市道吉ヶ原線

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記事作成日:2022/1/10
最終編集日:2022/1/11
市道吉ヶ原(よしがはら)線[1]は、二俣瀬区善和の下善和バス停より西に伸びる沢地を遡行する市道である。
写真は起点近くにある印象的なカーブ。先方に吉原集落が見えている。


現在の経路を地理院地図に重ね描きした画像を示す。は起点、矢印は終点を表している。
経路のGeoJSONデータは こちら


吉原川を遡行していき最後は県道西岐波吉見線の立体交差部にあるボックスカルバートで終点となる典型的な行き止まり市道である。立体交差となっているため本路線では県道に抜けることはできない。ただし県道が整備される以前からあった持世寺へ抜ける道を経由して、県道まで出ることは可能なようである。
ただしその経路はまだ実地に検証されていない
《 概要 》
起点は国道490号の下善和バス停を過ぎた先にある。


本路線へ入ったところから反対側を撮影。
山陽本線を横切って善和八幡宮に向かう参道がある。


アスファルト舗装されているが、幅員が四輪一台分しかない。もっとも通り抜け先がなく専ら地元在住者が通るだけなので、適宜余剰地を使って離合している。冒頭に示したように北側の尾根の下をたどるような経路で、民家は道と同等か一段と高い場所にある。

カーブを過ぎた先の右側に、民家の庭先へ入ってしまうような枝道がある。


この道は吉原川より一段と高い北側の沢地に向かう農道である。耕地字でありかつて人が住んだ履歴は恐らくないが、この奥の田畑には尻組という小字名が与えられている。謎めいたこの地名の由来は分かっていない。

沿線の最後の民家近くに、剥き出しの土肌に金網が被せられている場所がある。


これは善和地区全体の地質をよく現している。霜降山にみられるような風化した花崗岩なのだが、粘土質がやや少ないせいかぽろぽろと崩れやすい。結着性が弱いために運動場などに敷き均す真砂土として良好であり、付近にはいくつかの土取り場がある。他方で雨裂を生じやすい地質で、持世寺川のように土砂流出防止対策地域となっているエリアもある。先述の尻組に向かう農道沿いは斜面の崩落が著しい。

一番奥の民家から先になると、沢地の幅が狭まり登り勾配がややきつくなる。
道と吉原川が絞り込まれて狭い場所を通る場所に差し掛かる。


この場所は本路線中で一番縦断勾配がきつく、吉原川は数段の滝となって流れ落ちている。周辺の小字から短いがややきついこの区間を道々坂、吉原川を流れる滝は道々滝と地元民によって呼ばれている。道々とはこの辺りの小字名である。

道々滝を過ぎた先で吉原川は道の下をくぐって異なる沢地へ向かっている。
やや登り坂が緩くなった先で、吉原川の上流と同じ方に向かう枝道がある。写真は終点側からの撮影。


この道は吉原と持世寺を結ぶ最初期の経路である。この先で県道西岐波吉見線のボックスカルバートをくぐった後に県道まで出る経路がある模様。かつてこの場所は十字路で現在の善和交差点付近へ出る道があるらしいが、いずれも未だ充分に調べられていない。

市道自体はそのまま直進してボックスカルバートに到達する。この上を県道西岐波吉見線が通っている。


ボックスカルバート自体は昭和40年代に県道の前身である霜降山登山道を整備したときのものだが、その上部はアップダウンを緩やかにするために後年盛土している。ボックスカルバートは内壁の剥落が至る所にあり経年劣化が著しい。

ボックスカルバートを出たところが本路線の終点である。これより先は未舗装路の同じ幅の道が伸びているが、宇部工業(株)の所有地である。
《 近年の変化 》
・2009年に本路線が終点までアスファルト舗装された。それ以前はボックスカルバート手前はその先の私道と同様な未舗装路だった。雨のたびに土が流れるため舗装したようである。ただしこの時までに道々滝横の練積ブロックは施工されていた。

