市道神原町草江線・旧線区間

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現地踏査日:2012/4/29
記事公開日:2012/5/3
ここでは、市道神原町草江線が現在の経路として成立する以前、ほぼ同じ場所にあった古い道路および周辺にまつわる物件などを解説する。

なお、該当区間には現在も市道神原町草江線の枝線と指定されている部分、官民の帰属状況がよく分からない部分が混在する。その意味では市道神原町草江線の派生記事とするのは不適切かも知れないが、他に収録すべきカテゴリを思いつかないので本路線の派生記事として収録した。

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市道神原町草江線において恩田交差点に向かう現在の市道恩田線との分岐点から先は、平成期に入ってから整備された。特に国道190号に接続される交差点まではかつて田畑や民家が占めており、神原方面から来た車が常盤公園方面に向かうには、狭い恩田交差点を経由しなければならなかった。

当時の現地の状況は、例によって昭和40年代後半の航空映像により明確になる。
「国土画像情報閲覧システム - 常盤池西部(昭和49年度)の航空映像」
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CCG-74-12&PCN=C24&IDX=13
別ウィンドウで開いたページ右上にある400dpiのリンクをクリックすると高解像度の画像が表示される
広大な航空映像に野球場が目立っているので、場所を特定するのは容易であろう。

市道神原町草江線は恩田線分岐点から国道接続部までは存在せず、現在の交差点部分は野球場へ向かう細い道が一本あるだけだった。
その道は国道を直角に横切った後、西寄りのコースをとって今の経路に吸収されていた。現在交差点から先の広い部分は、元からあった細い道を北側に拡幅して造られている。

以下に示す茶色のラインがかつて存在していた本路線相当部分になる。


国道を挟んで北と南の区間は、当初から一本には繋がっていなかったと思う。
まずは国道から北側、球場に接する区間について述べる。
《 国道以北区間 》
市道神原町草江線の歩道より市道恩田則貞線を眺めている。


都市ガス整圧器室があり、左手に球場の外壁が迫ってきている。球場の外壁に沿って銀杏並木の散歩道がある。
余談だが秋口は結構大きめのギンナンが採取できる…何度も拾いに来たことがある


市道恩田則貞線自体は一方通行のまま真っ直ぐ伸びていく。
ここで右へ折れている分岐が市道神原町草江線の枝線相当区間になる。


反対側から写したところ。
民家のレンガ壁は私の学童期からこの状態だった。


この区間は市道神原町草江線の枝線という扱いで管理されている。
もはや僅かしか痕跡が遺っていないが、かつてはこの幅の道が対面交通の国道190号まで伸びていた。


野球場の外側へ向かう道はバリカーが設置され車は入れないようになっている。


記事の本題から離れるので多くは語らないが、この旧線部分および野球場外側の並木道は私の中学時代の登下校路だった。
ごく短期間参加していた課外クラブで帰りが遅くなったときなど、暗くてかなり怖い道だった。球場で練習試合しているチームがあるときは逆に明かりがかなりまぶしかったのを覚えている。

さて、今度は国道を渡った反対側だ。
どちらかと言えば国道の南側の方が昔の線形がよく観察される。
《 国道以南区間 》
市道神原町草江線の交差点より若干恩田交差点へ寄った側になる。
ここに接続される道がある。


振り返ったところ。
現在は国道側にバリカーが設置されている車が通り抜けることはできない。
民間の駐車場があるので反対側からは出入り可能になっている


再び反対側から撮影。
現在はこの道の横に事業所が入っているが、かつてはガソリンスタンドがあった。


この区間が閉鎖されたのは比較的早い時期だったように思う。
車を乗るようになってからは、プライベートではこのガソリンスタンドで給油していたので、その頃から両側の道があった筈だ。


個人名を出すことはできないので伏せるが、上の写真にある家屋はかつて釣り道具屋で、水虫・本虫・ケビなどと書かれた札が入口のガラス扉に貼られていた。私は釣りはしなかったが親父が結構凝っていて、この店で調達していたようだ。
汲み取り券もこの店で取り扱っていて、親に頼まれて何度も買い求めに来たことがある。
驚くべきことだと思うが恩田地区にありながら私たちが住んでいたごく狭い地域は下水が逆勾配になるという理由で平成初期になるまで水洗化されず島状に取り残されていた…その後再測量の結果水洗化は可能だとされた経緯がある

現在は国道と反対側の入口もバリカーで閉め切られている。駐車場への出入りは歩道を横断して旧線の途中から行うようだ。


これがかつての旧道で、小学校時代私たちはこの道を歩いて登下校していた。
以下の2枚は3年前、初めてここを訪れたとき撮影した写真だ。
ちょうどガソリンスタンドが撤去され更地になった直後だった。


3年前のあのときは、在る意味「勇気を出して」7年振り位に恩田のこの地を訪れたのであった。
馴染みのガソリンスタンドが更地に戻っていたことに衝撃を覚えた。
もっとも引っ越した後も数回給油に訪れたことがあった…撤収するという話は聞いていた

旧線は概ねこの道路の右側ラインに沿って伸びていた。
この先は現在の市道神原町草江線に侵食され、部分的にその形を遺すことになる。


市道長沢源山線の接続部。
前方に歩道が見えており、その右側ラインが旧線の通りだ。


なお、市道長沢源山線の起点から沢を下る方向にも細い道が伸びている。途中から車が通れない地区道だが、一部昔のままの奇妙な線形をもった区間が今も遺されている。
派生記事: 恩田の地区道・ぐにゃんぐにゃん道|市道接続部
少し市道を進み振り返って撮影。
車道と歩道幅を確保してもなお旧線の道路敷が余っている様子が分かる。旧線は塀に沿っていたので、余った三角形状の部分を植樹帯として活用している。


官民境界に地先ブロックが据えられている。元の道は恐らく植樹帯部分と歩道の内側に納まってしまうだろう。


現在はシャッターが降りている個人商店。
主に酒類を扱っていて、恩田に住む頃には何度か買い物にも来たことがある。
今は建て屋の痕跡もないが実はこの商店に隣接してもう一軒お店があった


この店の横から奥へ伸びていく道がある。
かなりの家が建て替わっているが、この住宅地は私たちが恩田へ越して来る以前から存在した。


この小道を奥まで進むと、宇部興産(株)独身寮の敷地に行き当たる。独身寮が完成する前までは鉄工所社宅と呼ばれていて木造平屋の家屋が碁盤目状に並んでいた。
現在は独身寮の外部にブロック塀とフェンスが設置され相互の行き来は不可能

商店の前を過ぎると、植樹帯部分は次第に狭くなり、完全に現在の市道に擦り付けられて消滅する。


現在の市道は平成期に入って拡幅され、旧道は完全にその中へ飲み込まれる形になった。昔を偲ばせる場所や想い出は私の脳内に記録されているが、客観的データとして提示できないのが残念だ。
それらは市道神原町草江線【3】からの記事に述べることにしよう。
出典および編集追記:

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