市道島線・横話

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この記事は、市道島線の派生的記事を収録する。
《 島について 》
記事公開日:2013/10/6
島(しま)はこの近辺一帯に存在していた小字[1]で、現在は島1〜3丁目により構成される。このうち特に昔の姿を留めているのが島1丁目と島2丁目の地区である。
島3丁目は恐らくかつての小字である蛭子の一部を含む


高低差が等高線となって現れる国土地理院の地図で観察すると、島という小字の成り立ちが実に地勢に呼応していることが理解される。即ち最高地点が10mを若干越える島状の領域であった。
島と下条の間は現在こそ浜バイパスが平坦路で通されているものの、かつては下条寄りの細い道が主要な公道だった。
このことより居能方面に注いでいた間占川は島と下条の間ではなく島地区の南端を通っていたと推測される

島地区には渡邊祐策翁の屋敷である松厳園をはじめ、歴代宇部市長国吉氏も邸宅を構えていた。当時の市街部とされる新川地区に近く、標高のある島地区は重要な拠点だったと考えられる。旧図書館も同じ島地区に造られ、市街地にできるだけ近くて高潮などの風水害から重要な書物を護るためだったのではないかとも推察される。[2]

平成期に入って進められた小串土地区画整理事業に伴い、島地区周辺の殆どは現地改変され昔の姿を偲ばせる場所が少なくなった。東西を横切る道として浜バイパス(市道北琴芝鍋倉町線)と産業道路(県道琴芝際波線・市道小串通り鍋倉線)で、南北の道として同県道と市道島下条線により正方形状に昔ながらの景観が遺る領域を形成している。

この地区には多くの生活道路があるものの、その殆どは四輪を通さない道である。現在のところ、産業道路と島下条線を連絡する市道島線のみがこの丘陵部を通る認定市道で、他は地元管理の道ないしは私道である。後述する石畳の道を含む市道島線はむしろ例外的な単一勾配で、多くの生活道路では、自転車でも押し歩きが要るような急な坂となっている。
《 島の石畳道 》
現地踏査日:2013/10/4
記事公開日:2013/10/6
正式な名称があるかも知れないが、暫定的にこの項目名で記事を書いている。

市道島2号線を横切った先から登り坂が始まる。
この坂部分は独特の石畳道となっている。


石積みなどに使われる汎用の間知石ではなく、恐らくはこの目的で誂えた石材を敷き詰めている。
中央部分は通常のアスファルト舗装になっている。


両縁の部分だけ石畳になっているのは、人力により牽引される力車や大八車が行き交っていたことを考えると想像がつく。現在の自動車のタイヤより幅の細い力車の輪には相応な荷重がかかる。地山のままだと少しでも雨が降ればぬかるんで轍掘れが酷くなるし、全体に砂利を敷き詰めれば輪が沈み込んで余計な労力が要る。そこで沈み込まず平坦性を確保できる素材が求められたのである。

現在こそ中央部分にアスファルトが充填されているが、元々は力車を引き上がるとき人が走りやすいように砂利が敷き詰められていたと言われる。[4]

石畳の区間はほぼ単一勾配で造られている。地山としては島地区は裾野部分が緩やかで最高地点に向かうにしたがって傾斜が急になっている。しかし地勢に合わせて石畳を敷き詰めると坂の最後が急傾斜になってしまうため、部分的な盛土を取り入れているようだ。


石畳道に面した民家の入口は、両側の側溝を跨ぐ形で柱状の石材が置かれている。
これは力車が行き交う際にこの道を歩く人々が退避する余剰地としても使われた。
後述するように現在でも充分機能している


石畳道の上端付近は地山で、坂の麓からそこまでを単一勾配にするために盛土している。
自転車を置いている付近は石畳道に対して見かけ上2m程度の石積みだが、盛土前の地山レベルで見れば5m以上の高低差が生じていることが分かる。


この部分を横から見たところ。
側面には間知石積み構造がみられる。恐らく急傾斜地部分に接続するために盛土して側面を補強し、石畳にしたのだろう。


同じ場所の反対側は立端がそれほどないためか側面が布積みになっていた。
石材が浮き上がってしまった部分にアスファルトを擦り付けているのが分かる。


各戸の水道管取り出しは、石積みの側面から行っている。
恐らく石畳道の中央部分を掘削して枝管を埋設し、横方向に接続したのだろう。このため水道管が空中に露出した状態になっている。


石畳道とは言っても認定市道であるが故に、外部からの一般車両の通行は自由である。実際、撮影最中にもタクシーがこの道を往復した。
先ほどの待避所へ自転車ごと避ける形になった


もっとも近道志向のドライバーが通り抜けるような道ではないので、徒歩でも自転車でも車の往来に悩まされるようなことは少ない。市道より複雑に枝分かれする生活道路の味わいも兼ねて、散策には好適な道と言えるだろう。
惜しむらくは道路沿い無造作に乱立する電線および電信柱である。こればかりは地中化しようがなかったようだが、石畳道や石積みのような前近代的な景観撮影を志向する状況では目障りな存在でしかなかった。
島地区だけでなく全国的にも言えることである

百年を超えてここで人馬を通しつつもまったく綻ぶことなく今も道路としての使命を遂行している。
石材の表面は往来によって自然に磨かれ、まさに活きた石畳道であることを伝えている。