・2012年4月から5月にかけて集落沿いの側溝工事が行われ蓋が掛けられた。時系列記事には側溝工事中の写真が記録されている。

・2021年までに本路線最初のブラインドカーブにあったカーブミラーが新しいものに取り替えられている。以前は支柱が角張った旧式のものだった。また、恐らくほぼ同じ時期に道々滝の先にある倉庫横の田が小規模のソーラー発電所に変わった。

・2022年1月に最新の写真を採取し、このとき吉原地区のお二方に沿線の農道や終点から先にある道や土地の所有者について情報収集した。
起点から終点付近まで徒歩で撮影した詳細レポート。全2巻だが後半部分には市道ではない部分も含まれている。
派生記事: 市道吉ヶ原線【1】
出典および編集追記:

1. 認定市道としての名称であり、集落のある地名は前項に書いた通り吉原(よしはら)である。
《 個人的関わり 》
この道の通行自体には関わりがないが、幼少期よく遊びに行っていた従兄弟の家が集落内にあり、本路線と並行して流れる吉原川の上流へ学童期に何度か水遊びに行った。

野山からも自転車で行ける程度の距離にある。近年は学童期の想い出を掘り起こす目的と野山周辺の題材を把握しておく目的で枝道を含めた写真撮影に数回訪れている。
《 吉原について 》
吉原(よしはら)とは、大字善和に存在する地名である。現在の居住域で表現すれば下善和バス停より西側の川沿いにある集落が中心で、字吉原そのものの所在地および範囲としては、国道490号下善和バス停から吉原川の両岸を含む沢地の中ほどまでを指す。南側は昔からの小さな里道を挟んで向吉原、下吉原、消防器庫のある辺りまで上吉原となり、上吉原の善和川を挟んだ対岸は東上吉原となっている。派生小字を含めると吉原の範囲は善和バス停から下善和バス停までの流域となる。
交通の要所である現在の善和交差点は字名では中屋敷である

地名明細書では吉原とは善和村に存在していた15の小村の一つで、吉原小村配下には尻組、道々、鳥越とその配下にある小名である滑ガ浴が存在する。現在ではその名を冠した構造物などは殆ど知られておらず、地下の長老や高齢者の記憶に保持されているのみである。市道の路線名としては、市道路課の所有する台帳に市道吉ヶ原(よしがはら)線と記載されている。ただし今のところ現地在住者からの会話では「よしはら」以外の読みは聞かれていない。

吉原は地名としては地勢由来の典型例である。歴史的な歓楽街として知られる吉原もそうであったように、葦の生える原であったという植生に由来を求めるのが妥当であろう。葦(あし)は「悪し」に通じるので、一般名詞でも葦簀(よしず)のように「良し」に言い換えられている。他地区にみられる同じ読みを含んだ吉見、吉田などもすべて葦に由来する地勢と考えられる。

,以下の理由により、吉原は後の善和という村名の原型になったと考えられる。
(1) 吉原川沿いに集落が連なり中心地と考えられること。
(2) 集落沿いの道筋の東側に善和八幡宮が存在していること。
(3) 吉原は「よしわら」の転訛読みから善和に通じること。
集落は県管理の善和川の支流である吉原川(鳥越川)沿いにあり、これより低い位置を流れる善和川よりも引水が容易であったため早くから田が拡がった。現在でも多くの田畑が耕作されている。この道筋の反対側に善和八幡宮の参道があり、勘場や善和尋常小学校も吉原の南に隣接する中屋敷に造られていた。

間地論争は善和村の誕生に直接結びつく歴史的事件である。善和という村名は人為的に造られたものだが、元から吉原と呼ばれていた地名を転訛させて「善く和せよ」という意味づけを与えたものと考えられる。広島県廿日市に編入された旧吉和村も境界争いの話を聞いている。一部の書籍で、善和を吉和と誤記したものが知られる。

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