2010年以前のデジタル画像

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項目記述日:2022/3/23
最終編集日:2024/1/31
ここでは2010年以前のデジタル画像と題して、最終編集日現時点で行われている画像管理以前に撮影された画像(動画を含む)についての個人的な歴史について記述する。

ここに言う画像とは自分で撮影したことが分かっているデジタル画像のみで、撮ってもらった後に譲り受けた画像などは含まれない。また、一連の画像は映像化記録フォルダや個人情報フォルダと同じロケーションに保存しており、終末処理後の継承対象外である。したがって撮影者である私が個別に承諾して提供したり画像コンテンツとして掲載する以外の画像が公開されることはない。
《 1999年(平成11年)の画像 》
初めてデジタルカメラを購入したのはこの年の12月上旬頃のようである。当時は既に自前のホームページを持ち、日記もホームページに公開していた。ただし記述は至って気まぐれで12月は4日の一日しか記述がない。

4日の日記の中に「取り扱いマニュアルを読み直しスマートメディアをセットしていつでも撮影可能な準備を整えていた」と書いている。このときは山口市内へ行く便があり、帰りに山口大学へキャンパスのイチョウを撮影しようと目論んでいたようである。しかし学生の姿が多く、結局3回生時の指導教官であった教授の研究室を訪ねるのみで一枚も撮影していない。

正確な撮影日が分からないが初めて撮影したと思われる画像は、自分の部屋で本棚を撮影したこの一枚である。


当時は既にホームページを開設し、気まぐれに公開日記を書いていた。日常生活ばかりでは退屈で、せっかくデジカメを入手したので画像を載せたい気持ちがあったらしい。どんな風に写るか試そうと適当に撮ったようである。後のファイル管理規則によりファイル名は2000年1月23日撮影のようになっているが、当時は整理したときの月日を元に分類していた。正確な撮影月日は(後述する日記資料により)12月5日であった可能性が高い。

初めて明確な撮影意識をもって外の景色を撮った画像は、12月12日に長門峡で撮ったこの一枚である。
原典画像を回転させることなくリサイズした画像を載せている


12月12日だけは日記とは別に写真付きのローカル記事を公開している。その中に以下の記述がみられる。
デジタルカメラなるものを購入して早くも一週間。その間我が室内の本棚を撮す以外にこれといった使い方をしてない中、やっぱり目的を持って『取材』に出ないと使う機会が見つかりにくいと納得。それで次の連休にでも‥と思っていたのでした。
そして長門峡・須佐・阿武町の道の駅テルメ阿胡を訪れている。「順番的にはこの写真を一番初めに撮った」と記述していることから、最初に屋外で撮った写真は上の中原中也の石碑だった。阿武町の道の駅まで遠出していながら、このとき撮影した写真は全部で12枚、保存されている画像は10枚しかない。未だフィルムと現像に頼っていた旧来の写真撮影スタイルから抜け出せていなかったことが窺える。

当時は撮影した画像をホームページで公開する使われ方が最も多かった。まだ光などの高速回線環境が普及しておらず、画像を掲載するには適宜リサイズし、更に閲覧者に負担を掛けさせないように本画像の前にサムネイルを配置するのが常識だった。(いきなり本画像を表示させるようなページは読み込みに時間がかかるため嫌われた)

現在手元に遺っている当時の画像の多くが、当時公開していたホームページからの逆輸入である。しかし長門峡などを撮影した画像は重要と感じていたのか、ホームページ掲載分とは別に1280×1024ピクセルの原典の状態で保存されていた。この当時のファイル名は「99+月(2桁)+日(2桁)+ファイル番号(2桁)」で構成される8桁の数字で行っていた。

まだカメラを持っていなかった時期に他人のカメラでこれより早い時期に撮った画像が手元にある。


この画像はリネーム処理されておらず、既定でファイル名に与えられる接頭辞(DSC)も FinePix1500 のもの(DSCF)とは異なっている。玄関に門松を飾ったのでカメラで撮っておいて欲しいと母に頼まれ、誰かからカメラを借りて私が撮ったものらしい。Exifのメタデータに1999年2月22日3:51という情報が記録されており、実際に撮影された時間とは明らかに異なることからこれより前に撮影されている。この情報を信頼するなら、この写真は自分の手で撮影した最も古いデジタル画像ということになる。