石畳であるが故に周囲の民家よりも道の方が高い。そして有効幅一杯に使うことができる。通常の砂利道だと縁がこぼれてとてもこうはいかない。


技術的な面から検討すれば、この石畳道を造るのに格別難しい計算は要らなかっただろう。登り始めの高さと石畳道の末端部、地山の始まる場所との高低差を計算し、延長で割れば勾配が決まる。あとはそのように盛土し、石材を配置するだけである。しかし実際の施工は必ずしも容易とは思えない。

石材はすべて同形の直方体に加工されたものを用いている。実のところ石畳道を造るだけならこれは必須ではない。容易に入手できる間知石の平らな面を上に接ぎ合わせれば良く、あるいは間知石すら用いずに千林尼の石畳道と同様、自然石を適切に配置して平坦面を造ることができた。
実際はそうではなく整形された石材を大量に用いて同方向に敷き詰め造られた。調達が大変だっただろうし、間知石の数倍重い石材を据え付けるのも大変な労力が要っただろう。この特異な石材は秋穂の方から取り寄せたと言われている。

傍目には石畳としては贅を尽くした道のようにも思える。しかしこの道は島の高台へ荷車や力車を引き揚げる労力を推し量って渡邊祐策が彼らの労力を軽減する目的で私財を投じて整備されたものである。[5]


したがって石畳道の建造は渡邊祐策が松厳園へ移ってから以降のことである。それ以前の道がどうであったかは分かっていない。

四輪が進行するのに充分な幅の備わらない道路に面する地域は、火災などに対して脆弱である。都市計画として消防車が安全に進入可能となる程度の道路整備が求められており、現在の市道島線が拡幅され、石畳道が形を変える(最悪の場合は失われる)可能性が指摘されている。[6]

しかし完全とは到底言い難いとしてもここに記録を遺した。記録する以前に現地が失われる最悪の事態は回避できたので、まずは最初の目標を達成できたと自己満足に浸りたい。
【 記事公開後の変化 】
* 本文で述べられなかった部分も含めて追記している。(2017/3/20)

・現状では登り坂の麓と松厳園の前で一部の石材が隠れて見えなくなっている。これは4t車などの重車両が通るようになって石材が下がり不陸が酷くなったため市に申し出たところ上にアスファルトを被せる形で整備されたという。石畳道が認定市道となったのは(その整理番号から)小串土地区画整理の時期である。実際には見えていないだけで坂道の上部も石材が隠れている。幅が狭いために脱輪を恐れるドライバーもあるようだが、転落防止柵が設置されなかったのは柵によって逆に狭く見えること、石材を削孔して取り付けるのは物理的に不可能(縁が欠ける)であり、かつ歴史的な石畳道の景観面も損ねるからである。

・石畳道は途中でごく僅かながら折れ点がみられる。これは道を整備する以前からあった民地の配置状況によるものと思われる。しかし石畳道以前からこれほどの幅の道が自然発生する筈もなく、沿線住民からの敷地提供や買収があったと思われる。

・2013年の夏場あたりから島地区の北側にあった邸宅が解かれ宅地造成された。この折りに生活道路の両側にあったレンガ塀の片側が失われた。この場所のレンガ塀は2012年の秋口で既に半壊状態だったことが分かっている。[3]
浜バイパスからは急傾斜地に階段がついた生活道路が見えていたが、2015年以降の宅地造成によりほぼ完全に通行できなくなっている。
出典および編集追記:

1. 小字地図の中には「嶋」という表記も存在する。制作時期の古い小字絵図では、島の南側に内堀という小字が記述されている。内堀を今に遺す構造物などは知られないものの昔からの島地区在住者はごく普通に知っている。また、市内においても島地区のことを指すとき「ま」のようなアクセントで読まれることが非常に多いが、少なくとも地元在住者や島のことを知っている市民は一般名詞の島と同様の「し」ないしは平板に読む。

2. 単なる推察ではあるが、市立図書館が琴芝に移転している現在もなお重要な書籍や郷土資料の一部が旧図書館に保存されている。現在は市教育委員会の事務所として使われている。市道図書館線も参照。

3. 同年に自転車で訪れたとき偶然にも取り壊される前の家屋やレンガ塀の写真を撮影していた。

4. 水道の配管を布設する際に中央部分を掘削して枝管を埋設している。その後にアスファルトで舗装復旧してしまったらしい。アスファルトの下は舗装材向けの基礎砕石(いわゆるクラッシャーラン)ではなく元からあった当時の砂利を流用し埋め戻されたとも言われている。石畳道の上端と下端はアスファルトが被っているが、これは市道の管理となった後に石材の沈下による不陸が酷くなってから平坦化されたと言われる。

5.「宇部興産(株)|地域コミュミケーション誌「翼」 No.5|創業者 渡邊祐策の魅力に迫る

6.「FB|10/5配信分」の読者コメントによる。
もっとも市道島線の両側は今なお日常的に暮らす人々の家屋があり、同市道を拡幅するには時間がかかること、既に浜バイパス側から造成地へ向かう進入路が出来ておりそこからの乗り入れが可能であることから、現在ある石畳道を改変してまで市道島線を拡幅する理由に薄い。何よりも歴史的遺構を無き物に帰してしまう工事が市民感情として受け入れ難いものであることは容易に想像できる。

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