(「
市道常盤公園開片倉線・横話【2】」の続き)
《 宇部常盤台郵便局 》
現地撮影日:2014/9/27
記事公開日:2014/9/28
| この記事は現行の宇部常盤台郵便局について記述しています。
かつて市道楢原線沿いに存在していた旧宇部常盤台郵便局については こちら を参照してください。 |
宇部常盤台(ときわだい)郵便局は、常盤台2丁目に存在する特定郵便局である。
位置図を示す。
郵便局を示す表示塔。
下の方に車が当てた傷がある以外、かなり新しいように見える。
車道まで出て全体像を撮影することもないだろう…路側から撮影している。
それというのも常盤台郵便局はこの場所へ移転して歴史は浅いからだ。再び別の場所へ移転したり名称が変わってしまう可能性は限りなく小さい。以前はここよりもう少し北側、
市道楢原線の
起点から下った右側にあった。それほど広くない道路の横にあったので、郵便局を示す〒マークだけが本路線から見えていた。
本路線沿いの分かりやすい場所へ移転して駐車場も専用スペースが設けられた。
個人的には移転後この郵便局に訪れたのは一度あるかないか位である。ATMを使って預金を下ろしたのは覚えている。自分で車を運転するようになってから今の局舎も旧局舎も訪れた記憶があるので、移転は今から十数年前だったかも知れない。
《 宇部高専白鳥寮前にあった非常識な看板 》
現地撮影日:2016/1/10
記事公開日:2016/1/25
| 当該物件が撤去されたので、項目を削除しました。 |
《 開マンションの見える風景 》
項目記述日:2014/12/19
最終編集日:2020/3/5
| 個人的関わりの記録のみを意図して記述しています。当サイトとして当該物件の宣伝や特定の評価を与えるものではありません。 |
野中の変則五差路を過ぎてからも暫く本路線の両側には工学部関連の建物が並ぶ。やがて建物が民家に代わり、それも少しずつ減って初めて眺めが開ける場所がここである。
撮影場所を中心にポイントした地図を示す。
現地撮影日時点では現在も耕作された畑が広がっている。丘陵部を点々と電信線が伸び、幅広く浅い沢を挟んでとても目立つ一棟のマンションが見えている。
さて、何処にでもありそうなこの眺めを派生記事として仕立てた意図は何であろうか。実はまったく個人的な関わりなのである。しかし何十年も前の確かな記憶を残しておきたい。話せば(書けば)長くなるので折り畳み形式で記述しよう。
| 以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。 |
中学校の課外クラブで何度も眺めた風景であった。
いずれ何処かで書くかも知れないが本路線の常盤中学校の裏門を出た変則五差路から風呂ヶ迫交差点までは課外クラブやマラソン大会の走路区間だった。特に課外クラブでは雨天でなければ多くのクラブが毎日ここを走っていた。
マラソンに限らず
体感される走行速度と周囲の景色の変化率は比例する。生徒が沢山いる学校の廊下を素早く走り抜けると自分の足がもの凄く速くなったような気がする思える半面、ただっ広い学校のグラウンドを走るといつまで経っても目標地点に到達せず自分が鈍足になったように感じる。
視界が開けるこの地点は課外クラブで走っている私に意識の変化を与える場所であった。
即ち周囲の眺めが開けることで最初のうちは新鮮味を感じる。しかし走っても走っても丘の上に見えるマンションの建物の位置が変わらずに見えることで、疲れを感じさせてしまうのだった。
今でこそマンションの足元に民家が目立つが、当時は丘の上にぽつんとこのマンションのみが建つランドマーク的存在だった。
(
したがってマンション自体は築40年以上ということになる…ズーム画像はこちら)
本路線は大きく左に曲がりつつこのマンションへ近づく経路となっている。直線的に向かっていくのではないため余計にでも遠く感じられた。