上の2枚を含めても1999年に撮影されたことが分かっている画像は全部で22枚しか存在しない。
《 2000年(平成12年)の画像 》
ミレニアムの2000年を迎えてデジタルカメラでの撮影に幾分慣れたのか、撮影枚数がかなり増加している。ファイル数は239だがリサイズされた画像や明るさ補正をかけた画像も混じっている。撮影対象の中に早くも常盤用水路厚東川ダムの画像が存在しているのは注目に値する。厚東水橋の写真もあり、どうやって現地へ行ったのかまったく覚えていない。

記録写真として価値がありそうなものとして、阿知須のきらら博に向けてドームを建設しているときの写真が撮影されている。
撮影日は2000年1月11日であった。


撮影対象としては現在でも同じものが撮影可能な花の写真がとても多い。また、女の子の写真が何枚もある。可愛いと思った女の子には躊躇なく写真を撮らせてもらっていたことが窺える。
2010年以前フォルダを公開対象にできない理由の一つである

当時は未だストレージ容量が十分ではなく、特に契約していたプロバイダのホームページスペースが10MBしかなかったので、それほど重要でない写真はPCに取り込んだ後軒並みリサイズして原典画像を削除している。リサイズされた画像は640×512ピクセル、原典画像は1280×1024ピクセルである。

1999年はファイル名を前述のような8桁の数字名にして管理していたが、同じ日に撮影枚数が100枚を超えるとファイル名が重複してしまう可能性があった。このことより、2000年からは「西暦年(下1桁)+月(2桁)+日(2桁)+ファイル番号(3桁)」に変更している。ただしホームページ向けにサムネイルを作成すると同じファイル名ができてしまうので、サムネイルのみは「月(2桁+20)」に変更するという複雑なファイル管理を行っていた。これは同じファイル名が存在していると、ファイルを移動させたとき品位の劣るサムネイルで本体画像を上書きしてしまう恐れがあるからだった。画像ファイル名は完全にユニーク(一意)でなければならないという原則はこのとき既に確立されていた。

画像ファイル名を8桁の数字に収めていたのは、当時の OS である Windows98 では長いファイル名をサポートしていたものの、レガシーソフトでは未だ半角8文字までしか扱えなかったことが大きい。[1]
《 2001年(平成13年)の画像 》
2001年には撮影枚数が急増する大きな出来事が2つあった。恩田町から野山への引っ越しと黒部旅行である。引っ越し写真の撮影は6月15日で、すべて原典画像の状態で別フォルダに保存している。ただし総撮影枚数は44枚で、同じ日に(菖蒲の時期だったせいか)常盤公園の菖蒲苑での撮影が混じっている。引っ越し関連の写真も永きにわたって暮らしていた2階の自分の部屋からの景色と家の周り程度で、各部屋を記録した写真が殆どない。16日に荷物の搬出を行い17日に明け渡しているようで、これ以後は自分で撮った室内の写真は存在しない。

黒部旅行の写真は10月29日〜11月1日の撮影で、89枚すべてが別フォルダに原典画像として保存されている。現在ではまったく物足りない枚数だが、当時は身の回りの写真を撮影するにはメディアの容量が足りないので、この旅行のためにわざわざ大容量のスマートメディアに差し替えている。

宇奈月温泉で撮影したこの画像は、旅行から帰った後に親父が自前のプリンターで印刷して額縁に入れて飾っていた。


引っ越しに並行して野山の家の建設が進められている。このとき建築中だった家の中や外観を撮った写真が存在する。
《 2002年(平成14年)の画像 》
恩田から野山へ引っ越して新しい生活が始まった時期であり、関連する写真が目立つ。
時間をかけて野山周辺の写真を撮ったことがあるらしく、幼少期に水遊びして転落した想い出のある道々滝へ行って写真を撮っている。


