市道恩田線・横話

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ここでは、市道恩田線の派生的な話題をまとめて収録している。
《 市道恩田線起点の信号機新設 》
現地撮影日:2014/2/16
記事作成日:2014/3/1
本路線の起点となる市道神原町草江線との分岐部分にこの最近信号機が設置された。
神原町草江線の終点側から清水川交差点を向いて撮影。


本路線の起点取り付け部分を撮影。


本路線の起点は神原町草江線に対して見通し改善のために直角に近い形で取り付けられている。この改訂はかなり早い段階で行われた。しかし信号機が設置されたのは2013年の夏頃である。
本路線は現在でも八王子方面に向かうバス路線となっている。八王子方面から清水川へ降りるバスは、この場所で車の切れ目を見極めて合流しなければならず、安全性確保のために設置されることとなったのかも知れない。それほど双方の道に交通量が増えているのだろう。

最近は恩田という地に縁が薄く車で殆ど通らないため、交通実態に与える影響がどの程度かは分からない。この近辺は国道190号の交点である恩田東交差点をはじめ、野球場の前を通る市道恩田野中線との交点、そして本路線、更に市道東新川野中線の交点である清水川交差点のように、かなり短い間に信号機つき交差点が続く。
この周辺地域でのメインとなる道は明らかに市道神原町草江線である。メインの道に対する信号連動性は調べられていない。充分に考慮しないと朝夕のラッシュ時に余計な渋滞を招いてしまうだろう。

《 師井皮膚科 》
現地撮影日:2015/2/8
記事作成日:2015/2/22
恩田交差点の50m程度手前左側にある建物はかつて師井(もろい)皮膚科だった。


私たちが恩田の地へ引っ越してきたときから開院していた皮膚科である。
何の科であれ家からもっとも近い場所というものは第一選択の候補になる。内科、歯科、散髪…なべてそうだった。もっとも学童期を含めて皮膚の症状に悩まされることは他の科に比べてそれほど多くはなく、通院回数はトータルでも十回程度だったと思う。特に印象的だったのは、大学時代に始めた洗い物関連のアルバイトで罹った接触性皮膚炎の治療である。

町内なので車で来たことはなく専ら自転車で通院していた。恩田を去った後も2〜3回程度訪れたことがあると思う。親父は他を頼らずこの皮膚科に通って薬をもらっていた。若い頃の病気は回復力があるせいか処方された薬がなくなるまで使う前に治癒してしまう。そのため机の引き出しには現在も効能別の薬が保管されている。抗真菌薬やアレルギーを抑える薬などである。
一般には推奨されないのだが殆ど誰でもやっていることだろう

現在のアジトへ引っ越して来てからギンナンの処理中にかぶれたときは近い所にあった別の皮膚科を訪ねている。そのときまでにたまたま本路線を自転車で通ったとき閉院していることを知った。その後、2014年の始め頃から奇妙な皮膚病に悩まされるようになった。
そしてもう恐らく治ることはなさそうで薬を飲みつつやり過ごしているのが今の状況

最近、本路線を自転車で通ったとき玄関に閉院を告げる貼り紙が出ているのを見つけた。3月末付となっているので恐らく2014年のことと思われる。忘れないうちにと撮影し項目として記事化した次第である。なお、私自身と師井皮膚科については院外においての個人的関わりはない。

《 エッソ恩田店 》
記事作成日:2015/1/28
エッソ恩田店は恩田交差点の北東側角地にあるガソリンスタンドである。
現在も営業中の店舗なので顧客が写り込まない位置から撮影している


この店舗が営業開始した正確な時期は分からないが、私たちが恩田へ越してきた当時はまだ無かったようである。国道が4車線に拡幅された時期ではないだろうか。
親父の会社での指定スタンドとなっていたため、本路線で恩田交差点に差し掛かる手前でガソリンスタンド内へ乗り入れて給油し、国道190号に退出して自宅へ帰ることが多かった。この流れは私自身が車を運転するようになってからも引き継がれた。会社が支給したチケットを提示すれば、請求は会社の総務へ回るのでガソリン代に関しては自腹を切る必要がなかった。むしろ会社の業務で一個人の車を使用するので車両手当が支給された。会社の指定スタンドはこの恩田店の他に宇部新川駅前店[1]、厚南店が存在した。

