ここでは
市道上条金山線の派生的記事をまとめて収録している。
《 香川学園教育研修センター 》
記事公開日:2013/3/3
最終編集日:2020/10/23
香川学園高校(
旧呼称)のグラウンドから水路一つ隔てて鉄筋コンクリート平屋の割と大きな建物があり、香川学園教育研修センターと呼ばれている。
高校の名称自体に旧称を用いたことからも分かるように、以下の話は私にとって昨日のことのように思い出せる内容ながら、数十年前のことである。むしろ最近のことは全く分からない。ひとたびここから離れた後は完全に縁が切れた場所となってしまったからだ。
この建物が私にとってどういう場所であったかを一口で言えば、
ここで一年間、物凄い勢いで勉強した。
別途自叙伝でも著さない限り恐らくここでしか触れることがないだろうから些か詳細に述べてみようと思う。但しかなり冗長なのでご希望の方のみ以下のボタンを押すことで記事が展開される。
香川学園高校出身の私は、志望校の絞り込みという準備不足が原因で一浪状態となった。大学浪人自体はまったく珍しくも何ともないことで、彼らの受け皿として大手予備校が増え始めた時期だった。ただ、当時市内には未だ市内には予備校の分校もなく、小郡か下関へ日々電車で通わなければならなかった。
そんな中、香川学園高校は私立である強みを生かして自前の予備校という位置づけにもなる
「補習科」を設立していた。その拠点がまさにこの建物だったのである。
現役の高校3年生には市内近辺ではなく下関方面から電車通学していた生徒もあり、彼らは一浪後にはその多くが近場となる下関や小倉に研鑽の場を求めた。市内でも一部の生徒は大手予備校に向かった。
中には自宅で自学自習する「宅浪」も居るには居たが、よほど強い意志がなければ遊びに流されてしまうと言われており、市内在住の生徒にとって補習科は好適な受け皿たり得た。実際、当時補習科に通っていた仲間の殆どは市内在住の生徒で占められていた。
補習科に入部するにも国数英の試験が課せられたが、恐らくそれは生徒の習熟度をはかる目的であって篩い落としではなかった。
[a1]こうして周囲は馴染みのある顔に今までの教科の教師という環境でスタートした。
補習科に入って一番私を当惑させたのは、各教科担当の教師の態度だった…そう言えば如何にも志望校入学目指して軍隊の如く厳しく教育されたように想像されるだろうが、全く逆だった。現役時代は事ある毎に怒り、生徒の理解度の悪さを嘆いていた教師の多くが
信じられないほど丁寧で柔和な教育法を進めたのだ。去年までの同じ教師とは思えないほどで、良い意味で当惑させられた。
実際、教育法だけでなく昼休みや遅刻などに関する規律についても穏やかだった。欠席や遅刻に関してうるさく言われることは全くなかった。それで不利益を得るのは他ならぬ生徒自身だという事の他に、やはり正規の高校教育では出席日数や所定のカリキュラム消化など各教諭自身に課せられていたものが多かったからとも想像される。
どの場所であろうが私が現役の高校時代に関して殆ど言及しないことから推察される通り、
私の高校時代はまったくの「暗黒時代」だった。明白に健康を害するほど精神的にアタックされており、常に我慢と抑圧を強要された生活だった。それだけに同じ教育の場ながら、補習科はそれまでとはまったく違う楽園だった。殆どすべてが生徒の自主性に任されており、邪魔や否定的意見が割り込む余地がなかった。
[a2]
カリキュラムに追い回されることなく、自分のやりたい学習は何でもやれる環境に置かれて、私は心底勉強が楽しく感じた。
今まで分からなかった、出来なかったことが時間をかけて自分の中で反芻し、知識や経験という栄養素として取り込まれることに悦びを感じた。
