一ノ坂付近に見られる未知の堰堤跡【1】

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現地踏査日:2012/2/16
記事公開日:2012/3/2
申し訳ありませんが、本件は初っ端の公開記事から未解決かつ未踏査物件です。即ち現地へ到達できておらず、続編が作成されるかどうかは今後の踏査努力次第であることをご理解ください。

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Yahoo!の航空映像を眺めていて奇妙なものを見つけ、気になってその正体を突き止めたくて現地踏査したケースは数多い。常盤池で発見された未知の水没建築ブロックは、航空映像を丹念に眺めることで水面僅かに見えていた痕跡を頼りに現地へ赴き見つけ出した。最近ではやはり航空映像で以前から気になっていた厚東採石所跡を踏査している。

実はこの厚東採石所跡を訪ねた日、その直前にある物件の踏査を試みていた。それは航空映像および国土地理院の地図を観察することで見つけ出し、現地がどうなっているのか気になっていた。
場所はまたしても一ノ坂、以前訪れた厚東川ダムの左岸曝気循環設備棟近くである。

その「気になるもの」を中心点にポイントした航空映像を以下に示す。


これは小野湖のある入り江の先端部分になり、小野湖全体から見てもかなり細長い入り江の一つとなっている。それでありながら周囲には道路も家もなく、小野湖が湛水されることで自然発生した入り江と思われる。

ポイントされた場所をよく観察すると…
入り江を横断する堰堤のようなものが見える。
周囲が原生林で湖水自体も黒緑色を呈しているため、不明瞭にしか写っていない。入り江の先端部分に堰堤を造って人工的に締め切ったように見えるし、たまたま入り江の先端部分に独立した池ができているだけのようでもある。
記事の表題では「未知の堰堤跡」としているものの、これを堰堤と断定するには疑義を差し挟まざるを得ないかも知れない。即ち水深が浅くて岩や堆積した土砂が見えているだけとか、垂れ込めた木々が堰堤のように見えているだけだ…と。

しかし私は未だ現地へ到達していない(この記事を書いている現在もなお同様だ)状況ながら、これは自然の造ったイタズラではなく人工的に造られた何かだと考えている。

厚東川ダムによって堰き止められ小野湖が誕生する以前は、この部分は明らかに沢だった筈だ。山間部の水を集めた沢の中にこのような堰堤が自然発生するわけがなく、時期は不明にせよ「明らかに人の手が加わった何か」がここにあるのは疑いない。
それは一体何か?
そこには何があるのだろう?
平日の午後、私はたまたまこの方面に車を走らせる用事があった。そこで小野湖に没していく市道一ノ坂黒瀬線の汀部分を再訪した折に、この物件の偵察を試みた。

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疑問を抱くのは常に手軽に行われるものの、実際それが何であるかを究めるのは往々にして困難である。本件の場合、そのことは地図で眺める段階から分かっていた。
現地へ行く手段がまったくない。
細かな山道まで記載されているYahoo!地図をもってしても、この入り江部分に接近する道が皆無である。地図によって地勢を確認し、沢を下る以外手段がなさそうだ。
例の左岸曝気循環設備棟付近からボートを漕ぐ手段もあるが…とにかく足が地面に着かない手段は嫌だ(>_<);
それほど容易でないことは明らかだったし未だ必ずこの物件の正体を暴くという本気度はなかった。接近を試み、あわよくば容易に正体が掴めるなら…の程度で着手した。

一ノ坂には光安寺というお寺がバス停付近にある。ターゲットは概ねその山の裏側という理解で現地に赴いた。

この裏手になるはずだ。
しかし明確な道はなく、まさか境内を通って裏山に抜けるわけにもいくまい。


このお寺の国道沿い前後を調べたものの、望む方向へ進める山道や踏み跡は見つけられなかった。

そこで第二次計画で延々と山歩きしたあの道に入ってみた。この途中から枝道が伸びているかも知れない。
案の定、坂の途中で折り返しお寺の裏側へ回り込むような踏み跡があった。


かなり急な坂になっていた。しかし踏み跡は確かだから通る人はあるらしい。


その道は途中から山側へ分岐しており、土を削って階段状に拵えた踏み跡があった。
その先には墓石が見えていた。


墓場に向かわずこの先も真っ直ぐ進む道は一応あった。
さて、この先なのだが…

詳細を報告しても殆ど役に立たないだろうが一応解説しておくと、ここで3方向に進む枝道ができていた。どれも同程度に淡く、同じくらいに通れるというだけで信頼性に欠ける。枝道の多さに、第二次・厚東川左岸堰堤計画の悪夢が頭を過ぎった。

これが今まで歩いてきた経路。
このまま右にアングルを移動すると…


来るとき坂の途中に見た墓場へ向かう坂道があり、更に右には…


墓場の道と直角に交わるように進むかなり荒れた踏み跡があって…


墓場へ向かう道の反対側になる位置に、若干下っている感じの踏み跡があった。


詳細な地図を作成していなかったから、求める「物件」へ接近するのにどの方向へ進めばいいものか分からなかった。
そこで一つずつ検証するためにまずは藪へ下っていく踏み跡をたどった。

それは一ノ坂バス停裏手にあるお寺の背面に続いていた。
お寺の屋根よりも高い位置にあり、直接下から上がってくる道はなかった。


進攻にさほど困難はなかったが、それは時期柄雑草に勢いがないのと丁寧に伐採・草刈りされていたからに他ならない。この近辺にお住まいの方が普請されたようだ。
それにしても家の裏が物凄い崖…斜面が崩れたらと思うとちょっと怖い


