部。コンクリート製である。


内部に照明はなく、左側端に灌漑用水を通す小さな水路が付随している。

拱橋を通って反対側の様子。


川は真っ直ぐ流れているのに対し、道路は左側へカーブしている。
左側に見えている看板の位置が市道としての末端点


接近できないので道路からズーム撮影。
石材で河床を固められた上を川の水が流れ落ちている。
この部分はロケ時には草が伸びていて確認できなかった


流れ落ちる斜路と両岸が石材で固められており、これは明白に浅地川橋りょうの建設にあたって自然河川に手を加えた結果である。ランダムな下り勾配で流れていた河川に落差のある部分を造り、その下が深みになっている。大雨で河川の流水量が増えたとき、自然河川のままだと流木や岩石を巻き込んだまま流れていく。土石流状態の水が構造的に弱い拱橋部分を流れると崩れるリスクがあるので、落差を造って水流を弱めていると考えられる。

深い部分を過ぎた先に橋台の残骸のようなものがいくつか転がっている。
この部材はロケで初めて来たときから気付いていた。正体が何かは分からない。


部材はバラバラになっており、流水を弱めるための減勢工として河床に据えられていたものが削り落とされたのかも知れない。川に降りられる場所はまったくなく、拱橋より上流側はクマの出没が怖くてさすがに先へ進む気にはなれなかった。

構造物の管理上の名称が書かれたプレートは上流側の壁面にあった。


ガーダーなら側面に塗装管理標がペイントされ、支間や名称、起点からの距離が明記されている。このタイプのプレートは名称と管理番号があるだけで起点からの位置は分からない。保線作業員に拱橋の位置を知らせるプレート(黄色バックに黒文字)が線路脇に設置されていると思われるが、大変に高い場所を通っているため実際の確認は非常に困難だろう。
《 客観資料に基づく考察 》
以下の推論は地図や校区映像といった客観資料と、純粋に現地を観察した結果によるものである。当時の施工記録は参照していないので厳密性を欠いている。
【 客観資料 】
著作権保護期間が経過してパブリックドメインとなっている資料や地理院地図の出力機能を用いた画像(地理院地図のクレジットが右下に入る)を載せる。

現在の航空映像。


昭和40年代後半の航空映像。


昭和30年代後半の航空映像。


昭和2年測図のスタンフォード地図


この他に津和野線が建設される前の明治後期の地図が知られる。
【 拱橋構造が採用された理由 】
現在の山口線は、仁保駅を出てすぐに比較的長い木戸山隧道を経て右にカーブしながら浅地川橋りょうの上を通過する。橋りょうと言っても市街部によくみられる鋼製ガーダーではなく盛土なので、列車に乗っていて通過時にそれと分かる音はしない。そして前掲の航空映像でも分かるように、浅地川と交差する部分は周辺を含めて膨大な盛土を行っている。特に昭和40年代後半の航空映像に顕著で、法尻で河川と道路が屈曲しているのは盛土施工に伴って流路や道路線形を変更している可能性もある。

河川や道路を跨ぐ構造体としては、橋脚を持つタイプの橋が挙げられる。しかし通常のレンガや石材の橋脚を持つ橋だと、河床から鉄道敷までの高低差が大きいため極めて高い橋を架ける必要がある。橋脚を河床面近くに配置するなら周辺の補強も行わなければならず、結局盛土構造とした方がコスト面で優位だろう。

橋脚を浅地川の両岸高い位置に設置し鋼製アーチ橋を架けるなら橋の長さは変わらないものの河床面付近の補強が不要になる。
写真は黒部峡谷鉄道のアーチ橋の例。


アーチ橋が採用されなかったのは鋼材の価格、調達性、施工性の問題だろう。あるいは両岸の岩質の強度も要因となり得る。現在新たにここへ鉄道を通すなら、素材が鋼製とは限らないがアーチ橋が第一選択になるかも知れない。
【 拱橋の高さやルートを変えた場合 】
仁保駅と篠目駅の位置を所与のものとするなら、現在のルートが最適解と考えられる。即ち安全に列車を運行できて建設コストを最小にする経路として他の可能性はほぼない。

現在の線形は仁保駅を出て少し山側へコースを振っているので、その分だけ隧道が長くなっている。長い隧道の掘削はコストと技術が要求されるので、例えば以下のようにもう少し下流側を通せば、茶色で示した隧道の長さが短縮されて安上がりになると考えるかも知れない。


しかし篠目に向かうまで高度を上げ続けなければならないので、経路の水色で着色した部分は橋を架けるか盛土するしかなくなる。山陰線の惣郷川橋りょうよりも長い橋を架けるのはコスト面で割に合わず、盛土以外の選択肢がない。既に見たように盛土すると(安息角の関係から)法尻が線路の両側へ盛土高以上に伸びてしまうので、膨大な面積の田畑を買収する必要がある。今よりも地主の力がはるかに強く、お金を生み出す田畑を鉄道用地に変えてしまうこの案が採用される余地がまったくないのは明らかだろう。