勤務会社の関連上、車のガソリンだけでなく冬場の暖房用やお風呂のバーナーに使う灯油も宅配をお願いしていた。車庫裏にあるボイラー向けのタンクとドラム[2]、ストーブ向けの携行缶数個を一度に満杯にしてもらっていた。ただし会社を辞めてからは現在の恩田東交差点にある床波石油のスタンドで給油するようになり、灯油も同様に配達してもらっていた。

生活圏から遠くなってしまったこととセルフスタンドの普及により現在ではまったく利用したことがない。ただし数年前不意に灯油を切らせてしまったときたまたま買い物でこの方面へ向かう便があったので携行缶で購入したことがある。このガソリンスタンドについても顧客以外の個人的関わりはない。
出典および編集追記:

1. 2013年頃閉鎖され現在は更地になっている。

2. 個人宅で燃油備蓄を目的にドラムを据えるのは一定の制約があるのだが、殆ど守られていないのが現状で何処の家庭でも設置されていた。
《 恩田について 》
記事編集日:2015/2/1
恩田(おんだ)とは常盤通りの南端から国道に沿って宇部線を越えた西側を指す地名で、恩田町として広範囲を擁している。写真は恩田小学校の正門(東門)とその上部に掲げられている「恩」の字を元にした小学校の校章である。
私たちの学童期時代には校章を掲げたアーチは存在していなかった


恩田小学校をはじめ、認定市道やバス停、店舗支店名として恩田を冠するものは極めて多い。現在も恩田校区を構成する。市内の町名でも知名度は高く、殆どの宇部市民は恩田の場所を正確に答えられる。個人的関わりとして幼少期から成人に至るまで今のところ最も人生の長期に渡って過ごした町だった故に、住み始めた初期から引っ越し直前およびその後に至るまでの変遷を覚えている。
【 歴史 】
恩田は地勢面ではかつて恩田山と呼ばれてきた[1]ように緩やかな丘陵部で目立った河川がない。それ故に農耕を営む時代へ変遷してからも水源が乏しいため居住者は疎らであった。耕作地の拡大を志向して移り住む人々が増え始めたのは常盤池の下溝により灌漑用水が回り始めた頃と考えられている。実際、恩田校区にある小字には田や灌漑用水にまつわるものが目立つので、そういった地名の誕生は江戸期より遡らないかも知れない。

市内で標高の低い地では石炭が産出されたが、恩田も早くから積極的な採炭が行われていた。初期の採炭は常盤池以前に営まれていたような一散掘りだったが、効率的な採炭法が開発されてからは恩田山の広域に渡っている。ごく最近まで当時掘り出されたとされるボタの積まれた場所が遺っていたことが知られる。恩田へ越して来たのは昭和40年代半ばで、当時は今思えばボタの痕跡だったと思われる場所がいくつもあった。

町の中心部を国道190号が東西に貫いており、昭和40年代頃までは家屋は国道筋を中心に散在し交差点付近にややまとまって建つ程度であった。例えば現在の恩田バス停付近からの眺めは見初変電所までは低い場所は田ないしは荒れ地、やや高い場所はキャベツ畑だった。団地やアパートはもちろん2階建ての民家も稀で現在よりは遠くまでの眺めが効いた。宇部興産(株)やセントラル硝子(株)による木造平屋の社宅はかなり目立った。
恩田地区の人口が顕著に増加し始めたのは昭和50年代の初めである。殊に現在の草江にあたる赤岸にあったスケートリンク(宇部アイススタジアム)および第2宇部ボウルが閉鎖され丸信恩田店が誕生してからは、それまで荒れ地や休耕田だった場所に民家が建ち始めた。国道190号の恩田〜常盤公園付近までが4車線拡幅されたのもほぼ同時期だった。

