市道神原町草江線・横話

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ここでは市道神原町草江線の派生的記事をまとめて載せている。
《 サンライフ宇部 》
記事編集日:2013/7/11
神原交差点を過ぎて最初の元押しボタン式信号のある右側に体育関連の施設が2つ並んでいる。一つは弓道場でもう一つはサンライフ宇部である。


サンライフ宇部は宇部市のホームページに案内がでている。[1]
このうち弓道場はバス停名にもなっている位で知名度は高いのだが、あいにく私は弓道を嗜む機会に出会えておらず一度も訪れたことはない。
「旧道」なら一杯嗜んでいる…「きゅうどう」で変換するとコッチが先に出て来るので思わず連想してしまった^^;

他方、隣接するサンライフ宇部は最盛期には自前のクラブ活動の場の一つとして利用していた。


当サイトは設備紹介ではないので詳細は端折るとして、サンライフ宇部は会議室やトレーニングジムの他に体育館を持っている。元々は高齢者の利用を主な目的とした施設のせいか、中高生以下は利用できないなどの制約がある。[2]
館内はさほど広くはないもののバドミントンでは2面設営できる広さがある。

数年前に山口県で国体が開催されることが決まってからは、出場選手が充分な練習を行えるように俵田体育館から一般の利用者が閉め出された。それでなくても市内で定例活動しているどのクラブもコート予約に難渋していた中、予約を確保するのが更に厳しくなった。
サンライフは市街地の良好なロケーションにありながら意外に体育館を持っていることが知られておらず、予約が空いていることが結構あった。それで私はかつて毎月の予約を入れるときは第一希望の開催地(パルセンター)を照会し、希望の曜日と時間が先約で埋まっているときは他の開催場所候補としてサンライフ宇部の空きを照会したものだった。

サンライフ宇部はそれほど駐車場が広くない。体育館だけではなく会議室やトレーニングジムの利用者があるので、正面にある数台のスペースは大抵埋まっている。


押しボタン式信号機があって市道神原町草江線と交わる小道(市道神原町線)に面して体育館の横に数台停められるが、細長いスペースで駐車しづらい。
特に市道と敷地を隔てた低いブロックは要注意…最近もメンバーの一人が車をぶつけた

どうしても停める場所がない場合、やや離れてはいるが弓道場とタイヤ屋の間から狭い路地を入った先に駐車場がある。現在も利用可能である。
弓道場の駐車場に停めても良いということであった

最盛期にはYahoo!のバドミントン・コミュニティーで催されていた全く見ず知らずのメンバー練習に飛び入りで参加したこともあった。ラケット一本持って何処にでも出かけていて、自分の人生で一番熱心に活動していた時期と言えた。

野山に引っ越してからも暫くバドミントン活動は続けていたが、クラブ活動の陳腐化と衰退が進み、次第に参加者が減っていった。更に後押しするようないくつかの事情とも相俟って私は幹事を続ける気力を喪失し、代わりに後継者を募った。そして誰も希望者がなかったために私のまったくの一存でクラブを廃部することにした。
実はテーマ踏査という概念の萌芽と事始めはクラブ廃部という大きな代償との引き替えだった

さて、先月のことあるメンバーの開催するクラブ活動への参加で数年振りにサンライフで活動してきた。
およそテーマ踏査を旨と成す当サイトにそぐわないかも知れないが、体育館内の写真を撮ってきたので館内の紹介も兼ねて掲載しておこう。

体育館内部。
午後7時で外はまだやや明るいが館内の照明を入れている。


コーナーには腰掛ける部分が設置されている。
多くの体育館が床の直座りなのでこれは便利だ。


ここから2階に上がる梯子があるが、床に接しておらず途中からつかまる必要がある。
2階のカーテンを開閉するためにはこの梯子を昇降しなければならない。高所恐怖症にはちょっと怖い…sweat


バドミントンとしてコートを利用した感想だが、他の体育館と比べてコートの後ろがかなり狭いので注意が必要だ。
ロビーのところに冷水機があるので、夏場に水を忘れてしまっても取りあえず冷たい水分の補給ができるのは有り難い。

