日記の歴史

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記事作成日:2022/2/1
最終編集日:2022/2/5
ここでは、私の手元に今もある日記の歴史について詳述している。
写真はすべての日記が保存されている段ボール箱。持ち運び可能な箱へ移し替える作業の最中に撮影。


日記はB5版大学ノートへの手書き分が数十冊、後年ワープロを使って作成し印刷して製本したものが数冊、その他に書く暇がなかった時期に日記の台帳として使っていたメモ用ノート2冊などから成る。広義にはインターネット時代以降ホームページで公開していた日記も含む。

ワープロ時代以降の日記はデジタルデータであるため、テキストファイルに変換するなどしてバックアップされている。手書きノートは現物しかなくバックアップはされていない。以前は大きな段ボール箱へひとまとめにして保管し、火災など有事の際に最優先で搬出するよう取り決めていた。引っ越しの際には常にこの箱を最初に部屋へ運び込む習慣がある。

以前は恩田からの引っ越しのとき宅配業者に支給された大きな段ボール箱へひとまとめにしていたが、独りで抱えるのも大変なほどの重量なので、近年両手で抱えられる段ボール箱へ記録時期毎に分割保管した。大掃除のとき箱を移動したりたまに中をチェックする程度で、日記を読むことは現在では殆どない。

この総括記事を作成している現時点では日記を書いていないが、何事につけても記録を取ることが好きなので、今後再開する可能性はある。今のところ日記を代替する形でホームページの記事制作やFBページ運営での記述に充てられている。
《 日記を書き始めた理由 》
後述するように、まとまった形での日記の書き始めは正確に昭和52年5月28日である。 写真は最初の日記部分。


この日以前でも学校の自由課題で作成したもの(勉強日記)や作文、旅行記、旅行時のメモ書きに近い日記もあるが、何らの要請をされることもなく自発的に書き続けたという点でこの日を基準としている。

一般に日記を書き始める上でもっとも選択されやすいのは年明けであろう。「今日から毎日かならず日記をつける」と決心して元日から書き始めたものの、三日坊主で終わって最初の数ページのみ文字で埋められた日記帳がよく語られる。最初の日記が誕生日や元旦ではなく、何の特異性もないように思える5月28日であったことは、紛れもなくその日に日記を書き始めるに値する当時の自分にとって衝撃的な出会いがあったからだった。
【 何故5月28日なのか 】
5月28日という一見中途半端な日から日記を書き始めたのは、学校の図書館で借りた一冊の本の影響である。その本は冒険家の堀江謙一の手記を元にした「太平洋ひとりぼっち」だった。当時の自分としてはよほど衝撃的だったらしく、その後に5月28日を迎えるたびに当時を思い起こす日記を書いているので、今でもどういう経緯で日記を書き始めたかがよく分かる。

「太平洋ひとりぼっち」は、航海中につけていた日記を元に制作されている。航海日誌は一般的なものであり、今となっては特異性はない。しかし当時の自分は日記と言えば交換日記以外思い付かず、交換日記は女の子同士でするものだから男が日記を書くのは恥ずかしいことという固定観念があった。

太平洋ひとりぼっちの元となった手記は、当然ながら男性が書いたものである。辛く苦しい筈の航海を日記でユーモラスに表現していることに興味を持った。航海中の洋上は話し相手も居ない独りぼっちであり、日記は誰に読ませるためのものでもない。それでありながら読んでいて他人を笑わせる要素が多く、面白おかしいものを是として受け入れている自分に強い共感を生んだ。そして男が日記を書いても少しもおかしくはないと確信し、次に自分も同じように書いてみたいと思った。この衝動はよほど強かったらしく、本を借りて帰った翌日[1]丸信恩田店(現在はアルク恩田店)まで自転車を漕ぎ、そこでビニールパックされた3冊100円の無名のノートを買って帰った。そして何らの前置きもなく5月28日当日のことを書いたのである。[2]

このことについて初めて日記上で明らかにされたのは、ちょうど一周年を迎える昭和53年5月28日のことだった。
当時の日記にそのことを書いた部分がある。


後述するように、日記は複数回の中断を挟みながら長期にわたって続いた。その大きな2つの要因は元から文章を書くのが好きだったこと、借りてきた本を読んで感銘を受けただけでなく自分も同じことをしたいと感じて即座に実行したことにある。文章を書くのが好きという素地は、小学校中学年時代に既に醸成されていた。
言うまでもなくこれは現在の視点による評価であり当時の自分は違うことを考えていたかも知れない

日記を含めて記録(記述)を遺すことの重要性を再認識し、以前から認識されていた日記書き始めの5月28日を執筆記念日と命名し直した。日記をつけていない今でも毎年この日が来ればかならず思い出す。今思えばそれほど自分の人生に甚大な影響を与えた事象の始まった日であった。

初期の日記は大学ノートに鉛筆書きだったが、使用するノートの変更や筆記手法の変化によりいくつかの区切りがある。以下では主要な区切りごとに概説している。
《 昭和52年5月28日〜昭和54年6月末 》
当時の標準サイズであったB5版の大学ノートを使い、最上行に月日と曜日と天気を書いている。
写真は最初の5冊。


記述内容は殆どが家や学校の出来事だった。初期はすべて鉛筆で書き、後にシャープペンシルを使っている。言葉だけでは説明しづらい部分は複数行を使ってイラストを描いたり、場合によってはレシートなどの資料を貼付している。後で消せないのが嫌だったのかボールペンなどで書かれた部分はない。一周年を迎えてからは日々の記述にタイトルをつけるようになった。これは後から何を書いたか探すとき分かりやすくするためだった。

