山陽本線・厚東川橋りょう

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現地踏査日:2014/1/31
記事公開日:2014/2/4
情報この記事はJR山陽本線の厚東川橋りょうについて記述しています。
その他の路線の厚東川橋りょうについては こちら を参照してください。

表題こそ「厚東川橋りょう」と書いているが、実は現地へ行って確認するまでその名称は分からなかった。並走する国道490号の橋が田の小野橋だからだ。
冒頭に示した通り、鉄道では同じ名前の橋りょうが複数存在することになる。

この橋との個人的関わりと言っても電車で渡ったのは大学生時代の2年間、それも週に一度だけだ。家庭教師のアルバイトで小野田に通うとき山口から小野田まで往復していた。それ以外では国道490号の田の小野橋を渡るときチラッと眺める程度だった。
今回の撮影ポイントを含めた中域の地図を下に示す。


厚東〜本由良間は山陽本線において駅間が離れている上位の代表的区間として語られる。マクロ的に観て何故鉄道がこの地を選んで通されることになったのかは諸説ある[1]し本記事の項目からもかけ離れるから措くとして、この場所をミクロ的に眺めると橋の前後で大きな単カーブを描いていることが分かる。国道490号を北上し、瓜生野交差点で国道2号に移って左折する過程で山陽本線はそれよりずっと山側を近回りしている。

鉄道と並走しているので、善和橋付近からだとしばしば車との競走になった。親父の運転する車の助手席に乗って競争状態を見守っていた。しかし一般に列車の方が運行速度が大きいのですぐ追いつき追い越されたし、厚東川橋りょうを渡る頃には差が開く一方になってしまう。その間、車は瓜生野交差点でスピードダウンし殆ど間違いなく信号待ちになり勝敗は決定的なものとなった。信号もない上にズルをして山の手を近回りする山陽本線が恨めしかったものだ。

さて、このたび厚東川橋りょうの写真を撮りに行ったのは、他の同名2つの橋の写真撮影が既に完了していることもさることながら、この橋にまつわる「とっておきの話」を記録するためであった。概要の話は既に私の脳内に格納されており、後は1つの問題を除いてそれを文書化するだけである。しかもその話の背景には「ズルをして近回りしている山陽本線の線形」が大いに影響していたとだけ言っておこう。
今はそれ以上の詳しいことは語れない…承諾が得られなければ記事公開されないかも知れない

宇部線・小野田線の厚東川橋りょうとは異なり、山陽本線の厚東川橋りょうの両側には公道が通っていない。特に橋の左岸取り付け部付近は善和川が落ち合うため実質的に接近できる道は皆無である。
他方、右岸側は国道490号田の小野橋を渡って廃ホテルがある手前から川沿いを下る砂利道の存在が知られていた。野山時代は田の小野橋を渡ること自体は数回あったものの、当時はテーマ踏査と言っても厚東川水路橋など水利関係のみに限定した状態であり、鉄道の橋りょうまで関心が向いていなかった。

当サイトでは今のところ鉄道カテゴリを設置していない。変電所や橋など既存カテゴリと重複するものは新川橋りょう新厚東変電所のように記事化されているものもある。
最近、市内の地名を綿密に調査する過程で対象外とされている鉄道や寺院関連までもカメラを向けざるを得なくなってきた。鉄道は古くからそこに在り、踏切や橋りょうなどに昔の名前を遺しているためである。カテゴリ構成を再考しようかと思っているところだ。[2]

この記事では引き続き初回踏査として橋の右岸側を訪れたときの様子をレポートする。今すぐ再訪する予定はないが、もし今後左岸側を訪れたり橋の下からなど別アングルのショットが得られた場合は以下の記述は初回踏査記事として分離し、本編を総括に変更してリンクで案内する。

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さて、現地へは車で乗り付けているので途中の写真撮影はない。国道490号で田の小野橋を渡って橋と廃ホテルの間にある藪道へ左折である。国道は何度も通っているので、橋を渡るたびに車が入れそうな道か気にはしていた。荒れた上に幅が狭く、車で乗り込んで転回できるか不安に思える道だ。
実際には航空映像でこの先に転回スペースがあることを確認した上で乗り入れている[3]