学校の裏門を出た直後はまだ充分余力があるにしても走るのが嫌いな向きにとってはそろそろダレてくる場所である。課外クラブで日々走っていたとき、ここをずーっと走ってあの開マンションの横へ到達して、それでもまだ道半ばなのか…と疲労を感じさせた。
横からのズーム撮影。
この位置に見えるようになるまで相当な距離を走らなければならなかった気がする。
しかもここで終わりではない。ここから風呂ヶ迫交差点を経て沼方面までは下りだからやや楽なものの、最後に工学部前のいわゆる
「心臓破りの坂」という難関が待ち受けていた。課外クラブでの鍛錬走は毎日に及び、それまでまったく運動らしきものをしていない中学1年生の自分には如何にも過激だった。それでも先輩を含めて誰もが脱落せず走っている中、足を停める訳にはいかなかった。さすがに帰宅してからは疲れて早寝していたようである。
課外クラブの鍛錬走によって身体が鍛えられたかというとそうでもなく、2年生のマラソン大会で若干順位が上がった程度に過ぎなかった。惰性で続けていたも同然なクラブも同学年で体験した凄惨な
「しごき事件」により退部している。
[1] クラブ活動自体は今や昔の懐かしい想い出だが、残念ながら走るどころか歩くことさえも嫌いなまま現在に至っている。
中学生時代、自分は殆どを課外クラブに所属しない状態(
しばしば「帰宅クラブ」と呼ばれていた)で過ごした。運動する位なら机にかじりついて勉強したり本を読むことを好む子どもであり、家に帰ったら自分の好きなように過ごすのが当然と考えていたようで宿題すら殆どしなかった。
[2]そんな自分が何故に放課後の一定時間を拘束される課外クラブへ入部したかは些かの疑念があるが、当時としては納得できなくもない理由があったようだ。この件については中学時代の課外クラブを記述する機会があったなら詳細に述べよう。
出典および編集追記:
1. 何が起きたかを当時の日記へ克明に記録している。親には話さなかったが、課外クラブがある筈なのに早い時間にびっこを引きながら帰宅したことで露見した。事実を知ったときうちの親は烈火の如く怒り学校に通報するとまで言った。(実際に通報したかどうかは不明)
私の退部に伴い友達や下級生数人がクラブを辞めていった。一度に数人のクラブ員が辞めるのは尋常なことではない上に、私を含めて当時の被害者がしごきを受けたから辞めたと明言したために事件が学校中に伝播した。当時クラブは昔から市内でも常に上位へ顔を出す名門だったのだが、責任問題から廃部になるのではと噂された。当時の自分は「廃部になってしまえば良いのに」と平然と言い放つなど相当腹に据えかねていたようである。私が退部した後のことなので詳細は不明だが、しごきを行った当時中学3年生のレギュラー部員とキャプテンは事件の責任を取る形で自主退部したと思う。しかし顧問教師の監督責任(事件の当日は不在だった)は何ら問われることなく醜悪なしごき事件はもみ消されクラブの存続にも何らの影響も及ぼさなかった。
小学校中学年時代にも課外クラブで弱肉強食的な扱い(レギュラー部員によるユニフォーム略奪)をされた経緯があり、その後の運動に対する取り組みに永く遺恨を残すこととなった。
(現在でも事ある毎に体育会系な思考形式を持つ人間を罵倒し揶揄する態度に顕著)
2. 怠けて放置していたのではなく出された宿題はその日の授業が終わって次の授業が始まるまでの間や昼休みなどに片付けていた。
【 その後の変化 】
2020年3月に開南地区を訪れたとき本路線を自転車で通行した。このときかつて開マンションが見えていた畑がすべてなくなり造成されて新興住宅地に変わり始めていることが分かった。
本路線の北側だけでなく反対側の南側沿線も殆ど宅地分譲され既に新しい家が建ち並んでいる。現時点では余剰地から僅かばかりマンションが見える状況だが、いずれこの空き地も埋まったなら昔の景観はなくなるだろう。しかし造成が始まる前の写真は2010年から2018年にかけて多数枚撮影済みであり、いつでも昔の記憶を取り戻すことができる。撮っておいて良かったと思うし他の同様に思われる方があるかも知れない。
