馬の背池

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記事公開日:2013/6/1
最終編集日:2021/10/25
馬の背(うまのせ)池は馬の背堤とも呼ばれ[1]、中山観音から小さな尾根を一つ隔てた東側にある溜め池群である。
下の地図は、複数ある溜め池のうちの下池の堰堤をポイントしている。


馬の背はこの近辺の山地字名である。書籍によっては馬の瀬と書かれたものもある。[2]この溜め池の西側尾根を伝う霜降山登山道は馬の背コースと呼ばれている。
《 概要 》
馬の背池は上池・下池と呼ばれる2つの大きな溜め池と、その西側の支流にある新堤から成っている。新堤以外は平成期に入って改修されている。

上池と下池は堰堤を隔てて接しており、上池の樋管および余水吐から流出した用水を下池で受けるようになっている。下池から流出した水はそのまま蛇瀬川に流れ落ちる。したがって馬の背池は蛇瀬川を介して蛇瀬池の主要な供給源となっている。

他方、新堤は小さな尾根を隔てた別の沢に造られた溜め池で、一旦は馬の背用水路(仮称)に向かう。灌漑用水需要期は馬の背用水路を流れるよう堰板が設置されるが、非需要期には水路側が堰で塞がれすべての水を蛇瀬川に戻す仕組みになっている。


この場所の詳細については以下の記事を参照。
派生記事: 馬の背水路の分水井堰
馬の背用水路は登山道同然の市道門前馬の背線に沿って小さな尾根を伝い周囲の田畑を潤しつつ最終的には中山川水系へ向かう。他方、蛇瀬川は真締川水系なので馬の背用水路の上流にある分水井堰は、単一の水路が最終的に異なる河川水系に振り分けられる場所とも言える。
《 歴史 》
藤山村の灌漑用水源として造られた溜め池である。その時期は正徳5年(1715年)にまで遡れる。[2]主に居能開作の水源に充てられたが、江の内開作の水源である栄ヶ迫溜め池のみでは水源が不足するため、馬の背堤より尾根伝いに栄ヶ迫溜め池まで用水路を造り馬の背堤の水も利用していたようである。この用水路は県道琴芝際波線をサイフォンで横断した先の田までは現在も用水を送っているが、それより先の栄ヶ迫溜め池までの経路は喪われ用水路の痕跡のみである。既に廃道状態同然の市道金山線に沿って用水路が伸びており、水路の管理道だったと考えられる。

馬の背溜め池の築堤以前は蛇瀬川の上流であり、宇部村エリアに相当する。藤曲村は広範囲に開作を進めていながら水源となる主要な川がなく、馬の背の奥に溜め池を造って導くのが妥当と考えられたのだろう。蛇瀬川中流に蛇瀬池が築堤されたのは享保年間のことであり、馬の背池の築堤以前から沢地の水を導く水利権を持っていたのかも知れない。
《 同名の異なる溜め池 》
以下の記述は、現地での撮影が行えて記述内容が増えた折には別の総括記事を作成する。

西宇部地区の山の手町南寄りに同名の溜め池が存在する。[3]
地理院地図で場所を示す。


現地踏査を行っておらず詳細は不明である。写真採取次第、掲載する。
《 地名としての馬の背について 》
馬の背(うまのせ)は中山観音以北の広域を指す地名で、現在も溜め池の名称や登山道、認定市道にその名がある。霜降山に親しむ登山愛好者には馬の背コースが知られる。同じ小字が大字広瀬の昭和隧道付近にみられる。この小字は馬の瀬と書かれることもある。

地名の由来は馬の背中のようななだらかな丘陵部の形状を表したものであろう。
出典および編集追記:

1. ゼンリン©宇部西部版には馬の背堤と記載されている。

2.「筆のしづく」(高良宗七)p.13 に「正徳五年に宇部の馬の瀬堤筑(つく)る」の記述がみられる。


3.「宇部市防災マップ|宇部市」の西宇部地区(PDFファイル)による。

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