浅地川を渡らず上流端から木戸峠に沿う経路や篠目集落に向かうルートも考えられるが、ほぼ間違いなく現在の田代隧道以上に長いトンネルが必要となるだろう。
《 個人的関わり 》
山口ケーブルビジョン「にんげんのGO!」の定番シリーズ隧道どうでしょうのシーズンIIIで初めて知った物件である。[2]シーズンIIまでは行き先と物件の名称が知らされていたが、事前に地理院地図などで行き先を調べて予備知識を持ててしまうため、この回からは出演者すべてに物件名と大体の特徴だけが知らされた。このため隧道解説役の宇部マニアックスは、現地へ接近するまで何があるかまるで分からなかった。

実際のロケでは両浴集会所付近に車を停めて携行録音機とマイクを装着し、隧道どうでしょうメンバーで現地まで歩いた。
初めてそれらしき物件を目にする直前に撮影されたときの一枚。


ロケは2020年7月21日で、気温がかなり高いところに浅地川の水が冷たいため靄がかかっていた。収録中に上を山口線の列車が通過するところも見えたので、鉄道の下を通すための構造物と分かった。ただし規模が非常に大きく、道路と川を2階建て状態にして通しているパターンは初めて見た。[3]

現地でどういう解説をしたのか詳しくは思い出せない。何の予備知識もなければ道路のトンネルに見えてしまうが、川が流れていることからトンネルを必要とする山の尾根があったのではなく、むしろわざわざ川の両側と上に大量の盛土をして造られたものと話した。この構造物はまったく知らなかったが、山口線の仁保駅〜篠目駅間が信じられない山あいを通過していることは小学生の頃から地図を見て知っていた。他方ハッセーはこの場所を知っていたと話したと思う。

浅地川橋りょうは、隧道どうでしょうの放映が始まってから視聴者によって似たような面白い構造物があるという情報が寄せられたことからロケ候補地に選定された。現地は仁保の集落から浅地川を上流に進んだ場所で、民家は疎らで地元民以外殆ど人が訪れる場所ではない。ネット上にこの物件を紹介したドキュメントは未だなく、番組として映像がお茶の間に届いたことも一度もなかっただろう。

隧道どうでしょう・シーズンIIIを契機に現地へ観に行ってきた視聴者さんがどの程度いらっしゃるか分からない。その後山口線を益田まで延伸したときの資料である津和野線線路圖が県文書館から採取され、この種の構造物が拱橋と呼ばれていたことが判明した。同資料には他にも多くの拱橋が記載されており、それらが実際に今も存在していて接近可能かという興味が湧いた。こうして地図のみを頼りに現地踏査を行い、その様子を採取することによって隧道あるはずでしょうというスピンオフ企画が誕生した。
《 現地アクセス 》
それほどの物好きな方はいらっしゃらないと思いつつも、現地で実際に観察してみたいという奇特な方(?)のためにルートを案内する。

山口市街部からの場合、国道9号の仁保入口三差路から国道376号に入る。仁保地峠を経て仁保駅入口の標識を通り過ぎ、真っ直ぐ道なりに下った先の左側の分岐路に入る。


この道を進んで最初の左への分岐路に入り、そのまま道なりに浅地川沿いを遡行する。両浴集会所の前を過ぎて橋を渡り、右側に最後の一軒家をみて沢地の奥に到達する。ここで再び道が川を渡る手前の余剰地に停めて歩くと良い。
写真は橋を渡って下流側を向いて撮影。


浅地川橋りょうはここから歩いて2分以内の場所である。四輪の通行は高さ2.8mの制限がある。対向車が来る心配はまずないが、拱橋をくぐった先は転回可能な場所があるかも調べられていない。

仁保駅に立ち寄った場合、国道まで出なくても駅を出てすぐ左に入る道(山口市道両浴3号線)を通れば若干近い。


この記事を書くにあたっては仁保駅で再撮影し、上掲のように Google ストリートビューで採取されていることから実際に通行した。この道は地理院地図には記載されていない。道幅はかなり狭くガードレールがない場所が殆どである。途中で由緒ある須郷田堤(蓬来堤)の横を通って同溜め池の記念碑横に出てくる。
出典および編集追記:

1. 椹野川水系の県管理二級河川。平かな表記された資料がないので「あさじがわ」「あさぢがわ」のどちらが正しいか分からない。

2.「FBタイムライン|2024/12/23の投稿

3. 山陽本線にみられる同種の構造物は多くが通路と用水路を横並びにして通している。後に音丸川橋りょう角野橋りょうといった2段構造のものが知られた。

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