市道恩田則貞線・横話

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本編では市道恩田則貞線の派生的記事を収録する。
《 恩田通踏切 》
本路線が宇部線を横切る踏切は恩田通(おんだどうり)踏切[1]という名称が与えられている。


この場所をポイントした地図を示す。


踏切を渡って反対側から撮影している。
市道にありがちなことだが踏切部分で幅が狭くなっている。


踏切のある位置は芝中町と恩田町1丁目の境になっている。


昭和初期に作成された市街図を見ると、確かにこの踏切を渡る道に対して恩田通りという名称が記載されている。ただし本路線に対して恩田通りという呼称がされることはない。また、市道恩田通り線という路線は本路線の起点を掠めて東新川方面へ向かう道に対して与えられている。
消防署の前から寿橋通踏切の前までの路線…まだ写真を撮っていない

宇部線の前身である宇部鐵道の歴史が古いため、踏切や橋りょうなど関連する構造物にはしばしば現在では見られない地名などが遺っている。当サイトでは初めのうちは鉄道セクションを扱わない方針だったが、踏切などの名称が古い地名の数少ない生き証人であることに気づき、記事を作成するよう方針転換している。
出典および編集追記:

1. 一般には「〜通り」の平かな表記は「〜とり」が正則である。しかし踏切名に現れるものは以前はすべてこのように表記されていた。現代の表記と異なるのはおかしいのではないかという指摘があったようで、2016年の秋頃市内の「〜通踏切」の平かな表記部分が一斉に修正されている。具体的には「う」の部分に「お」を印刷したテープを貼り直している。修正方法が如何にも粗雑で、貼られた直後から剥がれかけているものの存在が指摘されていた。(2017/7/16)
恩田公会堂への進入路
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恩田公会堂
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《 金気の多い水路 》
恩田公会堂入口を過ぎて市道が軽い登り坂にさしかかる付近で、奇妙に金気の多い水を流す溝というか水路が存在する。


コンクリートの割れ目などから茶色い水や泥が漏れ出ている水路など割とありふれているのだが、ここの溝は底全体が真っ茶色なのだ。私の記憶する限りこの溝は昔からこんな状態で、子供の頃からかなり気になっていた。

更に些か不可解な点がある。
溝は途中で二叉に分かれて別の経路からも水を集めている。その場所がここなのだが…


両側を民家の高いブロック塀と石積みに囲まれてしまっている。即ち溝に沿って歩くということができない。
これでは溝普請しようにも浚えた泥などを運び出せないのではなかろうか…

この溝は市道に沿って登る経路は次第に細くなり、最後は暗渠になっている。しかし開渠部分に水を吐き出している箇所からして既に真っ茶色だ。


今や生活排水を溝に流す地域など皆無だから、この茶色は生活排水による汚濁ではなく何か金気のある水を取り込んでいるからだろう。それが一体何処から来るのか明らかではない。
上流と言ってもこの先は家並みが広がり、金気を含んだ山の水が流れ込む要素に薄いと思うのだが…[1]
出典および編集追記:

1. この溝は恩田水路と呼ばれている。上流端は恩田青果市場の裏手、市道清水川恩田線との交点付近にあり、市道清水川恩田線に沿って流れて塩田川へ注いでいる。茶色の水を流す理由は不明である。(2017/7/16)
恩田運動公園駐車場
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《 則貞のレンゲ畑 》
現地撮影日:2011/5/4
記事編集日:2015/5/3
この路線沿いの田で5月前にレンゲで埋め尽くされる一角がある。
恩田・則貞地区では今や田の作付け絶対面積自体が激減している中、レンゲが咲き乱れる田は稀少である。以下の写真は去年の5月上旬にここを通りがかって偶然見つけたものである。


振り返って撮影。
実際にこのレンゲ畑を見つけたのは市道レポート向けに走破するより前のことである。


まさか人様の田を踏み荒らすわけにもいくまいから土手部分に立って撮影することに。


市道に面した長さが10m程度、奥行きはその倍以上ありそうだ。


ブロック塀にまで余すことなくみっしりレンゲのじゅうたんで埋まっている。


カメラの性能も撮影モードも標準レベルなのでそこそこな写り具合だが…


周知の通りレンゲ畑は観賞用に拵えたのではなく窒素源として植えられている。一定期間経過後は鋤込まれることで養分となる。

平成期の初頭まで陸上競技場入口と本路線の交点にあたる部分にもレンゲの咲く田があった。このレンゲ畑もいつまで観られることだろう…[1]
出典および編集追記:

1. 時期は不明だがこのレンゲ畑は田んぼから通常の畑に変更されている。(2015/4/14確認)
なお、丸尾にあった大レンゲ畑も2015年の時点でかなり縮小しており今後どうなるか分からない。
《 則貞派出所 》
古い写真がないので所在地のみの写真再掲になるが、かつてこの場所に則貞派出所があった筈だ。


