新川橋りょう

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情報この記事はJR宇部線の新川橋りょうについて記述しています。
国道190号の新川橋については こちら を参照してください。
記事作成日:2016/11/10
最終編集日:2021/10/27
新川橋りょう真締川に架かるJR宇部線の橋である。
写真は真締川下流西岸からの撮影。


橋の位置を地図で示す。


橋の材質から新川鉄橋と呼ぶ人もいる。また、新川橋梁と漢字表記されることもある。ここでは鉄道構造物関連の表記方針により、以下は新川橋りょうとして記述する。
《 概要 》
新川橋りょうは典型的なトラス形式の鋼橋で、全体が薄灰色に塗装されている。現在の彩色以前は薄緑色だった。[a1]


橋の部材は大正12年3月に下松の日立製作所笠戸工場で製造されたもので、側面の鋼材に陽刻がみられる。


JR宇部線の前身である宇部鐵道時代に新川以東まで鉄道が敷かれたのは大正12年8月1日[a2]なので、少なくともトラスを構成する鋼材は最初期からのものと言うことができる。

トラス橋の部材は新川の両岸へ直接架かっているのではなく、岸辺から若干離した位置に設置されたコンクリート橋台へ載せられている。
写真は東岸側の下部構造。


両岸とトラス橋を繋ぐ部分は、従来タイプのガードとなっている。名称はトラス橋と同じ新川橋りょうとなっていて、支間は3.05mである。


したがって両岸のガーダー部分とトラス橋を合わせて新川橋りょうを構成することとなる。この奇妙に思える構造の理由はよく分かっていない。即ち最初期はトラス橋が直接両岸の橋台に架かっていたものが修正されたか、当初から現状のように両岸からやや離した位置に橋台を造ったのかは調査を要する。

前項とは独立して、新川橋りょうは橋自体を嵩上げされている。嵩上げ施工の記録には未だ接していないが、現地の解析を行うことのみで昭和30年代初頭に嵩上げ工事を行ったことが分かっている。この最も有力な情報元は、ガーダーの橋台部分に認められる陰刻である。


1957-7東亞とあるのは施工年月と施工業者のものであろう。この陰刻がある部分は橋台の下部構造を打ち継ぎ足したような形状になっている。下側が元の橋台であればトラス橋部分は40cm程度、レールは60cm程度高くしている。レール部分を高くしたのは、昭和初期の電化に合わせてトラス橋上部に取り付けられた架線に合わせたためかも知れない。

この他の嵩上げ工事の根拠として、レールの縦断勾配の変位がある。
写真は真締川西踏切から新川橋りょうを通して琴芝駅側をズーム撮影したものである。


新川橋りょう自体はフラットで、真締川東踏切から東方の栄町通踏切に至るまでの間に明白な縦断勾配が観察できる。これは新川橋りょうを嵩上げしたために栄町通踏切から単勾配でスロープにしたからと考えられる。
西側ではもっと顕著で、真締川西踏切から近接して松浜踏切小串通踏切があるが、どちらの踏切も線路の方が前後の道路よりも高いいわゆる「かまぼこ型踏切」となっている。列車が往来可能な範囲でスロープを造らざるを得なかったため、道路の方を嵩上げされた線路に合わせた結果である。
この他に新川橋りょうを挟んだ新川区間の両岸にある石積みの高さの変位からも推察可能

《 その他の話題 》
・昭和27年に真締川東踏切で電車とトラックが衝突し死者3名、重軽傷者23名を出す大事故が起きた。このとき列車かトラックが鉄橋の鋼材に激突し橋が大破している。[b1]

最近、鋼材の刻印を再度調べ直す過程で、東側の鋼材に事故の翌年にあたる昭和28年に補修を行った陽刻が確認された。


陽刻自体は以前から知られていたが、現地へ近づくことができずズーム撮影だけだったので昭和28年が何を意味しているか分からなかった。その後[1]の資料を知ることで鉄橋大破事故の後で補修したことが裏付けられた。同じ側の笠戸工場製造の陽刻板の縁が欠けているのも、この事故の影響であろう。
出典および編集追記:

a1. 以前の橋の色が薄緑色だった件に関して同意見の方が少なくとも一名ある。以前の色彩の方が良かったのに…という意見だった。ただし塗装色が変更された時期や理由については調査を要する。

a2.「Wikipedia - 宇部線|歴史
橋の上と下から詳細に観察したときのレポート。2013年6月撮影の写真と知見を元に記事化している。全2巻。
時系列記事: 新川橋りょう【1】
《 Googleストリートビュー 》

出典および編集追記:

b1.「宇部市|過去の主な陸上交通災害」(PDFファイル)
《 個人的関わり 》
注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

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