市道梶返線

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現地踏査日:2014/10/15
記事公開日:2014/10/27
市道梶返線はその名の通り西梶返3丁目にある生活道同然の小さな市道である。
起点をポイントした地図。


ここからスタートする道といえば一本しかない。そしてかなり短い路線ということも想像がつくだろう。
前面を通る交通量の多い道は市道神原町草江線で、ここより100m程度東に信号機の付属する交差点がある。前面の道と中央高校前を通る道とで造られる十字部分を斜めにショートカットするような経路を取っている点で市道樋ノ口琴芝線と似ている。

起点を神原町草江線の自歩道から撮影している。
ここを出入りする車は少ないが皆無ではなく歩道からの見通しはとても悪い。


市道神原町草江線の派生記事としても既に案内しているが、この角にあるネット関連の初代のお店には結構通い詰めたものだった。個人的関わりとしてここでも再度リンクを掲示しておく。
派生記事: 通い詰めたパソコンショップ
起点から撮影。
見るからに狭い道だ。今まで車で通ったことはないし、自転車でじっくり眺めながら通るのも初めてである。


ずっとこんな感じの狭い道が続くのだろうと思っていたのだが、少し進めば若干幅が広がっていた。
割と新しい建物も建っていて昔はどうだったか自分には分からない。


ここで起点より約1m程度高度が上がる。
古そうな石積みだからこの高さは昔からのものだろう。


現在の神原交差点辺りは遙か昔は海水の入り交じる低湿地だったようだから、この辺りが昔の波打ち際で地山が始まる地点だったと思われる。


狭苦しく思えたのは起点の取り付け部くらいで、進んでみれば意外に幅のある道だった。普通車でも徐行すれば問題なく離合できそうだ。
舗装の中央付近に縦のラインが見えているので、かつては起点付近並みに狭かったのかも知れない。


この辺りなどやや幅が狭くなり民家側に未舗装部分が遺っている。
道中ずっとフラットで進行方向左側がやや高くなっている。


地図で推測されていた通り終点が近い。
しかしそこには地図には現れない奇観があった。


稀に見る背の高い樹木だ。
何という名前なのかは分からない。


何枚か写真を追加して末尾に書いておいた。
この樹の名前が判明したなら項目名のみ変更する予定
派生記事: 名前の分からない高木
この樹木に寄り沿うように小さな祠が存在する。
道路より2m程度高い位置にあって石段で登るようになっていた。


この祠は道重上人の生誕地を記念して建てられたものとされる。


詳しくは別途作成する予定の道重上人の祠項目を参照されたい。
派生記事: 道重上人生誕の碑
祠を過ぎると同じ位の幅の道に行き当たって終点となる。
市道神原町沼線で、認定時期は恐らく古いものの大変に分かりづらい経路をとる市道である。

終点より振り返って撮影。
車両通行に関する制限は出ていないが、撮影の間一台の車にも出会わなかった。


経路はおよそ自明だがルートラボを示す。


本路線は昔からの道と考えられる。経路そのままが字西梶返と字下浜田の境になっているからである。小字絵図でも実際の道路も本路線の市道神原町草江線より南側には道路は存在しない。かつての海岸線はこの近辺に存在した筈で、以前は多少なりとも起伏があったのかも知れない。現在では中央公園の一部に組み入れられていて昔の地勢はすべて失われている。
【路線データ】

名称市道梶返線
路線番号489
起点市道神原町草江線・弓道場前バス停
終点市道神原町沼線・交点
延長約150m
通行制限
備考

延長など各データの正確性は保証できません。参考資料とお考えください
《 個人的関わり 》
アジトと同じ町内にありながら本路線は自転車・車・徒歩のいずれでも通ったことが殆どない。特にカメラで撮影したのはこの記事向けが初めてである。このことは「居住地に接近しつつ離れる位置を通る道は利用頻度が低い」のセオリー通りである。
終点で合流する市道神原町沼線もアジトに対して同様の位置関係にあるため自転車でも殆ど利用していない。ただしいずれの道も存在自体は高校生時代から知ってはいた。特に本路線の起点は自転車で通るとき車が飛び出て来た場合は危ない要注意地点と認識していた。

本路線は短く写真や記述量が少ないので、以下に補足事項や派生記事を掲載する。
むしろ以下の地名について記述するために本路線を記事化したとも言える…
《 名前の分からない高木 》
道重上人の祠がある石段にめり込むような形で名前の分からない高木が存在する。
高さは目測で8mくらいあるだろうか。


