真締川・火力発電所の排水口

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現地撮影日:2015/10/8
記事編集日:2021/12/10
塩田川ポンプ場の対岸、寿橋の近くのコンクリート護岸下に半月状の排水口のようなものがみられる。
写真は左岸下流側からの撮影。


一連の排水口は塩田川ポンプ場のちょうど反対側に見える。
手前に見えるコンクリート構造物は塩田川ポンプ場の恐らく古い排水路である。
左側にも怪しい感じの排出口らしきものが見えている…後で言及する

位置図を示す。


コンクリート護岸に穴があく格好になっているが、元々この形状だったのではなく排出口を残して護岸を造ったらしい。しかし排出口の前には大量の泥濘が溜まっており既に使われていないことが窺える。


以前ブログ版で撮影したのよりは高い解像度で撮れるカメラだ。
手ブレしないようこちら側の護岸上にカメラを固定してズーム撮影している。


周囲に写っているものから対比させてこの2つの排出口は直径が1m程度で、本来断面が円形かトンネル状をしているものが泥に埋まっているようだ。
実は護岸に遺る古い排水管なら他の場所にもみられる。しかしこの排出口はかなり大きくて目立ち、かなり昔の下水管ではないかと思っていた。

現在のところこの排出口らしきものに言及する文献には一件しか出会えていないが、その記述がまさにこの写真の排出口を指していることを前提に、これは現在の中国電力(株)宇部営業所のある場所に存在していた宇部電気会社の火力発電所タービンの冷却水排出口と考えられている。[1]

時代は明治期に遡る。明かりを灯したり動力機械に仕事をさせる電力の有用性が認識された黎明期、新川の西岸に火力発電所が造られた。火力発電所の建設は明治42年11月で、創立元の宇部電気会社では渡邊祐策が取締役社長であった。「宇部は石炭の賜」であり、早くから貴重な熱源・光源として利用されてきた。石炭の採掘は時代が下るにつれて技術的向上をみて大量採取されるようになった。そして単純に燃焼させるだけではなく火力発電所によるエネルギー変換を経てより汎用性のある電気を産み出すことに貢献した。

火力発電所では液体の水が熱せられ気体へ遷移する力を利用してタービンを回す。この動力が電力に変換される過程で熱を持つタービンを冷やす必要がある。この場所に造られたのは、新川を挟んで両岸に発展しつつある市街地に近いことと新川から一定量の冷却水を確保できたからだろう。
排出口が後年ある程度の改修を受けている可能性はあるにせよ、明治期の火力発電所に関する遺構が僅かながらでもこうして現在観察できるのは驚異的である。

可能な限りの最大ズームで撮影。
蛎殻らしきものがびっしり付着していて視認しづらいが、半月状になった排出口の上部構造は僅かにピンク色がかっている。しかもアーチ部分は一定の厚みを持っているように見える。
前回のブログ版作成時では写真の鮮明度が低く気づかなかった


このことから(初期調査のブログ記事では書いていなかったが)排水口はコンクリート管ではなくレンガ巻き立てかも知れない。当時既にコンクリート素材は存在していたが、このようなアーチ構造を造るには専らレンガが使われていたからである。

この排出口の奥がどのようになっているかは、最近知られた岬明神川レンガ巻き隧道と同様に興味の対象である。中電の宇部営業所の建屋に伸びているにしてもまず先は閉塞しているだろう。そのままだと潮位が上がったとき排出口を逆流して場内に水が入ってくるので、今の建屋を造る折りに敷地内へかかる部分は取り壊しコンクリートを充填しているのではないだろうか。それでも護岸から真締川公園部分にかけては昔のまま遺っているのは確実だろう。

一連の写真から分かるように排出口は河床付近に設置されていて周囲は大量の泥が溜まっている。標準潮位では水の下に隠れるし、干潮時に現れても護岸から降りられる場所がなく接近する術がない。
さすがに河床まで降りて内部を詳細調査する予定は今のところない

このような半月状の排水口が2つ見えていて、少し離れたところにも似たようなものが遺っていた。


一応ズーム撮影してみたが管がやや小振りで奥まっていることから構造は分からなかった。


しかしこの排出口も当時の火力発電所ないしは併設されていた設備に関係するものではないかと考えている。いずれもほぼ同じ位置にあること、それぞれが現在の中国電力(株)宇部営業所の建物の方に向いているからである。

言うまでもなく現在の宇部営業所に発電タービンは設置されていない。いつ現在の建物になったか分からないが、排水口として機能していないのは明らかである。新川護岸のコンクリートは後年のものだろうが、その際にも排出口を塞ぐこともなく現在のように遺されている。
このことは一般にかつて新川に排出されていたが現在はもう使われていない排水管についても同様らしい。即ち塞ぐことなくそのまま遺すようだ。護岸部で塞ぐと埋められたままの管を伝って水が流れたとき護岸の背面に溜まってしまうからである。

