市道平原浜田線【2】

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(「市道平原浜田線【1】」の続き)

市道が経路中の最高地点を過ぎると、ごく緩い下りに変わる。
この近辺も今では道の両側に民家がひしめいている。


きつい登りがなくなり自転車でもホッと一息つける区間だ。
最高地点と言っても民家や個人商店が並ぶために峠というイメージは殆どない。


この商店の近くにちょっと気になるペイントが路上にある。いずれ抹消されるかも知れないが、相当以前から引かれている。
派生記事: 意味不明な横断ペイント
ここを過ぎると市道は僅かばかり左に曲がりつつ特徴的な分岐路に出会う。


ほぼ同等に左右へ分岐している。思えば市道をスタートしてから出会う分岐路は企業局や地元管理の道ばかりで、他の市道の分岐がなかった。
何の予備知識もなくここへ差し掛かったら、三差路だけを見ているとどちらが本線か判断しづらいだろう。


さて、本線はどっちだ?


…と言うまでもなく、路線名からして浜田方面へ向かわなければならないので、ここは当然左だ。
しかし交通量は右の方の道も相応にある。


右の分岐路は若干狭い。市道藤曲中山線で、ここを起点として中山方面に下っていく。道路レポート向けに走るかどうか分からないがリンク用テキストのみ配置しておく。
派生記事: 市道藤曲中山線
(記事が書き上がり次第リンクで案内します)

スタート地点の新設道路標にも記載されていた通り、この道は浜田に抜ける現路線より後に整備された。今でこそ住宅街の中の市道だが、昭和40年代後半の国土画像情報を参照すると、民家のブロック塀の見えている山側は完全な山野だったことが分かっている。


この分岐する市道も含めて、私が現路線に関わった第二のパターンである。即ち野山に暮らしていて私設バドミントンクラブを運営していた時代は、県道を中山まで下り、文京台に上がる道を経て市道藤曲中山線と現路線を経由して平原にあるパルセンターに向かっていた。毎週日曜日午後の定例業務で、数年間通い詰めた。
随所で散発的に触れている通り私設クラブの廃止はテーマ踏査活動開始との引き換えだった

分岐路の中心部。左へ曲がるのが本線という実態にも即して交通上も優先扱いになっている。即ち市道藤曲中山線から出てくるときは一旦停止を求められる。
追記的に…真ん中の細い道を上がっていくと後で述べる智光院がある


正確な場所についての保証はないが、私個人としては本路線の最高地点より若干進んだこの分岐路付近を由利野峠と認識している。
私的事項も含めて記述が多くなりそうなので別途派生記事に書いた。
派生記事: 由利野峠
本路線の中核的な場所であるだけになかなか先へは進まないが…中山に向かう分岐を過ぎて恐ろしく大きくカーブしている。


市道藤曲中山線の起点を背にして振り返って撮影している。


同じ立ち位置からカメラを右方向へスライドさせると市道の進行方向になるのだから、180度転換も同然の線形だ。


動画でも撮影しておいた。

[再生時間: 9秒]


起点からここまで本路線は僅かなブレはあるものの概ね直線的に登ってきた。私有地を提供することで道路を新設したので、よほど支障のない限り最短距離の線形を構成するだろう。ここへ来て異常とも思えるきついカーブになっているのは、何かの理由があると考えざるを得ない。[脚注]

現在は住宅地になっているこの近辺も石炭景気に沸き始めた明治20年代は何軒かの瓦焼工場があり、皿山と呼ばれていたらしい。瓦や素材の土を運ぶ馬車道が造られたものの瓦産業も衰退していったとされる。[1]本路線が新設されるよりずっと昔の話で、当時は浜田へ抜ける道は別の経路を通っていたとされる。

このきついカーブの部分は、もしかすると昭和期に道路を整備した以前からあった部分で、重要な工場などが軒を連ねていたために線形を変えられなかったなどの事情があったのではとも思える。カーブ部分から先が下りになっているものの、カーブで距離を稼ぎつつ縦断勾配を和らげる必要があるほどの高低差はないからだ。
ただ、この分岐路の正面は小高い丘になっているので、左カーブは必然となる。家に隠れて分かりづらいが正面の丘は峠となる付近より10m近く高い。

