常盤池・楢原【2】

インデックスに戻る

現地踏査日:2013/1/1
記事公開日:2013/1/16
本編では、楢原の入り江の左岸末端部付近の護岸上歩行踏査を収録する。
収録しているのは、以下の地図に示される区間である。
前編の楢原【1】とは連続していないので注意されたい


この区間はすべて護岸であり低水位でも水底が現れることがない。したがって護岸付近を踏査している。
なお、同区間に存在する記念植樹碑についても触れている。

---

(「常盤池・南遠山の鼻」の続き)

岬の先端を護岸に沿って回り込むと白鳥大橋の下をくぐる形になる。[2012/12/3]


少々危険だが転落に注意して護岸の天端を伝って橋の下をくぐり、楢原の入り江左岸に向かうことができる。
そのすぐ先に奇妙な石碑とソテツの木がある。詳細はすぐ次の項目を参照。
《 大典記念樹碑 》
白鳥大橋の北側、楢原の入り江末端部の岸辺に一本のソテツの木とあまり目立たない石碑がある。[2013/5/12]


位置図を下に示す。


注意して観ればすぐ見つけられるのだが、周遊園路をウォーキングする人も含めて忘れ去られた存在だ。この記事で指摘されて初めて知ったという方が殆どだろう。[2013/5/12]


白鳥大橋は自転車通行ができないのでこの方面に訪れる回数自体それほど多くはなかった。ウォークイベントで何度か周遊園路を歩いたときその存在には気付いていたが詳細な写真を撮っていなかった。
2013年の元旦、常盤スポーツ広場から周遊園路を歩く過程で立ち寄り調べてきた。

石碑は護岸から若干離れた平場に、ソテツは盛土部の斜面に植えられている。


この周辺は護岸より2m位高く盛土されている。白鳥大橋を整備した平成期に土を盛ったのだろうか。


ソテツは樹高が目測で5mくらい。周囲には他に同種の木はない。


さて、この植樹に関連する石碑なのだが…
読めるだろうか。


コンクリート柱に金型を押し当てて刻んだような文字である。
漢字の細かな部分を省略して陰刻されているのでよく分からない漢字がある。上から二文字目だ。


大●記念樹
二文字目は見たこともない漢字だ。
その漢字の下のパーツは横棒2本になっている。そのような正規の漢字は存在しないから何か画数の多い漢字を略記したか俗字のようだ。
似ている漢字としては次の候補がある:
単、草、革、尊、西…
しかしどの文字を当てはめても意味が通らない。

石碑の反対側を観察した。
大正十二年植之とある。西暦で言えば1923年のことだ。
他の面には何も彫られていなかった


この年に起きた主要な事件と言えば関東大震災である。しかしそのことと石碑に刻まれている文言に恐らく関係はないだろう。不幸な自然災害と記念植樹は相反するものだ。
1923年の年表を眺めていると、国内外において紛争や事件が目立つ。昭和後期および平成期と同等には語れないキナ臭い時代だった。
こうした時代背景を元に先の石碑を眺めると、
「大戦記念樹」では…
二文字目はもしかすると画数の多い「戦」の字の旁を省略して刻んだのでは…と推測されたのだ。

当時の時代背景なら、たとえ戦争という手段であろうがそれによって日本の国際的地位が向上するなら、それは讃えられるべき出来事だった。西暦1923年と言えば第一次世界大戦が終結し、世界的な戦後処理が進められて間もない時期である。当時の日本の戦果を誇りととらえて植樹したのだろうか。

もしそういう意図での記念植樹なら、殆ど目立たないこの場所に建てられたことは今となっては幸いだった。これが仮に彫刻広場や周遊園路など人目につく場所にあったら、戦争を肯定する記念碑など好ましくないという意見が出て撤去・移設されていたかも知れない。
石碑は現在の護岸を築くとき影響を受けなかったのだろうか…


二文字目として推測される漢字がまったく的はずれだったら、遺憾ながら今までの内容はゴッソリ書き換えなければなるまい。「大●」という二文字目に私の知らない漢字を充てる難しい熟語があるのかも知れない。
湖水ホールにある常盤公園活性化対策推進室に問い合わせれば回答を頂けそうだが、まずは可能な限り調べてみてからにしようと思う。
【追記】(1/21)

読み取りづらい二文字目について、読者の方から「『典』の字ではないか?」という指摘を頂いた。即ち大戦記念ではなく「大典記念樹」の意である。
石碑に記された大正十二年は宇部セメントが創業した年なので、そのための記念樹である可能性がある。
南遠山地区をはじめ常盤池周辺には現在も宇部興産(株)の社有地や集合アパートが多い。南遠山の鼻に近いこの場所を選んで記念碑を設置したというのは理に適っていると言えるだろう。

したがっていくらキナ臭い時代だったとは言え、大戦記念植樹という可能性は限りなく低い。しかし今更書き上げたものを逐一修正するのも面倒なので「最初はこう考えていた」という経緯を遺すためにも本文はそのままにしておく。ただし別途探すときの便宜上、項目名を”大典記念樹碑”に変更した。
---

記念樹碑を撮影したついでに護岸の行けるところまで再度たどってみた。
ここは常盤寮の半島部から水没コンクリート塊を観察したときにも訪れている。


私企業の物件なので意図的にカメラから外れるよう撮影していたが、護岸から数メートル程度の平場があってその内側が常盤寮の敷地になっている。
敷地の外側は駐車場で、楢原の入り江とはネットフェンスで全面的に仕切られていた。


この平場部分には殆ど目立った樹木がない。
一本かなり太い松の幹が伐採された跡があった。


平場は次第に狭くなり、やがて前方を雑木林が占めるようになる。
ここは狭い護岸の天端以外歩ける場所がない。


護岸は入り江の鋭角点でみられた間知ブロックではなく、間知石とコンクリートの混成である。
築かれた時期は定かではないが、傍目にも傷みが酷く昭和中期の雑作のようにも見える。


裏込がゴッソリ流出している部分が至る所でみられた。
長雨が続けばいつかは倒壊するか部分的に崩れるだろう。


この場所から振り返って撮影。
進路を阻んだ雑木のちょうど裏側が常盤寮駐車場の末端部分になっている。


周遊園路から初めてここを訪れて水没コンクリート塊を視察したとき、このフェンスは開放状態だった。


曲がりなりにも企業の私有地であり、寮で生活する人々の安全上の理由から締め切られていた。
立入禁止の札が双方にかかっているので相互に行き来はできない。


元はフェンスが切れていたということは、かつては寮の住民は散歩を兼ねてフラッと南遠山の鼻などに出かけていたのだろうか…
もう少し駐車場の外側に敷地の余裕があったなら、周遊園路の枝線を市道楢原線まで延伸できただろう。遠山方面からも白鳥大橋付近までウォークできて利便性が高いかも知れない。

したがって現状ではここから先市道には抜けられないし、護岸をそのまま辿ることもできない。
この状況は以前にお伝えした通りである。[2011/3/27]


最近の踏査の結果によれば、充分に水位が下がったときにはこの半島付近より入り江の先端部分に向かって岸辺を辿れるようになる。常盤寮の半島部分は護岸だが、その下は砂地が現れる。

この低水位を利用して半島部の護岸下を歩き、水没コンクリート塊に再接近したときの様子は継続記事としてリンクで案内しよう。

(「常盤池・楢原【3】」へ続く)

ホームに戻る