そのような実例がすぐ下流側の護岸前面にも観察される。
やや高いところに2つの穴が空いている。


ズーム撮影する。ちょうど西日が当たって光量を稼いでいるので遠方ながら割と明瞭に撮れた。
片方の穴には排水管が押し込まれていた。


さすがにこの穴まで火力発電所時代のものとは思えないが、現在のような建物配置や道路ができる以前のものと考えられる。コンクリート護岸を造る前から雨水排水路がここにあって、高い護岸を築くと排出できなくなるので護岸に穴を開けて確保したというわけだ。
こういった護岸に空いた穴は昭和中期以前の排水経路を推測する助けになる

このたび写真を採取したとき、火力発電所とは無関係にもう一つ気になる遺構を見つけた。
写真の正面に写り込んでいるのだが…


護岸の上部にあるこのコンクリートの遺構である。
護岸よりも一段後退した場所に遺っていた。


下流側のコンクリート護岸と石積みの境付近にも同様のものがみられる。


ここまで来たついでに、排出口の真上に何か遺っていないか、河床へ降りられる場所があるかなどの調査を兼ねて対岸へ移動してみた。

寿橋の上から撮影。
泥濘ばかりで決して綺麗な眺めとは言えないが、護岸付近には思ったよりも多くの排出管が残っていることが分かる。


排出口付近をズーム撮影。
コンクリート護岸自体は背丈よりも高く直接昇降はできない。もしあの排出口の前まで降りるなら梯子を使うか、何処か河床へ降りられる場所を探して干潮時に長靴装備で護岸の真下を延々歩く以外ないだろう。


対岸から撮影。
塩田川ポンプ場の下流側には、先日記事公開した船卸し斜路が見えている。


位置的にはここが排出口の真上だ。しかし現地は真締川公園の一部となっていて後年の改変を受けておりまったく何も遺っていなかった。

フェンスの外はイバラの混じった灌木で、地面の状態すらよく見えない。ここから直接降りるどころかカメラを持った手を差し出すのも困難だった。


対岸から見えたコンクリートの土台みたいなものだけ撮影してきた。
火力発電所とは無関係だが、ここに何があったかは気になるところだ。


なお、海水は真締川を西の宮付近まで遡行するので一連の穴は満潮時には完全に水面下に隠れる。


可能なら護岸の下に降りてあの排出口を近接して撮影し、その内部もカメラに偵察させたいところである。
そこまでするかどうかは装備のみの問題で、河床へ降りること自体それほど抵抗感はない。それと言うのも以前この近くで長靴を履いて川を歩き回っている年配の方をお見受けしたからだ。釣りの餌となる環形動物かシジミを採取していたのだろう。もっとも自分の目的はそのいずれでもないのだが…

今のところすぐ着手する予定はないが、近接撮影など成果が得られたなら後続記事を作成しよう。
《 近年の変化 》
・2015年10月中旬頃、寿橋下流側の両岸に生えていた雑木類がすべて伐採された。このことにより寿橋の撮影や護岸への接近が容易になった。それまでは冬期も護岸上が藪状態で接近自体が非常に困難だった。
冒頭の写真でも明らか

・火力発電所の排水口であることは[1]に根拠が求められていたが、2021年に郷土資料を参照していて”米寿紀藤閑之介”に温水が排出されるこの付近で泳いだという記述を確認できた。温水に混じって油塊がときおり流れて来て慌てて泳いで避けたという下りがある。

・2021年12月に山口ケーブルビジョン「にんげんのGO!」の宇部マニ散歩で、かつてここに火力発電所が存在していて護岸に排水口の跡が見えることが紹介された。


ただしロケでは満潮だったため見ることができなかったため、上記のように干潮時に撮影された画像がインサートとして放映されている。
《 個人的関わり 》
この排出口らしきものの存在も真締川の護岸観察の割と早い過程で気づいてはいた。しかし撮影したのはこの近くにある船卸し斜路の遺構よりもずっと後である。


それと言うのも同様の古い排水口の跡は新川の石積みの至る所に見受けられること、干潮時にしか姿を現さず撮影機会が少なかったこと、水質が向上したとは言えヘドロの溜まる排水管へカメラを向ける気になれなかったのが理由だった。

その後図書館で借りて読んでいた[1]の中に、この2つの穴が明治期の火力発電所の排水口であることを記述した部分を見つけた。この記述を元に現地へ撮影に行ってブログ記事を作成している。[2]
外部ブログ:  真締川に遺る冷却水の排水口?(2013/7/13)
その後同様の古い遺構がないか暫くは新川の護岸に見える管や排水口を観察するようになった。この過程で護岸自体の材質(間知石・コンクリート)や高さ、間に挟み込まれた夾雑物(レンガや廃材など)から護岸改変の時期や土地利用を推測する手がかりとなることに気づいた。
2016年2月に新川橋関連の記事作成の折りに新川区間を綿密に調査し、この過程で初めて河床へ降りて排水口へ接近し詳細な調査を行ったときの時系列記事。全3巻。

時系列記事: 真締川・火力発電所の排水口【1】
出典および編集追記:

1.「ときわ公園物語」p.46

2. 既に当サイトは開設されていたが当時は恐らくまだ河川カテゴリを作成しておらず収録する場所がなかったためにブログへ記述したようである。

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