宇部護国神社

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記事作成日:2024/3/24
最終編集日:2024/5/10
宇部護国神社は、小羽山地区の維新山にある神社である。
写真は正面やや左からの撮影。


位置図を示す。


一般に護国神社とは国を護るために尽力した人々を祀る神社で、市内には他に船木地区と万倉地区にも存在する。宇部護国神社に関しては公式サイトで詳細に記載されており、重複する内容をこの総括記事に記載する意義を感じないので、以下は個人的関わりも含めて公式サイトと重複しない補完的な内容を記載する。
《 鳥居 》
正面参道に神明鳥居、横の参道と上の参道に明神鳥居がある。ここで神明鳥居とは、地理院地図で一般に神社の記号(⛩)として描かれるような形状で、最上部の笠木が直線的である。靖国神社の鳥居によく知られており、護国神社の鳥居は概ねこの形状を踏襲している。明神鳥居とは笠木の両端が反り返るもので、村の鎮守の社を始めとして非常にポピュラーなものである。

正面参道の鳥居。
昭和19年、財団法人宇部共同義会による建立で最も新しい。


横参道の鳥居。明治33年建立で、扁額に維新招魂社と陽刻されている。


上参道の鳥居。
慶応3年設立でもっとも古い。


この鳥居は元々下にあったが、横参道に大きな鳥居を設置したとき移設したものと言われている。[1]
遣いのネコ
宇部護国神社にはかつてトトロのような毛並みをした人懐っこいネコが飼われていた。
写真は2022年の撮影。


このネコは来訪者をまったく恐れず、ニャーニャーと鳴きながら擦り寄って来ていた。しかし長く構われるのは好きでないらしく、背中を撫でるのを許しても抱っこされるのは嫌がった。常に出現するとも限らず、長い間行方不明なときもあった。一般に外で飼われていたり野良育ちなネコは、餌などで手なづけない限り寄ってくることはないのだが、このネコは人に構ってもらうこと自体が好きで、殆ど誰でも擦り寄って甘えた。

最初に宇部護国神社の本格的な撮影を開始したときに出会い、そのとき私がこれから行こうとした場所を先回りして移動し居座ったり、構って欲しそうな態度を見せる割に構おうとするとサッと逃げてしまういわゆる「ツンデレ系」な女の子のように映った。その人間臭い所作から、かなり早い時期に「遣いのネコ」と題した時系列記事を作成している。詳細は項目に設置されたリンク先を参照されたい。

神懸かった所作のネコという題材で、小羽山ものしり博士づくり計画の最初期の冊子にも写真付きで紹介されている。後に宇部護国神社の関係者に尋ねることによって、ウメちゃんという雌猫であることが判明した。
漢字表記か平かな表記か分からないので仮にウメちゃんとカタカナ表記している

ウメちゃんは暫く姿を現さないまま、恐らく2022年の末か2023年の始めに天へ召されたと聞いている。今まで接してきた最も愛すべきネコちゃんで、野ウサギは次に生まれ変わったならウメちゃんと祝言を挙げると宣言している。
《 所在地の維新山について 》
宇部護国神社の所在地は大字中宇部1631である。この周辺は小羽山地区でも住居表示エリア外であり、郵便物などは専ら宇部市中宇部1631のように書かれる。現在では小字名は用いられないが、登記簿上の形式に則った表記では大字中宇部字維新山1631番となる。ここに現れる字維新山は、宇部護国神社を含んだ小字名である。境内にて汲み揚げられる井戸水は、維新山霊泉として提供されている。


維新山(いしんやま)という表記から、明治維新を想像する人は少なくない。宇部を救った福原越後公の祀られる地として最適であるのは確かだが、その当時から維新山と表記されていたわけではないことに注意を要する。宇部護国神社の前身は維新招魂社であり、それ以前は崩招魂場と呼ばれていた。この崩(くずし)とは、神社裏手の高台であった崩山に由来する。

小字名としての崩は、維新山より南寄りに存在する。最初に崩山という山名が存在し、字名として崩と維新山に分化したのではないかと思われる。維新山は明治期以前は意心山ないしはい志ん山と書かれており、享保年間に制作された地下上申の絵図や防長風土注進案にこの表記がみられる。

この地名は「石ノ山」の転訛と考えられる。宇部護国神社をはじめ字維新山周辺の古い石積みには、白い小さな斑点の入った極めて緻密で硬い石材がみられる。


同様の石を他の地区でまだ確認しておらず、この岩質を維新山系と勝手呼称している。
《 近年の変化 》
小羽山地区在住ということもあり、宇部護国神社の変化は逐一記録してある。以下には主立ったものを年号別にまとめている。なお、この総括記事は作成されたばかりなので、今後一定期間経過後に各項目を本編へ移動する。
【 2022年 】
・12月頃(日付は要調査)に、鎌田にあった蛭子様の御堂や石灯籠など一式が宇部護国神社の上参道寄りに遷座された。
写真は遷されて間もない時期の撮影。