このカーブは現在でも充分な交通のネックとなり得る。しかし通行する車は周知していて、ぶんぶん飛ばして走り去るドライバーは居ない。
生活道路扱いなので上限30km/hだが、片勾配のない道なので速度が出ていると本当に曲がりきれない。
対向車線の見えない完全なブラインドカーブなのだ。


さすがに昭和中期以降に拡げたのだろうか…峠から先はセンターライン付きの対面通行可能な幅になっている。
分離された歩道のガードレールも私が高校生時代に自転車で走っていた頃からあったと思う。


僅かに接続部分のストレートをこなした後、今度は逆の右カーブだ。
このカーブの方が半径は大きいもののやはりかなりきつい。


カーブエンド付近で左からの道が合流してくる。
もっとも出入りする車はそう多くはない。


ここで左から合流するのは市道居能大迫線である。自転車では一度しか通ったことがない。
かなり曲がりくねっているがこの道も平原まで降りることができる。
昔車で入ってみたものの行き止まりで引き返したような記憶があるのだが…


振り返って蛇行カーブ部分を撮影。
最高地点を過ぎてゆるやかに下ってきている。
沿線住民は車の車庫出し入れにかなり神経を遣うのでは…


この蛇行カーブは、高校生時代の自分にとっては峠を越えて一息着ける区間だったし、帰路では登り勾配が緩んであと一頑張り…という場所だった。もっとも昔のことであり、相当回数走っていながらこの場所そのものには特に想い出や事件はない。ただ漠然と当時の景色が思い浮かぶだけだ。

しかし由利野峠の木製柱と並んで、当時から気になっていた光景がもう一つある。
それは現在も昔とさほど変わっていない。


最高地点を過ぎると寧ろ民家が減って、
浜田側の下りは家がない区間が続く。
私が高校生の頃から本路線の起点から峠まで沿線には民家が並んでいた。峠付近の家並みも昔とそれほど大きく変わってはいない。峠を過ぎて下りに差し掛かると段々家並みが減り、遂には家がまったく見当たらなくなる。

この光景は現在では若干異なり、峠から北側にも若干の民家が並んでいる。
左側の分岐路は地元管理の道で、かなり昔に仕事で訪れたことがある。当時は何処にも抜けられなかった。
現在は浜田の住宅地に繋がっている模様


この近辺はもう東平原ではなく文京台になる。文京台は平成期に入ってから家が建ち並び始めたニュータウンである。このため峠を越してからも民家の並ぶ面積が昔より増えたが、高校生時代に訪れたときは峠を過ぎると本当に嘘のように家が一件もなく、寂しい山野同然の道だった。
通常、最高地点の峠はあまり民家がなく坂の麓へ下るにつれて家が増えてくるものである。しかしこの道は最高地点まで家並みが途切れないのに、峠を越えて下る側に民家がないのが高校生時代の自分にはとても奇妙な光景に思えた。

現在でも道幅は拡がっていながら坂を下りきるまでまったく別の山野を走っているような景色になる。自転車にとっては跨っているだけで距離を稼げる有り難い区間の到来だ…

(「市道平原浜田線【3】」へ続く)
出典および編集追記:

* この異常なヘアピンカーブの連続は(現在の周囲の状況からすれば想像し難いことだが)本文中にあるような工場群を避けたためではなく、昔の地勢を素直に反映したものであったことが判明した。
昭和37年に採取されたモノクロ航空映像を眺めると既にこの連続カーブが存在し、道のすぐ南側はカーブを挟む形の谷地になっていて民家は見当たらない。北は現在もそのままある智光院の油利野山となっている。
以下のリンクから高解像度表示ボタンを押すと詳細映像が表示される

MCG624-C8

航空映像では本路線の西側にかなりの幅と深さがある沢地が存在し溜め池も見えている。小字絵図ではこの辺りに惣田ヶ迫という地名が与えられている。現在住宅地となっている部分は本路線の高さに近づくまで沢地を埋めた結果のようである。実際、現在もなお本路線よりも住宅地の方が若干低い。本路線のカーブ部分から下の沢地を盛土によって地上げし、更に住宅地で埋め尽くされたために周囲の地勢が見えづらくなっている。大幅な地勢改変があった後も住宅地になる以前からあった連続カーブが線形改良されることなく取り残されてしまったのである。(2016/11/21)

1.「ふるさとの道」(山口県ふるさとづくり県民会議編)

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