車両侵入禁止の標識がある場所で迷いつつも車を停めて、狭い山道を降りて来た。Google の Photo path で公開されている見覚えのある石橋を見つけて、大浜地区へ到達したことを確信した。
ただっ広い荒野である。
集落に向かう道は判別できるが、足跡はないしゴミもまったく落ちていない。
今しがたこの山道を降りて来た。
微かに農道と認識される道を進むと、左側の藪が取れて正面に山陽本線が見え始めた。
藪が切れたところから左側(方角で言えば東)に、印象的な風景が見えた。
ここ大浜地区へ来て初めて目にする人の営みを感じさせる人工物だ。
一つは屋根がトタンで補強された民家2軒だ。屋根がトタン葺きの民家など今や絶滅危惧種であり、昭和の暮らしを感じさせる。他方、そこから少し離れて見えていたのは明らかに近年の構造物である電波塔のようなものだった。
草むらは深く、見えている先に直接向かう踏み跡はなかった。
小径は真っ直ぐ海に進んだところで1メートル程度低い荒れ地を避けるように直角に折れていた。
地理院地図では、現在立っている位置はここになる。
(標高3メートル地点を示す場所を通る小径は見つけることができなかった)

ここで小径が折れているのは、段差のある田畑の縁をなぞるような経路を取っているのが理由だ。
小径から身を乗り出して東方向を撮影している。
訪れる人が殆どない筈なのに狭い踏み跡がハッキリ認められる。
野生動物の往来で踏み跡が維持されているのだろうか。
航空映像でも見えていた2軒の民家。屋根に葺かれたトタンがかなり錆び付いている。
軒下には竹竿などの長物が積まれており、これも昭和期は農家なら何処でもみられる風景だった。
昭和の民家を思わせる景色の反対側に、如何にも場違いと思える近代的な電波塔があった。
遠目からでも携帯電話の中継塔と推測できた。
メンテナンスに来たときの目印なのjか、近くの木の枝にリボンが結ばれていた。
携帯の基地局は現代社会を支える重要なインフラなので、市街地や近郊部にあるものは大抵フェンスで囲われている。しかしここまでわざわざ訪れる一般人が殆どないからか、コンクリート基礎の上に柱が立っているのみである。
防府大浜基地局というお馴染みのプレートが見える。
設置者はNTTドコモとなっていた。
恐らく今は住む人がなく、車で到達しようにも集落までの道がない大浜地区。そこには予想されたような古い民家が遺る傍ら、現代人なら必須アイテムであるスマホを下支えする基地局が同居していた。恰も時間の停まっているようなこの地にあって、近代的な基地局の設備に時間的感覚の混乱が体感される景色だ。
一体どうやってこの基地局を建てたのだろう?
相当な高さのコンクリート柱の周辺には各種機器とケーブルが設置されている。この高さの塔を支えるために根元は基礎コンクリートで巻かれている。柱はある程度掘削して建てている筈だ。柱をここに運び込み設置するにはトラッククレーンが要る。そういった機材や車両は一体何処からここまで運び入れたのだろうか。基地局を過ぎたところで、踏み跡は古民家の角を直角に曲がっていた。
小径は真っ直ぐ海の方に続いていた。
柵で隔てられた外側はかなり早くに放棄された田畑のようで、樹木が侵入していた。
小径は民家の玄関前を通過していた。
既にみてきたように、陸路でここへ到達する手段は徒歩のみである。先の基地局は除いて、現在なおこの民家に誰か住んで車で往来しているとは考え難い。ここ大浜地区で最後まで人が暮らしていた一軒家のように思われた。
誰も住んでいないとは言え、民家は私的物件である。カメラを向けて写真は撮ったものの誰でも閲覧できる時系列記事に掲載するのは差し控る。現状は Google の過去に一個人が掲載した Photo path にも写っている
からそれを参照して頂くとして状況報告すると…現状を観察した限り、この民家は一部の屋根瓦が傾くなどして安全に住める状態ではなかった。それでも市内でも普通にみられる廃屋よりは状態が良かった。壁が崩れたり屋根が抜け落ちた廃屋がよく見られる中、今も軒先や雨戸など昭和期の原形をよく保っていた。
後で掲載する航空映像では複数の2軒の民家が並んでいるように見えるが、隣接する建屋は農機具庫と思われる。庭にはポンプで汲み揚げて使っていたと思われる井戸があった。ここまで到達するまでの間、車と徒歩を含めて水道栓の設備がみられなかったので、上水が引かれておらず井戸水に依存していたかも知れない。他方、電気は来ていたようで南進する小径を直角に曲がる場所の真上には家庭用の配電線がみえていた。
(前掲の写真にも電線が写っている…現地では注意して撮影していなかった)
昭和中期以降改変されていない地に特徴的にみられるアツバキミガヨランも育っていた。玄関には正月飾りが遺されていただけで表札はなかった。軒先には取り込まれなかった洗濯物が紐にぶら下がっていて、人が住まなくなった集落の詫びを醸し出していた。
更に海へ向かって歩くと山陽本線にぶつかる。
そこで小径は途絶えていた。
山陽本線のすぐ外は海で、コンクリート護岸が連なっていた。
海へ降りる階段のために護岸が空いている部分があり、恐らく小径はそこまで続いていたのだろう。
護岸の階段まで鉄道を横切る場所に「危険 」の立て札があった。
これはかつて踏切が存在していたことを窺わせる標示である。
恐らく遮断器も警報機もない第4種踏切があったのだろう。往来需要がなくなった里道にある踏切は、近年少しずつ廃止される傾向にある。市内でも宇部線の芝中第3踏切と西河内第1踏切などが廃止された。この場所も踏切に固有な設置物すべてが除去されていて名称が分からなかった。海に降りる階段手前の護岸には431K500Mを示す距離標があった。
小径の一番端から振り返って撮影。
かつてはここを通って鉄道を横切り、海水浴や貝掘りに往来していた人たちがあったのだろうか…
大浜地区とそこに至る小径のレポートは以上だ。次章では一旦時系列から離れて、この記事を制作する現在の時間軸で分かっていることを資料と共に添え、続きに帰路の時系列記事に戻って写真で報告しよう。
(「防府市大浜地区【3】」に続く)