木の幹がある場所だけ石積みを空けて築かれていることから、相当に昔から今の幹径をもつ樹木だったらしい。


下から見上げたところ。
地上5m程度まではまったく枝分かれせず凛として天空を目指している。葉の色や形にはそれほど特徴はない。


この高木の特に変わっている点は幹肌だ。
見たこともないような質と形状をしている。これは写真だけでは分からない部分もあるだろう。


まず表面を触ったときの感じが普通の樹木とはまったく異なる。もの凄く堅い。爪を立てて叩いてもまるで陶器か鉄の塊を触れているようだ。極端な話、手挽きの鋸では刃の方がこぼれてしまうのではないかと思う。
樹木らしく外皮が剥がれるという性質は持ち合わせるものの、まるでジグソーパズルのピースみたいな不定形に薄く浮き上がってきて落ちる。魚の鱗のようである。

こんな種の樹木自体初めて見るし、高さも市街部に近い場所としてはかなり目立つ部類である。南神原公園にはメタセコイアの高木が相当数植わっているが、ここでは一本だけだ。この樹の名称など詳しいことが判明次第、追記する。
【追記】(2018/2/5)

この写真を植物に詳しい方に見て頂いたところケヤキの類ではないかという回答だった。樹皮がウロコ状に剥がれるあたりはカゴノキにも似ている。市街部にはこれほどの樹は他に見当たらず、この場所へ植えられた特殊な背景があるのかも知れない。
《 梶返について 》
梶返(かじがえし)[1]は琴芝校区に属する地名で、現代では東梶返が1〜4丁目、西梶返が1〜3丁目とするかなり広大な領域を占める地域である。しかし本来の字梶返とされる場所は、本路線の終点より更に北側の丘陵部となる。派生小字として西梶返、東梶返があり、現在も町名として使われている。本路線を終点に向かって通った場合の左側が字西梶返である。後述するような特異な由来による地名のため、同名の小字は市内には存在しない。
【 地名の由来 】
梶返の由来を説く書籍は数多くあり、、その殆どすべてが道真公の海難に由来する以下の出来事を元にする。
延喜元年(901年)のこと、道真公が京都から筑紫の太宰府へ流されるとき、現在の周防灘の海路をとっていた。折しも西方から嵐が襲来し船を進めることができなくなった。船頭はやむなく当時入り海であったこの地まで舵を返し風の鎮まるのを待った。その後道真公は太宰府へ到着し3年後に亡くなった。村人たちはかつて立ち寄った道真公の徳を慕い、この地に天神様の霊を鎮める神社を建てた。その後より梶返という名前が生まれた…
その神社が梶返天満宮であり、境内の説明板にも梶返の由来が記載されている。菅原道真公が御着きになった地から着の森天神、ないしは地元住民には天神様と呼ばれ親しまれている。

現代の時間軸において現地をみれば近くに海など存在しない。また、主要な川が梶返の近くを流れているわけでもない。些かロマンに欠ける話かも知れないが、果たして船頭が舵を返してこの地に辿り着くようなことが可能だったのか、それが史実だったとして梶返という地名の発祥たり得るのかを考えることができる。かなり早くから成立理由が分からなくなった地名ではしばしば後世に地名発祥の説明がつくような辻褄合わせの物語が作られ後世に伝えられる。[2]地名の由来を考察する場合、こうした付会も昔の歴史文化の一つと位置づけ尊重されるべきものの、真の地名の由来とは切り離して考える必要がある。