上の写真から次の3枚目は県道西岐波吉見線の道路を撮るなど撮影頻度が極めて低い。その間に撮った筈の2枚の画像は削除したらしく存在しない。

この他にはバドミントンなど当時の人間関係を反映した写真が多い。同じ2002年フォルダに去年の黒部旅行の画像をリサイズされた画像が保存されているが、恐らくホームページで公開しようとしてコピーしたものと思われる。これを除いて2002年の撮影枚数は124枚である。
《 2003年(平成15年)の画像 》
収録枚数は142枚だが、一部に他者のカメラで撮影して原典画像を送ってもらったものが混じっている。

特に見るべき画像はないが、常盤公園のときわ丸がまだ存在していた時期にボンネットモンキーとヤギが混在した状態で飼育されている時期の撮影がある。


他には改修前の噴水池を撮った写真程度しかない。
《 2004年(平成16年)の画像 》
撮影枚数は僅か41枚しかなく、その殆どがバドミントン関連である。
《 2005〜2006年(平成17〜18年)の画像 》
2005年撮影画像が3枚、2006年撮影が14枚しかなく、そのすべてがブログやホームページに掲載していた画像からの逆輸入である。外の景色を撮った写真は一枚もない。

この原因は、恐らく「過去最悪規模のハードディスククラッシュ発生!!」により喪われたためと考えられている。[2]その後、例えばバドミントン動画は別のハードディスクへバックアップ済みだったものが見つかるなどもあり、保存していた100%が喪われたわけではない。

それでも「撮った筈なのに手元にない」画像がかなり存在する。野山の家の横にある溜め池の排水効率を高めようとして、親父がミニバックホウをレンタルして堰堤を掘削したとき最初期のものと思われる2つ割りにした丸太を合わせて拵えた木樋が掘り出された。このとき親父が知らせに来て、間違いなくカメラを持って撮影している。この写真が外付けハードディスク以外に使っていた外部メディアの何処にも見つからないので、このハードディスククラッシュで喪失したものと推測されている。
《 2007年(平成19年)の画像 》
撮影枚数は61枚。バドミントン関連や当時収集していた駄菓子や甘い系乳飲料紙パックの写真が殆どである。
《 2008年(平成20年)の画像 》
撮影枚数は1,219枚と急増している。この年の半ばに大きな動きがあった。

9月までは前年と同様にバドミントン関連と駄菓子の接写が多かった。別のところでも書いているように、常盤屋と呼ばれるこのクラブは私の運営だった。すべてのコミュニティーにはかならず寿命があるように、私が造ったこのバドミントンを元にしたコミュニティーも既に最盛期を過ぎていた。そう感じるだけの兆候がいくつもあり、最終的におそらくこの近辺に起きた出来事によってクラブの解散を宣言した。この経緯については「常盤屋の歴史に幕が降りるとき【上】」に書いている。

クラブ解散に伴い、毎週日曜日に自分の時間が戻ってきた。体力作りの必要性は感じつつもおよそ人間関係に疲れ切っていたため、誰にも影響されず自分独りで愉しめる新たな余暇を創り出したいと思った。そこへ来て以前から乗り回したいと思っていた自転車は最適解だった。自宅には自転車がないため、まずはインターネットで安い自転車を購入した。

9月21日に注文していた自転車が野山に届き、25日に試し乗りで近くの山陽本線踏切まで漕いで写真を撮っている。


これ以降、厚東川ダムや工業用水道など自転車の射程距離にあって以前から行ってみたいと思っていた場所まで自転車を漕いで撮影するようになった。従来公開していた日記を載せるホームページは引っ越し後に閉鎖していたので、撮った写真はYahoo!ブログに記事を書いて掲載していた。

自転車の購入が大きなきっかけとなったのは確かだが、それ以前でも例えば7月上旬に宇部丸山ダムの写真を撮り記事を書いていることから、現在のような郷土探索活動は当時読んでいたローカル探索関連のホームページやブログの影響が大きい。

