写真は左岸側市道からの撮影。
位置図を示す。
井堰箇所での元々の河床落差は50cm程度であり、そこに同程度のコンクリート柱を複数本設置して木製の堰板を落とすことで堰いている。この堰板は中央部の一つを除いて常時設置されている。このため御手洗堰より100m程度上流にある時雨川との合流地点付近まで一定の水深をもつ緩やかな流れとなっている。
上流側より撮影。
下流側に見える橋は御手洗橋である。
河床より井堰を正面から撮影。
井堰の直下には露岩が目立つ。露岩は霜降山系ではなく蛇紋系ないしは緻密で硬い黒岩系に近い。
冒頭の地図を拡大すると、川添地区を直線的に流れた真締川は時雨川の注ぎ口との中間地点で向きを変え、やや蛇行して御手洗堰に至っている。この直線的な流路は明治後期の沖田耕地整理によって作出されたのではないかと推測されている。[1]このルートを選定した裏には、御手洗堰の南側にある硬い岩盤へ流路を当てることにより流速を弱める意図があったのかも知れない。
市道から撮影された御手洗堰の動画。[再生時間: 14秒]
井堰によって導かれる用水の取り込み口は左岸側にある。
この灌漑用水は東岩田水利組合[2]により管理されている。
灌漑用水需要期には井堰の水が左岸側の水路へ導かれるが、現在では用水を引く田がないらしく、田に向かう用水路側を堰き止めて全量がそのまま真締川へ返されている。
したがって夏季は御手洗堰と用水路から真締川へ戻るこの箇所で水が流れ落ちる音が聞かれる。この場所は御手洗橋の真下にあたり、階段で容易に降りることができる。
落水音が聞かれるこの場所を癒やしスポットと捉える人もある。[3]
2020年7月は長雨で各地の河川が増水した。
写真は真締川増水時に井堰を流れ落ちる様子。
御手洗堰のすぐ横、市道真締川西通り2号線沿いにこの地点での雨量と水位を計測しデータ送信する水位観測機器が設置されている。
この情報は山口県土木防災情報システムによりネット上で閲覧できる。[4]
井堰により上流側に一定の水深をもつ領域が存在する。昔の人はそのような場所を利用して農耕で働かせた馬を洗っていた。馬だけでなく夏場は子どもたちの格好の水遊び場にもなっていた。[5]
上流側にある井堰に移動 | 下流側にある井堰に移動 |
一本松井手 | 鎌田堰 |
《 地名としての御手洗について 》
この井手の所在地は字川津であり、御手洗という小字は近辺には存在しない。御手洗堰の由来は上宇部と小羽山方面を連絡する古道沿い(現在は市道まかよ小串線)にある御手洗様に由来するものと思われる。古道が真締川を横切る橋の名前も御手洗橋となっている。史跡としての御手洗様は他の地にも存在するが、小字名としては市内では確認されていない。
《 関連記事リンク 》
出典および編集追記:
1. 鎌田から川津にかけての田の所有者や面積、赤線や青線を記載した明治後期の絵図が発見されている。
(一連のデータのスキャンは完了している…公開条件について絵図所有者と協議中)
2. 堰板の取っ手にマジックで「東岩田水利組合」と書かれている。
3. 局長は初めてここを訪れたとき落水音に魅せられたという。小羽山ものしり博士づくり計画で参加者向けに配布されるマップにも収録されていた。
4.「山口県土木防災情報システム|水位観測局一覧」による。
この場所である御手洗橋水位局のデータは こちら から閲覧可能。
5.「FBタイムライン|更新通知」の読者コメントによる。「宇部の水道」p.160には昭和30年初期の真締川の写真が掲載されているが、御手洗橋から上流の御手洗堰を向いて撮ったものと考えられる。
1. 鎌田から川津にかけての田の所有者や面積、赤線や青線を記載した明治後期の絵図が発見されている。
(一連のデータのスキャンは完了している…公開条件について絵図所有者と協議中)
2. 堰板の取っ手にマジックで「東岩田水利組合」と書かれている。
3. 局長は初めてここを訪れたとき落水音に魅せられたという。小羽山ものしり博士づくり計画で参加者向けに配布されるマップにも収録されていた。
4.「山口県土木防災情報システム|水位観測局一覧」による。
この場所である御手洗橋水位局のデータは こちら から閲覧可能。
5.「FBタイムライン|更新通知」の読者コメントによる。「宇部の水道」p.160には昭和30年初期の真締川の写真が掲載されているが、御手洗橋から上流の御手洗堰を向いて撮ったものと考えられる。