市道門前馬の背線・横話

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現地踏査日:2013/2/15
記事公開日:2013/3/9
《 門前の庚申塚 》
市道門前馬の背線が急な坂を登り詰めた先で稜線を辿る小さな用水路(本編では馬の背水路と仮称する)に出会う。


市道はここで左に曲がり山へ向かうのだが、この反対方向に向かう馬の背水路を辿ると、市道高嶺中山線の跨道橋少し手前に大きな庚申塚がみられる。


この庚申塚の所在地を航空映像地図として示す。


大きな平たい石の表面に「庚申」とだけ深く彫られている。
実はその右下に小さな文字があるようだが読み取れなかった


裏側には何も記載されていなかった。
全体が建築ブロックの台座に載せられており、相応な扱いを受けているようだ。


市道レポートの本記事でも書いた通り、私が初めてここを訪れたのは十数年前のことだった。そのときは常盤用水路の経路探しが目的で、たまたまこの場所に見つけた水路の先を辿るために山奥へ分け入っただけで、跨道橋のあるこちら側は訪れていなかった。
私がこの庚申塚に気付いたのは、市道レポート向け撮影のために自転車で訪れた数年前のことだった。

今でこそ庚申塚という名称や由来を知っているものの、初めて見つけた数年前はまったく意味が分からなかった。「庚申」を正しく読むことはできたしそれが十干十二支から成る言葉であることも分かった。しかしこのようなものを見たことは今まで一度もなく、私の中ではこれが初めて目にすることになった庚申塚だった。

道端や峠にある石碑や石仏を見ると、どうしても墓石が連想されてしまう。うちの親はこういった石碑には殊の外冷淡というか無理解で、幼少期から近づかず眺めないようにと教えられてきた。恐らく無縁仏の墓と一緒くたにしていたのだろう。

その後、道端にある石碑や石仏の殆どすべては墓石とは無関係であることを知った。[1]実際、一故人の墓なら墓地に祀るものである。このような石碑は、遙か昔この地で何があったかを今に伝える貴重な資料なのである。
現代では三尸虫の話も含めて庚申信仰自体まったくの非科学的なものであり、それ故に明治期には庚申塚自体が政府の手により積極的に撤去された経緯がある。
しかし道端や峠付近の祠などを丹念に観察したところ、未だ市内にも庚申塚が結構沢山遺っていることが判明した。表面に庚申の文字が陰刻されているのは殆ど共通するが、石碑の形状や文字のデザインなどはとてもバラエティーに富んでいる。
出典および編集追記:

1. こう書いているものの実のところ一概には言えない。例えば「三界萬霊」と刻まれた台座に据えられた仏像を見ることがあるが、無縁仏を合祀したものと考えられている。この他にも昭和期の洪水で身元が分からないまま流されてきた被災者のために設置された祠が存在する。(2016/6/20)
《 馬の背水路の水神様? 》
現地踏査日:2013/2/15
記事公開日:2013/3/10
市道門前馬の背線が馬の背水路に沿って山手に向かい始めた先、水路のすぐ外側に奇妙な踏み跡が見つけられる。
そこだけ別の細い水路があって藪が刈り取られトンネルのようになっていた。


初めてこの道を歩いた十数年前には水路の先行きを知ることに集中していたせいか通り過ぎており、数年前改めて自転車で訪れたとき気付いた。
そのときは正体を知ろうと思い、自転車を停めて中へ分け入った。


馬の背水路もそれほど幅がない水路だが、更に細い溝のような水路が設置されていた。
傍目にもかなり古く、溝の中には沢山の小石が落ちていて現役かどうか分からない。しかし水路に沿って草刈りされた痕跡があった。


この水路に沿って奥に小さな祠を見つけたときにはさすがに驚いた。


墓でないことは先の庚申塚同様明らかだったが、場所柄初めて訪れたときにはさすがに薄気味悪く感じられてカメラを向けられなかった。
今ではそれほど抵抗感はない…もっとも畏れ多くて今でも接写する気にはならない


祠はコンクリート製で、中には石仏らしきものが納められていた。
この祠の意味もさることながら、水路が何処から来ているのかが気になった。

祠のすぐ先は片側の地山が痩せていて水が流出しないように新しい側溝が据えられていた。


このU字溝は初めて訪れたときには存在しておらず、今も水路が使われているらしいことを裏付けた。

水路の先は自然の溝になっていて、更に先は洞窟のように見える奥へ続いていた。


実は初めて訪れたときは上の場所まで接近した後引き返していた。足元がとても悪いことに加えて、あの祠の存在からもしかすると神聖な場所でこの先に立ち入ってはならないような気がしたからだった。
薄気味悪くて進攻自体憚られたというのも理由にあった。

まさか…洞穴になっているのではあるまいな…sweat

このたび初めてここから奥に分け入ってみた。
足元はぬかっていたし、何よりもカメラのフラッシュと同時に洞穴から野生動物が飛び出してくるのでは…という現実的な懸念もあった。

しかし接近するにつれて黒々としたあの場所の正体が明らかになってきた。
いや、洞穴ではなさそうだ…


どうやら山の水が集まる道になっていて抉れているだけらしかった。
このあたり足元が非常に悪い。転石が多くて無造作に歩いていると足を挫きそうだ。


それ以上進攻せず、黒々とした場所に向けて思い切り両腕を伸ばして撮影してみた。
同じような大きさの栗石が散乱しており、人工物の石積みなどがあったのかも知れない。


この先に溜め池などは恐らくない。しかし昔から水の道があることが知られていたために、水路を造って灌漑用水を導こうとしたようだ。

3年前に自転車で訪れたときの撮影である。
このときは祠に新しいお花が供えられていた。


花が供えられていることから、今でもこの祠を看る方がいらっしゃることが分かる。それほど今も昔も重要な水源の一つなのだろう。
このことから祠の正体は、水の神様を讃え祀ったものではないかと推察されるのである。[1]
出典および編集追記:

1. この祠は水神様ではなく、藤山八十八箇所のうちの一つ(第86番)である。初回発見時はもちろん記事公開時でさえ藤山八十八箇所の存在を知らなかった。弘法大師の台座部分を観察すれば札所の番号が記載されているので気付いただろうが、畏れ多い気持ちから詳細に調べずにいた。
いずれ写真を撮り直して藤山八十八箇所の項目へリンクを案内する。
《 馬の背水路の分水井堰 》
この辺りは市道の管理外かも知れないが、馬の背水路の上流に蛇瀬川へ余剰水を返す井堰が存在する。


今は灌漑用水非需要期であり、水路に堰板を設置して流水を蛇瀬川に返すようになっていた。


上流側から撮影。


灌漑用水需要期には水路側に用水を供給するために、流下路側に堰板を設置する造りになっていた。


余剰水はここから滝のように落下して蛇瀬川の水を供給している。


しかしこの場所が蛇瀬川の最上流端というわけではなく、更に上流側には自然の小川が形成されている。それは恐らく馬の背堤の下池から流下していると思われるが、接近可能な経路が存在しない。

なお、ここから下流側を部分的に辿ることはできている。いずれ蛇瀬川の記事で詳細報告する予定である。

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