なお、この記事を作成している最近のこと2010年より前の画像は基本的に別管理とする方針に変更し、従来の物件フォルダへ保存していた2008年撮影のすべての画像をここに戻している。
《 2009年(平成21年)の画像 》
撮影枚数は更に増加し、正確には把握しきれていない。初期に2009年フォルダへ差し戻した画像だけで1,138枚あり、未だ物件フォルダへ散らばった状態で保管されている画像が相当数ある。

この年の3月より野山を後にして西梶返のアパートへ単身で引っ越した。理由はいくつもある。収納関連の業務は市街地近くが拠点であり週に2回市役所へ行くのに野山では遠いこと、インターネット回線の高速化が進んでいる中でダイヤルアップ回線以上のサポートがなされる目処がないこと、自転車での郷土探索活動で一通り自転車で到達可能なエリアを行き尽くしたことによる。

アパートは光回線が利用できるエリアなので、ダイヤルアップの鈍足回線からネット環境が素晴らしく改善された。市街部なので買い物の利便性が高く、特に平坦地であることから自転車による活動が加速した。郷土探索活動の加速は些か後付け的ではあるが、この引っ越しがなければ現在の活動を始めるのにもう少し時間が掛かっていたことが確実だった。

2009年撮影の画像は枚数が非常に多いため、当初は移動しないままだった。しかし8ケタ数値のファイル名の2009年画像を混在させると管理が困難になること、ホームページなどで2009年以前の画像を用いる機会が殆どないことから、2023年末よりすべての画像を2009年フォルダへ順次移動している。後で検索するとき探しやすいように2009年フォルダ配下に物件名の10のカテゴリに相当するサブフォルダを作成し分類している。特に枚数が多いものは、セクションに相当するサブフォルダも作成している。
《 2010年(平成22年)およびそれ以降撮影の画像 》
前述のように、初期の画像管理では8桁の半角数字で行っていた。2010年に入って下1桁の西暦年数がゼロとなり、従来の管理では2000年撮影の画像とファイル名が重複する恐れがあった。

この時点で殆どの OS およびソフトウェアで半角8文字相当を超える長いファイル名をサポートするようになり、ファイル名を半角8文字に限定する理由がなくなった。このため2010年からは「西暦年(下2桁)+月(2桁)+日(2桁)+ファイル番号(4桁)」の半角10文字相当に変更された。

画像のファイル名については、このときの策定以来変更されていない。西暦に関しては、今後2110年から撮影された画像はこのファイルシステムでは2010年撮影の画像と重複する可能性がでてくる。また、一日に撮影された画像が一万枚を超えた場合も同一名のファイル名が発生する。

そのどちらも発生したことはなく今後も起きる可能性が殆どないため考慮されていない。むしろ西暦2110年にはファイルシステムの概念自体まったく変化していて昔のリソースがアクセス不能になっているかも知れない事態を心配すべきだろう。(→石に刻むしかない問題
出典および編集追記:

1. OSの上では長いファイル名に対応して表示するが、旧来ソフトとの互換性を維持するために短いファイル名も自動生成される。例えば「longfilename.txt」というテキストファイルを作成したとき、レガシーソフトでは「longfi~1.txt」のようになる。通常使用する間は問題は起こらないが、OSの不具合でセーフモードでしか起動できなくなったとき長いファイル名(特に日本語のような全角文字を含むファイル・フォルダ名)を付けていると作業が非常に面倒になる。

2. 外部ブログ記事の追記で「ハードディスクを分解・粉砕して荒ゴミとして出す」と書いているが、実際にはこの外付けHDは廃棄されることなく段ボール箱へ保管されている。当時も現在もアクセス不能になった外付けHDからデータを取り出すサルベージには法外に高い料金が求められるが、将来的にサルベージ技術が進化したり同様のサービスを提供する主体が増えてくれば競争原理が働き、現在よりも安価で利用可能になると予測されたからである。
物理的に全く読めなくなるほどのデータ破壊が起きることは稀なことが分かっている

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