文系・理系それぞれの志望大学・学科が異なるメンバーが混在していたので、受験で必要となる授業の枠のみに出席すれば良かった。そのため午後から来たり午前中で帰る場面もあったが、中間の枠に自分には不要な授業があったりする場合には廊下を挟んだ会議室が自由学習用スペースとして開放されていた。授業がなく午前中で帰るような場合もそのまま図書館に立ち寄り自習するメンバーも居たようである。
夏休みや冬休みはあったが、そのうちの数日を使ってよく模擬試験が行われた。志望校を書いておけば受験生全体のうちでどの辺りの順位に居て合格率をデータとして提供してくれる統一テストだった。業者は駿台、河合塾、進研が多かった。そういうテストがない日でも電車で通学するメンバーは登校して図書館や自習室で勉強していた。他の仲間から刺激を受けて勉強できること、生活習慣を崩したくないこと、定期通学なので登校してもしなくてもその分の交通費がかからないのが理由と思われる。
補習科時代の図書館での関わりについては以下の記事にも記述がある。
元から大学合格という共通の目的をもった向学心ある仲間だけが集まっているせいか、補習科生の団結力も強かった。本当に去年までの同じ学年の生徒とは思えない位だった。鼓舞し合える仲間と共に、私はまったく何の義務感も抱くことなく、時期の大学受験に即して自分に必要となる知識、あまり関係はないが興味あって自分のものにしておきたい知識も含めて能動的に自分の脳内へ詰め込む作業に専念した。
(
この時に基礎をやっておいたから専門外だけど理解できる…という分野が結構ある)
何を学習しても許される環境は、以前から興味はあったもののカリキュラムが詰まっている現役時代では触れる余裕すらなかった分野にも食指を伸ばすゆとりが出来た。現役時代、自分は英語が得意で数学がまるっきり理解できていなかった。そのため数学的分野に興味がありながら早々に文系へ仕分けられ、理系が学ぶべきカリキュラムは遠ざけられてしまった。私は現役時代からそのことが大変に不満で、別の高校に通っていた友達に数IIIの教科書を見せてもらったり、図書館で本を借りたりしていた。
(
当時理解できなかった数学の分野も現在は完璧に理解している…カリキュラムの進行が早すぎて追いつけなかった)
この過程で自分は本来文系で、その方面の大学へ進学すべき目標を立てていながら揺らぎができていた。数学の興味深い世界から切り離されるのが我慢できず、大学の受験勉強の合間に
「レクリエーション数学」なる遊びとも研究とも言えない娯楽に耽っていた。
(
当時の日記を見ても数学の話題で溢れている…一部は現在の自分が読んで理解できない内容がある)
翌年の私立大学の受験では、3教科の選択科目に国・英・数を選んで周りの受験生を呆れさせた。普通は国・英・社を選択するのが常道であり、文系なら点が取りにくくリスクが大きい数学を選択するのはまず有り得ない選択肢だったからだ。
その奇妙な選択科目での滑り止め私立大学合格は、その後の大きな自信となった。
(
大学の合格通知書だけは今も保存している)
補習科で過ごした1年間は、自分にとって高校3年間プラスアルファ分の価値があった。親には余計な学費をかけて申し訳なかったが、私の変わりようは親の目にも見えていたようで、補習科での一年は学習面だけでない大きな収穫があったことを認めてくれていた。何事につけてもおよそ認めることをしない両親だけに、このことは自分にとってその後の人生に大きく影響を及ぼした。
[a3]
めでたく県内の公立大学(
と言えば何処かは分かるだろう)に合格後、私たち補習生は報告を兼ねて何度か補習科を訪れた。各教科で尽力くださった教師の後ろ姿に触発され、自然と「今度は俺たちの手で補習科チームを作ろうぜ!!」など語り合った。俺は社会が得意だから社会担当、お前は英語担当だなどと…私たちの話の和に加わって満足げに頷いていた若き英語教師のことが思い出される。
横話から更に横へ逸れてしまうのを承知で記しておきたい…残念ながら