遷された理由は、地区で看る人が居なくなったためと思われる。蛭子様があった場所は新興住宅地に取り込まれ、コンクリート擁壁が築かれていて跡形もない。この蛭子様は最初期は現在の新西ノ宮橋東岸上流のえびす岩の上に据えられていたとされ、今回が2度目かつ最後の遷座になるだろう。
【 2023年 】
・本殿前の参道に色とりどりの風車が並ぶアーチが設置された。
写真は七夕祭りのときの撮影。


これは「宇部護国神社をもっと人が集まる場所にしたい」という宮司の意向を受けて始められた取り組みの初期のもので、局長により手掛けられた。新川歴史研究会の同メンバーということもあり、宇部マニアックスもいくつかの提案を行っている。風車が選定された理由は、通常目に見えない風を形として感じる場所というモチーフを意図している。

琴崎八幡宮は元から多くの人が集まる場所であり、近年プロジェクションマッピングを駆使した新しいスタイルでの魅力を発信している。藤山地区の西宮八幡宮もそうであり、神社のみならず瑞祥庵などお寺も同種の取り組みを進めている。例祭や七五三などのイベントに限定されることなく神社や寺みずからが人の集まる場に変わっていく新しい流れと言える。
逆に言えば対外的にいつまでもオープンでない寺院仏閣は今後人の流れから取り残されていくだろう

・12月31日にカウントダウンライブと称して、オープンステージでのライヴ演奏と新年を迎える前のカウントダウンが行われた。なお、同じ日に定番の港町埠頭を始めとした他の数ヶ所でもカウントダウンイベントが開催されている。カウントダウンの様子を取材しようと現地へ行ったところ偶然に局長と出会い、新年の瞬間を上参道で迎えている
【 2024年 】
・1月20日と21日に境内にあるオープンステージ横に559カフェがオープンし、記念ライブが開催された。


559カフェの名称は、宇部護国神社の「ごこく」に掛けている。営業日は土日の午前11時〜午後5時で、うどん・そばとドリンクを提供している。[2]

・1月末か2月上旬に559カフェのある差し掛け前に和風柄の自動販売機が設置されている。
側面には559カフェのロゴが入った特注品である。


同様な和風柄の自動販売機は市内で他に数ヶ所設置されている。

・4月7日の日曜日のイベントに付随して、表参道下の市道維新山西山線に面した空き地に置かれていた古い石灯籠の実地調査が新川歴史研究会によって実施された。石灯籠が置かれている場所は私有地であり、関係者も同行し柵を開けて検証した。
写真は検証時に敷地内から撮影。


この石灯籠は別の場所から持ち込まれたものだが、土地所有者は移動を代行しただけで実際に何処の誰によって所有されていたものかについては不明である。石灯籠の表面には「延寶九酉辛年五月八日」や寄進者名が刻まれているものの、何のために制作されたのかはまだ解析されていない。なお、早期に前面市道の撮影を進めていてこの石灯籠の存在には気付いていた。複数採取された写真では2019年1月には井戸の石材のみがみられ石灯籠が存在しない写真があり、石灯籠のみられる最も古い写真は2021年1月撮影のものである。この間に敷地へ運び込まれたことが分かっている。

・5月5日の新川市まつりに出掛ける前に自転車で宇部護国神社に立ち寄り、559カフェオーナーの山本夫妻と話をしてきた。この日もステージでライヴ演奏が行われていた。珈琲をいただくときの会話で「559カフェに因んでスペシャルメニューを559円で提供しては」という冗談めいた提案をしてきた。山本夫妻は小羽山放課後こども教室(通称すくすく教室)で、リアルな音楽に触れる題材で子どもたちを前に歌ったり演奏したりの活動も行って頂いている。
《 客観資料 》
スタンフォード地図による宇部護国神社を含む周辺。昭和初期の制作である。


維新社と記載されている場所への道は、階段の他には小串の高台から下っていく道のみである。
《 個人的関わり 》
現在ではいろいろな面において宇部護国神社との関わりがあるが、いずれも近年のことである。以下、時系列に沿って記述する。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」(黒木甫)p.33
ただし元々上参道に存在していたという説もある。

2.「宇部護国神社境内に”559カフェ” 週末限定営業、野外ライブステージも|山口宇部経済新聞

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