サンライフ宇部は今やアジトから極めて近くなったので、車ではなく自転車にラケットやシューズを載せて参戦した。そして現在のところ自転車で練習に参加した唯一のケースとなっている。
まあ、殆どの読者にとってはどうでもいい情報だよねこれって…

この10月にサンライフを訪れたとき、エレベーション標示のステッカーが玄関横に貼られていることに気付いた。


EL=2.9mは、今まで見てきた中でもっとも低い標示だ。


ちなみにこの高度標示ステッカーは最近増殖中で、市役所玄関と裏口に貼られたのを皮切りに、小羽山小学校体育館やふれあいセンターなどでも見つけている。
出典および編集追記:

1.「宇部市|サンライフ宇部

2. 以前は体育館の利用をするとき利用者の中に高校生以下のメンバーが含まれていないか確認を求められていた。また、玄関を入ったところに中高生利用不可の案内板も出ていた。しかし市のホームページの項目を見る限り生涯学習講座を除いてそのような制約は記されていない。確認が必要と思われるが、トレーニングジムに関しては現在も中高生の利用はできない(入口に注意書きがある)
《 通い詰めたパソコンショップ 》
もう今となっては詳しいことを思い出せない。最近、市道を走ってみたところ今もパソコンショップとして営業しているようだが恐らく当時のスタッフはもう居ないだろう。

店舗そのものは当時と同じと思う。店名は「フォー・ユー」であった。


駐車場所はここに入っているいくつかの店舗の共用で、区画は決められていた。確かこの場所の左奥だったと思う。


今は昔、パーソナル・コンピュータなるものの有用性が少しずつ認知されはじめ、会社は元より個人でも所有して情報収集・発信に役立て始めるIT萌芽期だった。インターネットは誕生してまだ時期が浅く、プロバイダが乱立していた。個人の通信手段は専らメールという時代で、積極的なごく一部の人がホームページを持ち始めた時代だった。
店舗は店長とアシスタントの2名体勢で切り盛りしていた。もう詳しいことも忘れたのだが、確かこのお店の運営母体が別にあって、街の広告塔的役割も考えてこの場所にサテライト店舗として出店したという話を聞いている。そのため当初からあまり収益性を追求せず人々に名前を覚えてもらうことを主眼に経営するよう云われていたようだ。

私がどういうキッカケでこのお店を知ったのかもう思い出せない。店が出た頃にはもう市道神原町草江線は交通量の多いメインの道になっていたし、車で帰りがけにこの前を通るにしても目に付くような建物ではない。あるいは自転車で街中をウロウロしているときにたまたま見つけて入ってみたのかも知れない。
ただ、居心地が良いのと新しい知識が限りなく入ってくる場所だったので、会社の帰りに暇さえあれば立ち寄っていた。店を閉めた後、店長ともども話をしたり調べ物に時間を費やすこともあった。
初めてホームページなるものを持とうと思ったこと、メールの利便性と面白さを知ったこと、ハンドルネームなるものの重要性を認識できたのはこの店のお陰による。

正直な話、まだ自分にとってそんなに昔のこととは思えない。しかしお店の関係者のどなたとも現在では繋がりが失われている。この項目は編集追記の余地を残しておくことにする。
《 セブンイレブン中央高校前店 》
清水崎恩田線との交点、中央高校前の交差点に小さな店がある。
この店にはかつてセブンイレブンが入っていた。
表題は中央高校店としているが正しい店舗名かは不明


カメラの向いている方にある店舗である。あまり近づくと駐車している車のナンバーが判別できてしまうので距離を置いて撮影している。


何故覚えているかと言うと、歩道加工工事に係る書類申請作業と現場監督を並行して行った初めての場所だったからだ。

工事と言っても店舗の内装などは別業者で、担当したのは店舗前の駐車場整備と歩道部分の切り下げ加工だった。店舗前の自然の土が残っている場所を整地し、砕石を敷いて転圧し翌日舗装する…最後に区画線を引けば終わりというそれだけの小さな工事だった。マル一日べったり現場につくのではなく、作業員の空き時間を元に半日づつ現場作業して延べ3日程度だったと思う。
むしろ歩道の縁石切り下げが一番手間がかかった…実作業と申請の書類作成とも