当時のM英語教師はもうこの世には居ない。弱冠30代前半で急性心筋梗塞で彼岸へ逝ってしまわれた[a4]のだ。大学の下宿生活が始まり、漸く少しずつ山口の空気にも慣れていた矢先だった。補習科の仲間の一人から得た急逝の情報は、本当に信じられない出来事だった。葬儀に参列し、最初は父親の死を理解できず無邪気にはしゃいでいた子どもが涙を流しながら遺影を持ってあの車へ乗り込む姿を見て、私もわんわん泣いた。人生の中で楽しく有意義な補習科時代にまつわる想い出の中で殆ど唯一、思い出すも心悼む出来事だった。
出典および編集追記:
a1. 当時、補習科の総括だったF先生からトップの成績で合格したことを告げられ、開校式のときに代表で学習を始めるにあたっての宣誓文のようなものを読むよう依頼された。
a2. 換言すれば、高校は人と違ったことをする人間は目障りなので格好のいじめの対象だった。もっともそれは中学生時代ほど酷くはなかったが…
a3. 大学入学後も引き続いて付属図書館で自主学習する生活習慣を持つようになった点に顕著である。
(ただし学部学科の専門的勉強はいっさいしなかった)
a4. 高校3年生のときの英語リーダーの担当教諭だった。課外クラブではサッカーを指導しており、生徒の蹴ったボールを胸に受けて最初の発作が起きたような話を聞いている。
現役時代は強面の教諭として知られており、私も敬遠していて殆ど話をしなかった。
補習科時代、大学の合格報告で集まったときM教師は最初にガツンと厳しく言って指導するよう意図していたと語られたことがある。当時の仲間の誰もが同じように敬遠しており、補習科時代の変貌も誰もが認めていた。その反応にM教諭は「そうか…そんなに怖そうに見えてたのか」と苦笑なさっていたのを覚えている。
現在も補習科としてこの建物が使用されているかどうかは分からない。もっとも今や完全な部外者である身であれば、敷地内に入る気は起こらなかった。
現在でも建物や敷地は香川学園の所有のようである。
(
もっとも一年前の撮影であり状況は変わっている可能性がある)
ここで過ごした短いが非常に濃い一年間は、紛れもなく我が人生の一部だったはずである。しかし今となってはあまりにも遠い昔の世界で、記憶は定かでありながらまるで他人の人生談を語っているようにも思われるのであった。
【 記事公開後の変化 】
遺憾ながらこの建物は2020年5月に取り壊された。取り壊し作業中の写真は記録されている。最終編集日時点でこの場所は更地となっている。
《 西宮八幡宮前の道標 》
西宮八幡宮の鳥居横、
市道藤曲2号線終点の接続部に道標が存在する。
西宮八幡宮の鳥居を正面から撮影している。
写真では標識に隠れて見づらいが、左側の道路標識の背後に設置されている。
主要な行き先が平かなで記されている。
90度左側へ回ってみた。
方角を示す指のマークがちょっと奇妙である。
更に90度左へ回っている。
道標自体は古めかしいが、指示先の朱色や文字が異様に黒々しく、読みやすいように後年色を加えたのだろう。
石碑自体新しいものとも考えられるが、設置された年月の部分については墨入れされておらず充分に判読できなかった。
【 記事公開後の変化 】
いつの時期かは調査を要するが、撮影した当時(2010年2月)には墨入れがされていたが、その後消去されている。現在も墨の入らない状況が長く続いている。
《 若盟結信會の石碑 》
現地撮影日:2012/4/17
記事編集日:2013/12/26
市道上条金山線の終点より少し手前、坂を下っていく途中の民家の庭先に古い石碑が建っている。
他人様の庭先にカメラを向けるのは憚られるのだが、これは個人の持ち物ではなさそうなので…
この石柱である。
側面に2ヶ所穴が空いていて、祭りの幟を立てるときよく使われるあれだ。
このときはこれ以上近づいて撮影はできなかった。
