市村境界石【3】

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現地撮影日:2017/6/8
記事公開日:2017/6/22
西岐波岡ノ辻地区の今村方面へ向かう道の途中に周防と長門の国境を示す石碑がある。
写真は正面からの撮影。


位置図を示す。


花崗岩の柱に「市村 境界」とだけ刻まれている。ここに言う市とは宇部市、村とは西岐波村のことを示す。即ち西岐波村が宇部市へ合併する以前に設置されたことが分かる。
また、宇部市と西岐波村の境は後岡ノ辻辺りまではそのまま周防国と長門国の国境に一致することが分かっている。この区間に限定すれば、市村の境界をたどることと山口県がかつて二国に分かれていた時代の国境をたどるのは同義になる。

この国境石がある位置は、亀浦から岡ノ辻方面へ向かう南北の道(現在の市道丸山黒岩小串線)より数十メートル外れている。床波方面へ下るこの道(市道岡ノ辻今村線)も昔からの道である。南北の道は概ね国境をなぞっているのだが、随所でイレギュラーがあることが知られている。

境界石より西を向いて撮影。即ち南北のメインの道を向いている。


真反対側、今村へ下る方を向いて撮影。


この2枚の写真からでも石碑のある場所が南北に伸びる尾根の最高地点で、そこより東西はどちらも僅かながら下りになっていることが分かる。

メインとなる南北の道は、概ね尾根をたどる経路で造られている。国境を尾根に設定するのは双方の国の住民が納得しやすいもっとも妥当な手段である。しかしこの場所では南北の道は国境から外れている。昭和22年の航空映像[1]を参照すると、この辺りの土地利用はほぼ畑地で民家が殆どない。南北の道の原型はあったもののあぜ道より少し高規格という程度の踏み付け道しか見られない。その後南北の道路を拡げるまでに家が建ち並ぶなどしたためこの場所を避けて造られたのではないだろうか。

そのことは枝道となるこの場所へ市村境界が生き残った一つの理由でもある。後述するようにこの市村境界石は私が知った3番目のもので、南北の道路沿いには同種の石碑が一つもみられない。[2]これは南北の道を拡げた折に道路敷にかかること、道路センターがそのまま境界であると分かるために重視されることなく取り除かれたのだろう。

後述するように、この境界石は自力ではなく地元の方に教えてもらうことで発見した。
隣接する民家の塀へ隠れるように据えられている。


大きさも色彩もブロック塀に紛れるものであり、何の予備知識もなしでこの石碑を見つけるのは困難だろう。


実際、石碑の前を通る市道は発見に至るまで自転車で2回だけ通っている。特に2回目は市道レポート向けに全線を撮影しているのだが、この石碑近くで撮った写真があるもののまったく気付くことなく通り過ぎている。

石碑の正面拡大映像。
既に知られていた市道亀浦線沿いにある市村境界石とは異なり墨入れされていない。


石材は典型的な花崗岩であるが、肌色の長石が含まれておらずごま塩状のものである。こういった種の花崗岩は近場では産出しないので、墓石などと同様他所から取り寄せられた石材と思われる。

全体に荒削りで側面や上部には何も刻まれていない。
表面に何も刻まれていなければ敷地境界でこの種の境界石はよく見かけられる。


枝道に対してこの石碑の真反対側はこうなっていた。
植え込みがここで切れているので敷地境界になっている。しかしこのラインがそのまま国境であるとは必ずしも言えない。


この辺りの小字絵図を参照すると、宇部市側は大字沖宇部字南石鍋、西岐波村側は大字西岐波字岡ノ辻となっている。国境ラインはこの市村境界石より南北の道へ向かうように進み、現在の南北の道へ出る直前で再び異なる場所を通っている。
市村境界石より北は、一旦南北の道まで出て現在の岡ノ辻交差点を過ぎてその先で再び道路とは違う場所を通っている。そして字東条の北の端では道路は常盤池の北側へ回り込むのだが、国境ラインは黒岩山から伸びる尾根に至っているようである。

この市村境界石は自分としては同種のもので3番目に見つけたものなので、ファイル名もそのように設定している。更に北側で同種のものがあるとすれば、上記のような現在の道路から外れた場所が候補地となる。しかし相応な往来があった枝道は見当たらないため、発見される可能性は薄い。他方、南北の道路に沿っていながら案外除去されず道路際へ移して保存されているものがあるかも知れない。
出典および編集追記:

1.「宇部東部(M114)1947/03/12(昭和22年)米軍撮影の航空映像
画面左下の高解像度表示ボタンを押すと詳細画像が閲覧できる

2. 南北の道と常盤池の本土手上を通って江頭へ抜ける東西の道(現在の市道常盤公園江頭線)の交点には道標が知られる。この道標も位置的に市村境界を兼ねていたのではと思われる。

3.「宇部市|文化財マップ」(常盤校区PDFファイル
《 Googleストリートビュー 》
前面の市道が採取されていて、この石碑の正面から眺めることができる。


この場所の地勢を知るには、一旦上記の映像から手前に引いて前面市道を走行操作すると良い。両側のブロック塀やコンクリート基礎は天端が水平である。ブロック塀の段数の変化やコンクリート壁の高さ変化で境界石のある場所が尾根の一番高い場所となっていることが分かる。
同種の市村境界石で個人的には最初に見つけたもの。(記事が書き上がり次第リンクで案内します)
派生記事: 市村境界石【1】

同種の市村境界石。もっとも海側にあるもので個人的には2番目に発見されたものである。
本記事と同様に独立記事へ分割する予定
派生記事: 市村境界石【2】

この他に国境ライン上に設置された現存物がいくつか知られている。いずれ「周防と長門の国境」という独立記事を作成しそこにまとめて収録する予定である。

前述の通り、市村境界石は個人的に今のところ3箇所のみが知られている。前者2箇所は自力で見つけているが、3番目となるこの境界石の発見には一つの偶然があった。
《 個人的関わり 》
現地撮影日:2015/12/29
この境界石はたまたま私が帰りにこの道を通ったとき話しかけた地元在住者から教えて頂いた。
そのときの状況が些か思い出深いのでやや長くなるが以下に時系列を記述する。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

何の分野でもある対象物に近い場所へ永年住んでいる人は、専門家を上回る知見を持ち得る。究めるにしても近くに住んでいる人は絶対的優位にある。もっとも住んでいながら身近のものに何の関心をも示さない人もあるのだが、多くの場合で積極的にコンタクトを取った方が有用な情報が入ってきやすいという事例だった。
出典および編集追記:

1.「FB|未確認の市村境界石が見つかった(要ログイン)

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