このコンビニは数年前までは営業していたと思う。店舗が信号機のある交差点に隣接しているので、買い物を済ませた車が安全に出られるように「信号を利用して退出すると安全です」のような小さな立て札が店舗入り口の横に立っていた。 家に帰るのと逆方向なので利用頻度は多くはなかったが数回買い物した記憶がある。
店舗を撤収したのは売り上げの問題と言うよりは、消費者拡大の経営戦略の過程で広い駐車場を確保できるスペースを求めたからと思われる。
実際ほぼ同じ時期に駐車場が充分でなく移転した店舗がかなり多い
《 自転車専用レーンの設置 》
記事作成日:2015/4/3
本路線の起点神原交差点から清水川交差点までの上下線に自転車レーンが試験的に設置されることとなった。これに伴い、3月下旬より旧ラインの抹消と新ラインのペイントが施工されている。

旧ラインの抹消作業。
バス停摺付の破線を一旦抹消し、専用レーン幅に相当する位置へ再ペイントされる。[2015/3/22]


完成した専用レーンのペイント。
車道の路側帯を内側へ寄せることでレーンを確保している。


特にこの区間が設定された理由は、本路線の成り立ちが産業道路で大型車両が通行可能な幅(約10m)が当初からあり、車道を若干削ることで自転車専用レーンが設置可能なこと、自転車通学する学生の利用頻度が高いことによる。追加工事費は800万円で、車線幅が1m狭まるため車道の制限速度は50km/hから40km/hに変更される。[1]自転車専用レーンの設置は市内で初めてということになる。既にペイントは終わっており供用されているが、4日午後1時からうべ交通まちづくり市民会議(略称「うべこまち」)などによる試走会が開かれる。
出典および編集追記:

1. 宇部日報(2015/3/30版)による。
《 清水川交差点 》
市道神原町草江線が恩田地区に向かう手前で市道東新川野中線と交わるこの場所は清水川交差点として知られている。


現在では清水川という小字は住居表示としては現れないが、市道の名前をはじめバス停やアパート等の名称で今も至るところに使われており知名度は高い。
これに対して清水崎という小字の知名度は清水川に比べて極端に低い
そのため信号機には地名表示板が設置されていないにもかかわらず清水川交差点と言えば、多くの市民に正しい場所を理解してもらうことができる。

清水川交差点は遙か昔から道路構造上の問題を抱えたボトルネックと認識されている。
下に交差点の拡大地図を載せておく。


地図でも明らかな通り、清水川交差点では交通量の多い主要市道同士が斜めに交わっている。しかも横切っていく市道東新川野中線は交差点の前後で捻れて接続されている。
恩田方面からやってきて交差点の南側手前に接続する細い道(市道恩田清水川線)と、交差点の東寄りから北上する細い道(市道清水川梶返線)は昔の道で、交差点に向かって出てくるのは至難の業であるせいか車の往来は少ない。この道は清水川交差点の渋滞には直接影響しない。

斜めに横切る交差点の宿命で、車の停止位置は交差点より随分と手前に引かれている。そのため直進でも交差点を抜けきるのに時間がかかる。他の交差点と同じ感覚で黄信号で突っ込むと、交差点の半ばあたりで完全に赤となる。赤信号の替わり端に突っ込む車のせいで、前方が青信号になっても発進できず待たされる事態が頻繁に起きている。

右折レーンはあるものの鋭角に折れる形で通り抜けに時間がかかり、また黄や赤で突っ込む直進車両のせいで右折が1〜2台しか捌けない事態が頻発していた。このため右折レーンが出来て暫く後に右折専用信号が追加された。


自歩道も交差点に沿って曲がっており、ブロック塀に遮られ見通しが悪いのでミラーが設置されている。
3年前の撮影時は奥にある1基だけだった…衝突事故が多いのだろう

ここで横切る市道東新川野中線の交通量も極めて多い。それにもかかわらず横切る市道には右折レーンが存在しない。
したがって当然右折矢印もない


斜め接続となっているために、右折車両が一台ならばその左をすり抜ける形で直進や左折は何とかこなれる。しかし右折車が2台あればもう完全にドン詰まりが発生する。悪いことに東新川野中線からは双方向とも右折する車が非常に多い。