更に増え続ける人口と居住地需要に対応するために、昭和50年半ば以降から沢地の田が新興住宅地へと生まれ変わり恩田地区全体の耕作面積が著しく減少した。現在では個人的な穀物需要を満たす程度の田しか遺っていない。
昭和57年頃に住居表示改定があり、かつて宇部市東区恩田の後ろに小字名を付けて呼ばれていたものが置き換えられて小字の呼称は次第に使われなくなった。恩田町1〜2丁目は昭和中後期と比較的早く出来たが、3〜4丁目は昭和59年に整備され、5丁目ができたのは昭和61年のことである。[2]住居表示改訂は野中や則貞にも時期をずらして及んだため、元から存在していた多くの小字が失われた。
隣接する区域はすべて既に住居表示体系が完了しているため、現在有る恩田町の表示範囲が大きく変わることは恐らくない。住居表示としての恩田町1〜5丁目、恩田校区、歴史的に恩田山とされた領域はすべて異なるため、現在では恩田と一口に言ってもどの場所や範囲を指すかは時代により大きく異なってしまう現状がある。小字絵図でも既に恩田町1〜2丁目となっており字恩田とされる場所が正確には特定しづらい。現在の道が街道筋を拡幅する形で発展したと考えれば概ね現在の恩田交差点付近ではないだろうか。

交通の便が良い国道に沿って飲食店を始めとする商用の建物が目立つ。スーパー、コンビニ、銀行、歯科など日常的に利用する施設の多くが集っているため、恩田町の範囲内で日常生活殆どの用は足りる。ただし住宅地としては既に飽和状態に達しており、昭和中期に建てられた戸建て住宅は更新期に差し掛かるものと思われる。国道沿いの店舗類は更に早いテンポでスクラップ&ビルドやオーナーの入れ替わりが目立ち始めた。
【 地勢 】
地勢的には恩田は最高地点を特定しづらいなだらかな丘陵を形成している。特に神原や清水川方面から恩田に向かったとき、清水川交差点を境に登り坂となる。地山の始まる地点に恩田河内神社があり、江戸期には既に沖宇部村の中の恩田山という小村が見えている。
恩田地区に目立った河川はないが、常盤池の完成と共に誕生した下小場の灌漑用水の恩恵を受けてきた。排水路としては中長沢と長沢の間に松尾水路、長沢と赤岸の間に中川が存在する。いずれも昭和後期まで未処理の生活排水も流れ込む大変に汚いどぶ川だったが、平成期の汚水管布設で雨水のみを流すようになってからはかなり回復している。
現在の国道は丘陵部を通っており、一部は沢地を埋めて道路敷を確保している。恩田バス停付近は中長沢・長沢にあたり、実際ここは国道の北側から続いている浅いが長い沢地である。かつての長澤炭鉱はこの沢地の南端にあり、昭和後期頃まで掘り出したボタを野積みした状態で長く放置されていた。[3]ただし恩田地区を通じて坑道の陥没被害についてはまったく聞き覚えがない。
【 由来 】
恩田という名の由来はいくつか考えられるが、神々に捧げる米を作る地として特別に年貢が免除されていた田に由来する[4]という説を有力視している。「おんだ」の音読は「隠田」に通じ、年貢徴収を免れるための隠し田があった地という説もある。[5]隣接する則貞も市内で著名な名田由来の地名の一つであり、この近辺一帯に何かの意味ある田が存在していたらしいことは確実であろう。

同じ音を持つ似た常用漢字に「思」があり、漢字の類似性から恩田小学校の低学年児童はしばしば思田と誤記していた。[6]
出典および編集追記:

1.「ふるさと歴史散歩」p.90

2.「ふるさと恩田」(ふるさと恩田編集委員会)p.2

3. 市道笹山岬台線が長沢の沢地を横断する場所にかつて酒屋の一升瓶置き場があった。その一角だけは奇妙に黒々としてやや水分の多い土が沢地を占めていた。母は恩田へ移り住んだ頃からそれが長澤炭鉱のボタであることを聞かされていたようである。当時の自分は遊ぶことに一所懸命で気付いていなかった。
恩田河内神社境内には長澤炭鉱が寄進した狛犬が存在する。昭和12年作成の宇部市街図には現在の五十目山町付近に炭鉱を示す記号が記入されている。

4.「Wikipedia - 神田」には御神田に対し「おみた、おんた」の読みが与えられている。個人的にはここに由来をおき、漢字表記はお上の御恩という意味も含む「恩」の字を借用したと考えている。

5.「山口県地名考」高橋文雄著

6. 子ども同士がやり取りする年賀状の住所表記などにみられた。「思」も「恩」も当時の教育漢字だが、恩が小学校高学年配当なのに対し思は低学年配当だったことにも依るだろう。

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