その先方には全く道がなさそうだったし、何よりも現地をうろつくのは塩梅が悪かった。明らかに人が歩ける道ではないし、家屋の窓が眼下に見える場所柄、泥棒の下見と間違われかねなかった。歩けば足元の枯れ木がバリバリ音をたてて自分の存在を喧伝しているに等しかった。

さっきの4叉路まで戻り、墓地の参道に対して直角方向に伸びる踏み跡をあたってみた。

踏み跡はすぐに淡くなった。元からあった山道ではなく、伐採作業で立ち入ったためにできたらしい。
ここから入り江方向と思われる斜面はもの凄い急傾斜になっていた。写真は軽く下方を眺めたアングルで撮影している。


これを下った先に入り江があったのかも知れなかった。しかし傾斜地は半端なく急で、しかも下りから入る状況だったので足が進まない。


尾根を伝っていた踏み跡から現在見えている沢の下まで高低差は10m以上あった。あまりにも沢が深く急峻なので、仏坂隧道の上部から眺めたポータル部分が想起された。
足元も悪く下降も大変だった。登り直すことを思えばとても沢の一番下まで降りる気にはならなかった。そこまで降りていてもなお入り江と確信させる小野湖の水面を見ることはできなかった。

結局、ここからの下降は諦めて引き返すことになった。
下のマップは、一連の歩行踏査で到達したと思われる経路を示している。が第二次計画で歩いた登り坂の途中で折り返した場所、が枝道の密集している地点、があまりの急傾斜に断念して引き返した場所である。


当初、お寺の裏手と理解していたが、それはあまりに大雑把だ。後から思えば墓地から斜面を下っていく3の経路の方がターゲットに近づいていると言える。

準備が足りなかったし雲を掴むような計画なのであまり乗り気ではなかったが、第二次計画のとき辿った経路を進んでみた。
これは国道からの斜路を登って最初に出会う堀割部分


この道を進んだというのも、途中からあの入り江の方へ降りる道が現れることを期待してのことだった。
しかし以前訪れたこの索道分岐のところまで全く道はなく、引き返した。


左側が来るとき通った道、右が第二次計画でも近道して降りた経路である。今回は市道一ノ坂黒瀬線の石碑がある場所に車を停めていたので、来た道を引き返した。


こうして第一回目の踏査は失敗というか、深追いすることなく引き返すことで幕引きとなった。

再度地図を眺めてみるとお寺の裏手をはじめ、あの細長い入り江の途中に降りる経路はどれも駄目だろう。等高線を見ても明らかなように、傾斜がきつ過ぎる。しかも小野湖の水面はお寺より20m以上低い位置にあり、水平距離は短いものの道もないこの場所から下降すること自体が危険だ。
それ故にこのルートは今後援用するつもりはない

等高線から判断する限りでは、陸路で入り江に到達するもっとも安全そうなのは以下の で示された経路だろう。


もちろんこの部分に道はないだろう。しかし今の時期で正しく沢を選択することができるなら、勾配はもっとも緩い経路になる。
ただ、位置的には一ノ坂からと厚東川ダム左岸堰堤からの中間点にあたり、アクセスは極めて悪い。

これは「二又セ」のあのコンクリート柱んの道しるべが立っていた分岐路付近だ。上の地図では一ノ坂から入った道が明白に分岐している場所になる。


ここを過ぎて右側へ降りる沢が見つかるかがポイントだろう。状況が良ければそれよりも若干一ノ坂寄りに下降可能な沢が見つかるかも知れない。

最後に、この物件を「未知の堰堤跡」として記述したものの、執筆しているうちにその正体について別の仮説を思いついたので付け足しておくと…
古い田畑の石積み跡では…?
小野湖が湛水される以前は湖底に集落が広がり、人々の暮らしがあった。現在でもこれほど目立つ細長い入り江になっているということは、かつては比較的大きな沢だった筈だ。
沢地は水を得やすいため、昔の勤労な人々なら山間部の高いところまで棚田を作っていただろう。この細長い沢地に棚田があったものの悉く水没し、最上段にあった部分の石積みだけ水没を免れて地表部に遺っている…ということは考えられないだろうか。
当初は堰堤と考えたものの、この部分だけ締め切って溜め池にする理由がない。その水を利用する耕作地が付近に全く存在しないからだ。

もし石積み跡ということになれば、それは小野湖底にまだ集落が広がっていた頃に耕作された田畑の一部ということになる。戦前のことであり、もしかすると当時を物語る遺留物がみられるかも知れない…

明確な答えを得る一番の早道は、現地を直にあたってみることだ。しかしこれほど時間をかけて記事作成し、現地へ赴いたものの実は自然が作り上げた巧妙な砂州に過ぎなかった…というケースも完全否定はできず、二の足を踏んでいる状態だ。

そういう訳で今後【2】が記事作成されるのは第二次計画の着手に尽きる。それまで本物件は棚上げということにしておこう。
出典および編集追記:

* この記事を制作した当時よりも現在では私有地立ち入りについて厳しくなっている。記事中で踏査した場所はほぼ間違いなく個人所有の山野であり今後立ち入ることはない。また、本件の踏査も状況が変わらない限り現地到達のレポートはほぼ不可能だろう。

1. この記事を制作する時点では堰堤部分が線分として描かれていた。その後地理院地図側で修正されたらしく現在は入江から切り離された池のように描かれている。(2016/8/28)

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