《 開地区の2人目の生徒 》
記事公開日:2014/12/28
プライバシーに係る問題なので場所について多くは語らないが、この右の道を降りたところに私が開地区で2人目に受け持つこととなった生徒が居た。
詳細は以下の展開テキストに書いた。
| 以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。 |
大学へ一年残って必要な教科免許取得のための単位を取っていた時期だった。大学に残るのは自分の意思だったので授業料を自力で手当するために学生時代から続けていた家庭教師の仕事を拡大させていた。
当時、家庭教師の登録センターがあり、受け持ち可能な教科や学年、空いている時間帯や曜日を登録しておけば家庭教師を求める方からの紹介が回ってくるシステムだった。通算で何人目だったかは調べてみないと分からないが、はじめにこの開地区で1人目の生徒を紹介され受験対策として英数を担当した。このときの生徒および保護者の方の満足度が高かったせいか、近所付き合いのある方からセンターを通さず直接家庭教師の依頼を受けた。それ以前から口コミや紹介による生徒の獲得はあったが、登録センター経由の生徒から口コミで紹介をいただいた最初の生徒だった。
今となってはあまりに古い話なので日記を読まないことには思い出せることは少ないが、特に印象的だったことを一つ書くと、夏休みの宿題としてミョウバンの種結晶作りを手伝ったことである。
夏休みの科学作品というものは何を手がけるか毎年子どもたちの頭を悩ませる課題である。私自身の中学校時代はミョウバンの種結晶作りをやりたいと思いつつ実現できないでいた。彼は何を作るかまだ考えていなかったので、ミョウバンの結晶作りを提案したところ面白そうだからやりたいと言いだした。
取りかかったはいいが全く前に進まなかったでは申し訳ないので、本番に先立って私はミョウバン粉を買ってきて実際に家の鍋で飽和溶液を作って実験した。作り方は家にあった理科実験の事典に書かれていた。飽和溶液を作ってゆっくり冷やせば温度と溶解度の差から小さな結晶が析出してくるという原理である。
この種結晶作り自体は容易だったが、一つ困難な問題があった。事典には種結晶を成長させるためのプロセスとして「できた種結晶の中から形の良いものを選んで紐に結びつける」と書かれていたのである。しかし正八面体をした種結晶を紐に結びつけるのが困難なのは当初から想像できていた。種結晶は一辺が1mm程度の小さなものだから、紐で縛るどころか接着剤でくっつけるわけにもいかない。ここを克服しないことには結晶作りの段階に進めないのは明らかだった。
このときふとあるアイデアを思い付き、使う糸の種類とやり方を工夫することで最初から糸に吊された状態で種結晶を得る方法を見いだした。そしてそこまで実現できたなら、大きな結晶を得るのは飽和溶液に浸けてゆっくり冷やすのを繰り返すだけだから、間違いなく夏休みの科学作品として成り立つ確信を得た。
この成果を元に彼の自宅で種結晶を作った。糸は私が準備したものを持参した。実に面白いように最初から糸を中心として種結晶の”候補者”となる素材が生成された。その中から真に有望な種結晶のみを残して後は取り除く作業が要るが、後から紐に結びつける労力は最初から不要だった。
ミョウバンの種結晶は正八面体でダイヤモンドのような形状と透明度を保っていた。要所で写真を撮り、彼の考えも加えてレポート形式にまとめあげた。彼が独自に作ったものでないことを明らかにするために、表紙の写真には私と彼が一緒に実験している風景を家の方に撮ってもらった写真を載せた。