遙か昔、地元の有志たちが建てたもののように思える。もしかして上条と金山の境なのだろうか…
(
あちこちで見かけるこの石柱は何という名前なのか分からない)
横からみたところ。
幟を固定するためとみられる穴が上下2箇所に空いている。
昔のムラとなる境にはしばしばこのような石碑が建っているのでその一種と思われる。個人所有地内なので石碑を詳細に観察はしていない。
【 記事公開後の変化 】
現地撮影日:2013/12/25
記事編集日:2013/12/26
最近、この市道を通ったとき石碑の建っていた敷地の民家が解体され更地になっていることに気付いた。
更地状態になっている今は石碑の詳細を調べるのに好都合なので、今まで撮れなかったアングルからも撮影してきた。
側面に彫られた文字。
若盟結信會と刻まれているように思える。どういう意味なのかはちょっと分からない。
石碑の裏側を観ようとすると民家の庭先へ入り込むようになってしまうので今まで出来なかった。
そして調べてみたのだが…何も文字はなかった。
上部はやや鈍い四角錐状態に削られ、側面には丸い穴が2箇所あいていた。祭りのとき幟を固定するのに使われる典型的な石柱である。
結局、
この石柱の素性については相変わらず分からなかった。
今のところこの石柱について言及している文献に出会っていない。かつてこの場所に家を構えていた昔の人が何か思うところあって建てたのだろう。家が解体され更地になっていながら石碑は遺っていたので、次にここへ家が建ったときにもそのまま遺されるのではないだろうか。
《 金山について 》
金山(かなやま)はこの市道の終点に冠せられている小字である。同小字を含む路線として
市道崩金山線、
市道金山線がある。
古くから人々の暮らしがあった地と推測される以上、金山の名称の由来は今となっては決定的なことを言えない。表記から見れば「金にまつわる山」が想起される。砂金が産出していたのではないだろうかという想像が働くのは自然で、沢の奥には当時砂金を採ったとされる大きな窪地が存在するという。
[b1]
金と言えば霜降山(城山)に埋められた黄金の鶏にまつわる伝説が有名だが、この鶏は金山で得られた金によって造られたという。
[b2]古地図には黄金ヶ坪という溜め池が記載されている。実際にこの地でいつ頃どの程度砂金の産出があったのかは調査が必要である。金ではないが何かの鉱物が産出していた可能性がある。
宇部や藤山村では鉱物採掘というイメージがわきづらいかも知れないが、この周辺は昔から蛇紋岩が知られる。一部の蛇紋岩にはマグネシウムを多く含み金属光沢を持つものがある。鍋倉山の東側裾野では実際に試掘した痕が知られる。
派生記事の追記になるが、厳密には本路線の終点近くの小字は金山ではなく赤岸になる。金山が冠せられたのは大字だったからか、終点位置が当時違っていたなど別の理由によるものかも知れない。
【 他の場所にある金山について 】
金山という字名は市内の他の場所にも複数ある。著名な例として、丸尾原の字金山にある溜め池として
金山だんぼが知られる。ここに言うだんぼとは溜め池の義。読みは「かねやま」である。
(
藤山村に目立った「ダブ」との語義的関連性があるかも知れない)
出典および編集追記:
b1. 市道崩金山線走破時に出会った地元在住民からの聞き取りによる。現在は孟宗竹の侵入で原形が分からないかも知れないという。現地への接近は困難で、市道より窪地らしき地形を視認するにとどまった。詳しくは
移植公開された市道崩金山線の記事を参照。
b2. 同じく地元在住民からの聞き取りによる。
* 金山温泉は金山にではなく居能に存在していた。温泉源を掘り当てた人が金山在住であったために金山温泉と名付けられたようである。詳細は「
金山温泉の石碑」を参照。
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