現在はドキュメントが消えているのでソースを提示できないが、かつて清水川交差点で検索したとき、県内の「改良を要する交差点」として国道2号の瓜生野交差点と共に指摘項目となっていた時期があった。
瓜生野交差点は最近、交差点が改良されるという話を耳にしている。しかし清水川交差点は関わる道がすべて市道であり、道路敷の確保から市が自力で行わなければならない状況にあるせいか立ち消えになっている。
私的見解だが、交差点の角にあったガソリンスタンドが2年くらい前に撤退したときが交差点改良の最後のチャンスだったと認識している。このとき市道東新川野中線側に専用レーンが確保されることを期待していた。しかし程なくして同じ敷地に眼科が造られ駐車場となってしまったことで、清水川交差点の改良は絶望的となった。
昔の清水川交差点周辺の様子を想い起こせば、現在眼科になっている場所にガソリンスタンドがあり、最近まで営業していた。その対角側にあたる場所から近くに社宅が並んでいた。

小学生時代、図工の屋外水彩画描写の一環で清水川交差点に来た記憶がある。このとき私は自歩道にミラーがある場所近くに陣取り、対角側にあるガソリンスタンドと近くの電柱を描いた。どうしてこの場所がスケッチ対象場所に選ばれたのか分からない。
いくら物持ちがいい私でもさすがに絵画は持っていない

今から思えばこんな交通量の多い交差点の歩道に座り込んで水彩画を描くなど信じがたいのだが、当時は道路の交通量は今の半分以下だったし、ライフスタイルが今とは違っていて平日の昼間に出歩く人が滅多におらず、歩道を通る人や自転車が殆どなかった。そのため美術の授業で1クラスの人数が散らばって交差点周辺の歩道でスケッチをしてもさほど通行人の邪魔にはならなかった。
【 記事公開後の変化 】
2015年の5月上旬のこと交差点の西側の角にあった店舗が解体された。しかし交差点改良に伴う用地交渉などは計画自体もなかったのか同じ敷地内に新たな建造物の工事が始まっている。このことより市道東新川野中線側に右折レーンを造るなどの交差点改良が実施される可能性はゼロとなった。
《 ヤマザキのパン屋 》
国道を横断して沢を下っていき、市道岬赤岸線と交わる手前の右側には、かつてヤマザキのパン屋があった。
概ねこの近辺で、昔の店舗は既に存在せず現在は個人の家屋になっている。


中学一年生の頃、どうやら私の朝食は食パンだったようだ。朝起きて母に食パンを買いに行くよう言われて自転車でひとっ走りする記述が当時の日記にみられる。
その記述からして朝7時過ぎには店が開いていたようだ

買っていたのは6〜8枚切りの食パンで、黄緑色の背景に「無漂白」と白抜き文字で描かれた袋入りだった。値段は…日記を参照してみないと分からないが確か130円くらいだったと思う。
自分から何かを買おうとこのお店に来たことは殆どない。理由は簡単で、菓子を売っていなかったからだ。もっともヤマザキのお店だけあってケーキも並んでいて、たまに誰かが「ケーキが食べたい」などと言ったとき親父がお金を出して家族の人数分ほど買いに来たことが何度かあった。

お店は確か個人経営で、恐らく当時の自分の母と同年代くらいの女性が切り盛りされていた。店の入口は4枚のガラス戸で、開けると奥から出て来られた。正面にウィンドケースがあり、ケーキが並んでいた。奥にはパンをカットする機械があり、袋詰めされた分が売れてストックがないときは、直方体をしたパンを目の前で枚数分切り出してくれた。私は薄手のが好きだったので切ってもらうときはいつも8枚だった。
確かこのパンをスライスする機械で指を怪我されたという話を聞いている

明るくて愛想の良い人だったが、特によく話したとかそういうことはなかったと思う。それと言うのも朝のパン買い出しは母に言いつけられて嫌々に自転車を漕ぐ状況だったからだ。元から朝が苦手なところに、起き抜けすぐ自転車を漕いで買い物など行けるものではない。日記には眠気が覚めずぼんやり自転車を漕いでいて溝に落ちかけた…という記述もみられる。