この日は踏査目的で訪れたのではなく隣町へ遊びに行く折に立ち寄っていた。撮影にあまり時間を割くことはできない。
サッと帰れるように来たときから車を転回しておくのはお約束である。


山陽新幹線の田の小野橋りょうがここからも見える。
これであらかたの場所は分かるだろう。


橋りょうどころか鉄道関連のものかどうかも分からないが、古い木製電柱が遺っていた。


酷く荒れた砂利道は橋りょうの手前の広場で行き止まりになっていた。鉄道関係のメンテナンス要員が訪れるくらいのものなのだろう。
広場の先に既に橋りょうが見えており、困難なく接近できそうだ。


ガードの手前から線路敷に上がる踏み跡があった。
後で行ってみよう。まずはガードの下を観たい。


周囲は酷い藪でここからでは橋はもちろん河の眺めすらもまったく効かない。
ガードには橋りょう名のペイントはなかった。対岸側にあるのだろうか…あれがないと橋の位置が分からないのだが。


ガード下まで管理道があって問題なく接近できた。人がその下を歩くにも少し身を屈めなければならない高さだった。
今列車が通過したらかなり壮大な騒音を味わうことになりそうだ。


橋台部分の石積み。
後年に補強しているのでない限り明治期のものだろう。


上下線にはそれぞれ鋼製の梯子が架かっていた。
何処にも繋がっているようには見えない。


梯子はガードの裏側へ登るだけだった。線路上までは出られない。
線路の下、橋の下部を歩いてメンテナンスするためのものだろうか…


河川敷まではやや急なコンクリート斜面になっていた。降りられないこともないがそこまでリスクを取る気もない。
減勢工の上を流れる厚東川の水の音が橋へ接近する以前から聞こえていた。


橋脚はさすがに全体がコンクリート造りのようである。その足元には洪水で流されたと思われる四角いコンクリートブロックの残骸が散らばっていた。


更にカメラを上流側へ振る。国道の田の小野橋の赤いガードが見えている。


田の小野橋から下流側で善和川が合流している。
ここで善和川を横切る橋も道もないので、対岸から橋の写真を撮ることは酷く困難だろう。
今のところ左岸からの撮影は予定していない


橋の下をくぐって線路敷へ上がろうとする途中で重要なことを忘れてサッと振り返った。
そこに重要な情報が掲示されていた。


橋りょう名のプレートは下流側の橋台にあった。
ガード部分に橋りょう名や諸元を記載したペイントは見つからなかった


厚東川橋りょうという金ぴかの文字。
後から設置したのは明らかにしても、さすがに着工年月や当時の施工業者名は分からなかったようだ。


もう一つ気付いたこと… レンガ橋台の角が丸くなっている。
基本形のレンガを削ってもこの形にはならない。すべての橋台に必要なので、こういう特殊レンガを製造していたのだろうか。


橋の下をくぐった側にも線路敷へ上がる踏み跡があった。


まずはここから登り、厚東川橋りょうの上からの写真を撮ることにした。視座が上がらないことには藪に隠されて殆ど何も見えなかったからだ。

(「山陽本線・厚東川橋りょう【1】」へ続く)
出典および編集追記:

1. 山陽道(西国街道)に沿って車地・割木松を経て嘉川に至る方が距離的には短いが、その経路が選定から外れたのは個人的には地勢由来説を支持している。甲山川の刻んだ谷地が狭くトンネルや橋りょうが増え、殊に今坂峠を堀割で通すのは困難だったのではないだろうか。
この辺りの詳細な情報は「Wikipedia - 山陽本線|岩国駅-下関駅間」を参照されたい。

2. 物件の種別を越えて同じ時代のものは横に繋がっているのは当然で、もしかすると人物・文化カテゴリでの記事制作も有り得るかも知れない。

3. 航空映像で眺めると橋りょうの手前に広場のようなスペースが見えている。ただしこの道の管理主体は分からない。河川の土手道は基本的に河川管理者に帰属するが、私道だった場合は厄介なことが起こり得るので注意したい。

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