三角の土地なのでそれほど大きな建物ではなく、入口は国道側に向いていた。

恩田に住まう身では則貞派出所には殆ど縁がない。それにもかかわらず覚えているのは、小学生時代たった一度だけ則貞派出所を訪れたことがあったからだ。

確か小学5年〜中学1年生のときだったと思う。級友と遊んでいて道ばたに王冠がついたままで開封されていないコーラの瓶が置かれていたのを目撃した。場所は何処だったか覚えていないが、則貞派出所よりはかなり離れていた場所だったと思う。当時、青酸ソーダ入りコーラを目に見える場所に放置し、飲んだ人が死亡する無差別殺人が世を賑わせていた。[1]
そのコーラは確か半分くらい土に埋もれていて、最近放置されたような感じではなかった。しかし開栓されておらず当時は中身入り飲料の放置に結構過敏になっていたせいもあって、友だちと一緒に則貞派出所まで歩いて持っていったのである。
鉄工所社宅に住んでいた級友だった

派出所でどういう応対だったかは覚えていない。友だちが派出所へ持って行くからついて来てくれと頼まれて一緒に歩いただけだった。
しかし派出所ではきちんとした応対を受けた上で中身入りのコーラ瓶をそのまま渡した。級友は名前と住所、電話番号くらいは尋ねられたかも知れない。

結局その後は何事も起こらなかったので、どうやら単に捨てられた中身入りコーラ瓶に過ぎなかったらしい。
私が則貞派出所を訪れたのは後にも先にもあの一度きりである。
もしかして、このX十年前の拾得物に関する記録が帳簿に残っているのだろうか…(まさか…)

下はかつて派出所があった地点の拡大航空映像である。


現在より十数年の遅延を持つYahoo!航空映像で眺めると、まだそれらしき建物があるようにも思える。
いつなくなり、何処へ移転したのかは調べておらずよく分からない。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 青酸コーラ無差別殺人事件
《 則貞交差点のショートカット 》
市道恩田則貞線の終点は国道190号則貞交差点の比較的近い場所、市道草江五十目山線に接続されている。
この区間は一方通行などの制限がないので、則貞交差点の信号を回避してショートカットする近道が成立する。


パターンとしては市道草江五十目山線側から則貞交差点に向かっていて恩田方面に行きたい場合になる。


このとき交差点の手前になるこの区間を経由することで信号を一つ回避できる。


実際この分岐路付近で暫く観察していると、左へショートカットする車が非常に多い。ドライバーの間でかなり知名度は高いらしく、律儀に則貞交差点まで出て左折する車は殆どない。


ショートカット路が国道に接続される場所は押しボタン式信号になっている。接続箇所が横断歩道の設置位置と完全に一致しており一旦停止規制が出ているだけなので、押しボタン式信号の状態とは無関係にいつでも国道に出ることができる。

国道の交通量はかなり多い。信号がないので則貞交差点側からやってくる車の切れ目を見て自己責任で国道に出ることになる。もっとも片側2車線であるためラッシュ時以外はそれほど困難ではない。最悪、則貞交差点の信号が変われば国道の流れが遮断されるので確実に出ることができる。国道との取り付け部分が斜めだが、交点付近に建物がなく右側の見通しは良い。


注意すべき点は歩道の通行がかなり多い点である。車の切れ目を窺うよりもむしろ歩道の方に注意が要る。国道へ出るとき歩道の前で双方向の通行を確認するのはもちろんだが、歩道を塞ぐ形で待機しないよう配慮すべきである。小学校の下校時は左から歩道を歩いてくる子供たちが多いのでその時間帯は特に注意が必要だ。
スーパー白鳥
前項のマップで現在”ほっともっと宇部則貞店”になっている場所は、かつてスーパー白鳥が存在していた。

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《 則貞について 》
記事作成日:2016/5/27
則貞(のりさだ)は恩田の東に隣接する地域名である。国道を挟んで南北に分かれて1〜6丁目が存在する。
写真は国道に設置された則貞交差点の地名表示板。


国道を走ると則貞交差点とされる場所は複数存在することになっている。一つは則貞、2箇所に宇部市則貞と表記されていて交差点区別の役を成していない。

則貞は典型的な名田由来の地名である。この地に人が暮らし始めた頃は稲作主体で、生活を支える田の存在が地籍として最も重要だった。恐らくは領主および有力者が自分の支配の及ぶ田に命名したものが現在に至っているものと考えられる。地名明細書には同じ読みで乗貞(のりさだ)として記載されている。歴史的にみて則定と表記されたこともあった。

この漢字表記の「乗」につられて領主が田の徴税に関して馬に乗ったまま現地を視察した「のりさだめ方式」に由来するという説があるが、乗り定めの手法が歴史的事実だったとしても地名由来としては後世による付会と考えている。たとえ領主と言えども地名の由来として一私人の行動が根拠となる事例が殆どないこと、馬に乗って視察するという普遍的な行為がこの地に限定されて「のりさだめ」として伝わるのは困難と考えられるからである。純粋に名田であったものが現在に継承されたものとするのが妥当であろう。

名田由来の地名は五十目山辺りの忠治(ちゅうじ)があり、著名なところでは末信もそうである。このような由来を持つ地名は特に西日本に多い。

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