朝の食パン買い出しは中学3年生になる頃には行かなくなった。食パンを食べなくなったか、別の店で買い置きするようになったかだろうが理由は分からない。[1]大学時代は通学で草江駅まで自転車を毎日漕いでいたので、この店の前は必ず通った。その頃はまだ店は開いていたと思う。家族向けのケーキくらいは買いに来ていたかも知れない。

お店の名前は分からない。ヤマザキ特有の赤のバックに白抜き文字のサインはあったが、明確な店舗名は出ていなかったような気がする。しかし母は私よりは頻繁に買いに行っていたようで名前を知っているようだった。もっとも個人に係ることなのでこれ以上のことについては触れない。
今や恩田町内に長く住んでいらっしゃる方でもお店の存在を覚えている人は少ない筈だ。ヤマザキの無漂白の食パンは今もあるのだろうか…その食パンとヤマザキのこのお店は、朝が弱い自分でさえ起き抜けに食パンを食べなければ昼までお腹がもたない育ち盛りな中学生時代の自分を支える存在だったのだ。
出典および編集追記:

1. 丸信恩田店のオープンが昭和52年頃であり、親が買い物を丸信でするようになった影響もあるだろう。
《 恩田市民センター横の鮮魚店 》
市道神原町草江線に沿って、恩田市民センター(現在は「恩田ふれあいセンター」となっている)に隣接する場所にかつては個人の鮮魚店があった。

これは市民センターの横である。


反対側から撮影。
こちらも昔の店舗は既に存在せず民家が建ち並んでいる。


この写真からは想像するのも困難だが、現在右側に並んでいるブロック塀が昔の市道神原町草江線の右端で、当時の道路幅は精々左に見えている歩車道境界ブロックまでだった。
この自歩道を真っ直ぐ延長すると市道の未改良区間に一致する

今でこそ刺身を食べたければ最初から刺身の形で売られているものを買うのが普通だが、かつて恩田に暮らしていたX十年前は、魚を買ってきて自分でさばくか、お店に頼んでつくってもらう以外なかった。昔は台所と言えば主婦の聖域で男がウロウロすべき場所ではなかったから、包丁で魚をさばくのも主婦に求められる家事技能の一つだった。
もっとも当時の主婦の誰もが普通に魚をさばけていた訳ではない。うちの母も血を見るのが苦手で、中くらいの魚のわたを抜く程度だったらしい。そこで仲の良い友だちに頼んだり、お店でつくってもらっていた。
お袋よ暴露してゴメン…もっとも私は魚をさばくどころか包丁すら満足に握れないヘタレだ^^;

家族に刺身やフライを食べたいと思っても特定のお店にいつも希望の魚があるとは限らない。母の頭にはいくつかの鮮魚店があって、夕食の献立作りの過程でいくつかのお店に電話し、希望の魚がある店でつくってもらっていたようだ。私が覚えている限りではそのような個人の鮮魚店が2店あり、一つはかつて東新川通りに存在していた店とここにあったお店だ。
富朝の刺身もよく買っていたが人気があるせいか良い時間に行かないと欲しい刺身が買えなかった

私は小学生〜中学生時代、しばしば電話で頼んでおいた魚を取りに行くお遣いをした。母から代金を渡され、取りに行く店だけを教えられた。電話で頼んでいるので、名前を言うだけで冷蔵庫からすぐ出してもらえた。つくられた魚は刺身にしろフライ向けにしろ、薄い耐水性のある紙に包まれ、滲み出る水分を吸わせるために新聞紙に包まれ、輪ゴムをしてビニール袋に入れられていた。お店の人が間違えないように、新聞紙にはマジックで名前が書かれていた。特に濃い付き合いがあったのではなく、私たちは普通のお客だった。

時代は下り、刺身は3枚におろされた状態で売られるようになり、更には柵や始めからつくられてつまも添えられたパックで売られるようになった。私も今や精々、柵で売られている刺身をスライスして食べる程度だ。
手を汚さず手間はかからずそれなりに美味しい。しかし魚を自分でさばき、新鮮な刺身を堪能し、頭などのあらは澄まし汁に入れて…などという部位による利用回しの知恵を身につけることはないのだった。

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