地名の成り立ちを考察する場合、一般にはその土地の地勢的要因(崖に面していたり浅瀬があるなど)に基づいて名付けられる場合が殆どであり、歴史的事件や人々の所作や習慣に由来する事例は少ない。海を干拓して陸地化したり森林を切り開くことで新規に暮らし始めた場所なら、人々の関わり合いが始まったときのエピソードが地名由来になる事例は有り得る。[3]
梶返の場合、昔から地山で恐らくは道真公以前から人々の暮らしがあった。梶返と呼ばれる前の地名が存在していた可能性はあるだろう。それでもなお以下のような理由により、道真公との関わりの有無とは無関係に、一般に船頭の「梶を返す」という所作に由来する可能性が強いと考えている。
(1) 同じ梶返地区に「舟ヶ崎」という小字が存在すること
(2) 梶返天満宮が着の森天神と呼ばれてきた経緯があること
(3) 居能付近から現在の梶返まで舟を内陸部へ漕ぎ入れることが可能な浅い入り江があったと考えられること
(4) 現在の神原交差点から西梶返三差路にかけて渡内川を残して地上げした可能性があること。
このうち(1)と(2)は由来を同一にする。梶返という地名が誕生した後に、その由来に符合するよう船ヶ崎(ふながさき)という地名が生まれた可能性は一応ある。しかし(3)はそれとは独立した地勢的要因で、「嵐を避けるためにこの地へ梶を返した」という人の所作がまったく過去の作り話だとは言い切れない要素がある。家が建ち並び地山が視認しづらい現代では実感しにくいだけで、現在の常盤通り・松山通りには東西に伸びる細長い砂丘があり、その南側は低湿地で潮の状況によっては平底の舟であれば砂丘を大きく迂回する形で梶返まで到達することが可能だったと考えられている。この高低差は国土地理院の地図にも反映されない程度のレベル(即ち10m以下)である。したがって菅原道真公を乗せた舟ではなくとも、当時もし宇部沖を西へ向かって航行する舟が頻繁だったなら、悪天候を避けるために砂丘の先端である居能(犬尾)先で入り海側へ進路を変え、殆どUターンする形で梶を返して波の影響を受けない場所に向かう事例が多かったことが考えられる。その場合、入り海の最も奥で早くから人々の暮らしがあったなら、実際に梶を返した場所ではなくその後初めて舟を陸着けした地を梶返と名付けることは充分考えられると思うのである。
【 現代の梶返 】
市道の路線名をはじめアパートなどの名称に頻出するため梶という常用漢字外の漢字を含みながら殆どの宇部市民は正しく読みこなすし市内の何処にあるかも知っている。更にはその地名の由来も比較的よく知られている。若年者や他地域から引っ越してきた方はまだしも、地元在住の年配者なら殆ど地名の由来を説明できるのではないかと思う。

行政による住居表示変更により、梶返という名称は他の小字を飲み込む形で該当区域を拡大していった。即ちかつての梶返と呼ばれた小字以外の場所も梶返を冠する町名で表現される。多くの小字が失われ、また元々の梶返発祥の地とされる正確な場所が分かりづらくなっている。
例えば現在浜バイパスが国道490号(参宮通り)に接続する西梶返三差路の信号機の地名表示板には西梶返と表記されているので、一般に国道より西側が琴芝で東側が梶返と解釈されがちである。現在の住居表示では概ねその通りだが、T字路のある地点の実際の小字は渡内である。

この辺りの事情を考慮して国道490号のバス停名は梶返ではなく昔から現在に至るも「梶返入口」となっている。


このようにバス停名、交差点名、アパートの名称など梶返という地名はお伽噺のような史話に基づいていながら現在も広く定着しており、この地名が喪われる心配はまずないだろう。
【 付随する話題 】
小野田市の津布田と郡の間に梶(かじ)という地名がある。宇部市からは離れているが、瀬戸内海に面している土地という点では共通している。梶の字を含む地名としては床波の梶取、際波の梶堀が知られており、そのいずれも過去を含めて海に面している地である。小野田市の梶は火ノ山から海に向かって半島状に突き出た地勢で、梶返と同様の由来があるのか興味深いところである。
出典および編集追記:

1. 昭和初期発刊の宇部市街図では返の漢字表記が見られる。また「山口県地名明細書」での読みは「かじえし」となっている。

2. 例えば美祢市であるが追拳(おこぼし)という奇妙な地名が存在する。その表記より源平合戦において宿敵を捕らえようと拳を上げて追ってきた…のように語られることがあるが、後世の付会である可能性が強いとされる。何故なら人の一瞬行った所作のようなものがその地の代々あった地名を駆逐して追拳に書き換えられる可能性が極めて低いからである。一説として、年貢米の徴収を免れる神田があった地(お目こぼし)の変形ではないかとされる。これは「拳を上げて追って来る」の説よりは相対的に説得力を持つというだけに過ぎず、真の由来を確定的に得ることは非常に困難だろう。

3. 市内の見初(みぞめ)は「溝を埋める」に基づくものとされている。宇部の街は海底から掘り出された石炭に付随するボタを海へ押し広げることで陸地化し人々が暮らし始めた。見初という地名が溝を埋めるという所作に由来すると考えられるのは、ボタを押し広げて陸地化された場所でそれ以前は人が居住できる余地がないこと、埋め残されていた荒れ地の溝状領域を埋めて人々が住み着き始めた歴史的背景が確実視されるからである。

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