彼の作品は秀逸と評価され市展に出ることとなった。その折りに理科の先生は一体どうすれば小さな種結晶を紐に結びつけることができたのかを不思議がった。最初から糸に結ばれた状態で種結晶を得る方法は教科書にも書かれていなかった。恐らく理科の先生も苦労なさっていたのだろう。それで彼にいくつか作成されている紐にくくられた種結晶を分けて欲しいと尋ねたらしい。彼はすぐには回答せず一緒に手伝ってくれた家庭教師の人に聞いてみますと答えている。
彼から種結晶を分けて欲しいという理科の先生の相談を報告されたとき、彼の意向を聞いてみた。彼はせっかく自分たちが苦労して見つけた方法だし、きれいな種結晶もそう沢山は得られないのだからちょっと…といった塩梅だった。
(私たちの方法を援用しても美しい種結晶の収量は決して高くはなかった)
私もまったく同じ考えだったので、彼にこう言ったのを覚えている。「じゃあ話は簡単だ。理科の先生には『ダメです』って言っておきなさい」
たとえ理科の先生であろうが、私と彼とで時間を掛けて工夫して得られた成果をやすやすと提供したくなかった。これは途中のプロセスをばっさり省略して結果だけを欲しがる教育に対する小さな抵抗でもあった。
(したがってここでもどうやったかの手法は書かないでおく)
当時作ったミョウバンの種結晶は今も小さな紙箱へ入れて保管されている。実のところ種結晶の段階が一番形が整って美しく、飽和溶液へ漬けると大きく成長するにつれて歪みや濁りが出てくる。このことは彼のレポートでも記述していて、市販のミョウバン程度の純度で種結晶を作る宿命ではないかと書いている。ミョウバンはアルミ由来の化合物であり、類似する素材であるアルミ鍋を使うことで溶け出したのかも知れない。実際、古いアルミ鍋で飽和溶液を作ったところアルミ鍋自体もミョウバンの飽和溶液に侵食されたせいか白っぽくなってしまった。
(当然ながらその鍋は調理に使えなくなった…うちの母親にかなり叱られた)
コストや手間がかかることを敬遠されて現在の理科の授業では実験の時間が少ないと聞いている。確かに45分授業をかけて出来ることは飽和溶液作りと種結晶がジワジワと現れ始めたのを目視できる程度だ。しかし透明な液体からジワジワと砂糖粒のようなものが現れ、正八面体を成すダイヤモンドのように美しい形状と輝きを持つ種結晶が現れる過程は感動的である。液体相から固体相へゆっくり遷移することで同じ分子が規則正しく積み重なっている。
自分も中学生のときやりたかったこの実験を終えたとき、もし極めて高純度のミョウバンが得られて不純物の混入を可能な限り避けた容器や方法で種結晶を作って成長させれば、こぶし大のダイヤモンドのような結晶を作れるのではないだろうかと考えたものだった。
(この種の興味を持つ一部の子どもたちが未来の研究者に向かうのだろう…)
なお、以上の記述はあまりに長いので該当項目を別途作成した折には移植される予定である。
《 開の道標 》
現地撮影日:2014/9/27
記事公開日:2014/12/27
本路線の古道として遺っている区間と市道丸山黒岩小串線との交差点部分に道標が存在する。
[2014/4/2]
市道丸山黒岩小串線に沿って黒岩方面を向いて撮影。
同路線の反対側を向いて撮影。
石碑は練積ブロック擁壁と側溝の間にあるので、これらの施工のとき据え直されている。
東 床波 丸尾
西 新川 居能
北 井関 阿知須駅
南 岬[2014/4/2]
ここにある阿知須駅とは現在の山陽本線本由良駅を指す。
大正四年十一月
開黒岩青年支會
北側には
御大禮記念の文字が見える。
石碑が大正期だから大正天皇の御大典を記念して据えられたのだろう。
道標の行き先として表記される地名はその方向にある代表的な場所が選ばれる。いつ頃から各地名の漢字表記が存在していたかの参考にもなる。
この道標はかなり目立つ場所にあるので本路線の初回トレース時には既に気付いていた。また、歴史マップ
[2]にも掲載されている。
(「
市道常盤公園開片倉線・横話【4】」へ続く)
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