初期には学校へ持っていって昼休みに書いていた。中学2年生のときクラスの悪友に日記を取り上げられ、好きな女の子のことを書いた部分を読みふらしながら教室を走り回る悪行に見舞われてからは決して学校に持っていかなくなった。ただし従兄弟の家へ泊まりに行くときにはかならず持参していた。日記を書いていることは従兄弟も知っていて、影響を受けて書いたと思われる日記が手元に存在する。
従兄弟と対談しつつわざとその日記を面白おかしく読んでいるところを録音した磁気テープが存在する

この時期の日記は日常生活の面白おかしい出来事が多く、友達の悪口や恋心を打ち明けるような内容は少ない。これは最初に読んで日記を書くと決めた「太平洋ひとりぼっち」の影響である。その他にも堀江氏自身が手記で「嵐の時化で具合が悪く息も絶え絶えに近い状態でも毎日欠かさず書いた」と述べているように、当時の自分も書き続けることを特に重視していた。この期間の日記は概ね書き始めた一冊目と同じノートを使っている。

冒頭の写真のように、最初の9冊は水性ペンで収録年月日やタイトルなどを描いている。「或る記録」というタイトルにした理由について日記一周年に記述がみられるので、そのときまでに彩色を施したようである。
【 ノートの変更と日記の中断 】
昭和53年の後半になると、最初に丸信恩田店で入手したノートが手に入らなくなった。まったく同じデザインのノートがズラッと並ぶ状況に憧れていて安易にノートを変えたくなかったが、何処にも売っていないと知って当時もっとも一般的だった極東のステッチレスノートに切り替えている。二度とノートを変えなくて済むように大量に購入してストックしていた。[3]

こうして昭和53年はすべて書き通しているが、2年後の昭和54年6月末で途切れている。この日は私の誕生日であり、それが中断の最大の要因であった。多くは語らないが日記をつけるよりもずっと重要で有頂天になるイベントがあったからと推察している。

その後、夏休みを挟んで昭和54年の暮れまでに中学生の自分が受け入れるには困難な人生の波乱があった。誕生日の頂点から奈落の底へ墜ちる程の波乱で、まず人間関係の崩壊から極度な人間不信に陥った。次にそれを理解しようとしない学校教育への不信から、真面目であった筈の生徒から一転して反抗的な態度を取るようになった。学校での理解者をほぼ欠く孤立無援状態となり、高校受験を控えた大事な時期ながらやがて絶望を感じるようになった。人間不信状態を知る人の勧めから宗教に拠り所を求めたのもこの頃である。

真面目で品行方正な生徒が突然に不良同然の態度を取るようになれば、普通の教師なら何かのシグナルを発していると察知する。あいにく当時の学校教育は生徒の心をケアしサポートする体制はまるで出来ていなかった。日記をつける心穏やかな状況に程遠く、後の日記ではこの時期を第一暗黒期と書いている。ただし荒れていたのは学校内に限定したことであり、家庭環境の要因はまったくない。
《 昭和55年1月1日〜昭和55年3月頃 》
昭和55年になると、再び正月から日記を再開している。
このときの記録ノートは大量購入してあった極東のステッチレスノートだった。


高校受験という課題が目前にあり、いつまでも対立し続けるよりも目先の同じ闘いに注力すべきという考えに依るものだった。この和解を通じて再び元の温厚な生徒へ戻る手のひら返し的振る舞いを更に超えて、模範的に振る舞うように努めた。ただし学校教育に対する信頼は既に取り返しようもないほど崩壊していた。
一連の出来事は後に学校教育から距離を置いた独自の教育理念の土台となった

公立受検が控えているからと言って日記を書く暇がなかったとは思えない。しかし卒業する頃には再び日記を書かなくなっている。高校進学への準備など慌ただしかったことにも依るが、新しい高校生活が極度なストレスを与えていたと思う。ここまでの日記を自分の中では 第I期 と分類している。
《 昭和55年5月28日〜昭和59年5月27日 》
高校一年生になって迎える執筆記念日より再び日記をつけ始めている。日記ノートは第I期末から使い始めたものと同じベージュの極東ノートだが、日記再開の初期の記述は、それまでのものとはまるで違った重苦しい雰囲気に包まれている。

日記には学校生活に馴染めず、生の苦悩をそのまま書き連ねている部分が多い。実際(随所で話しているように)高校生活は有機的な人間関係を築くことができなかった。大学進学に重点を置いた進学校なので、勉強以外の殆どすべてのことは軽視または無視された。理解の遅い生徒は放置され、軟弱な生徒は格好ないじめの対象にされた。生きている意味や目的を喪失した状態であることが分かる記述にあふれており、この意味で後年第二暗黒時代と表現している。すべてを受け止めてくれる対象は日記以外何もなかった。

そのことは自覚していたようで、後に随所で「多くの高校生が普通にすべきであった体験を私は何一つせずに過ごしてきた」と述懐している。何も記録しなければ自分は何処にでも居る虫けらのごとき儚い人生を終えてしまいそうだという観念に駆られて書いていた空気が読み取れる。文字数と冊数を積み上げることにのみ意義を見出していたと言えなくもない。

全体的に暗い記述が目立ち熟読する価値に乏しいため、この時期の日記ノートを開くことは皆無である。読み返せば当時の嫌な思い出が再生するだけなのでほぼ封印している。ただし後述するように高校を卒業して同校の補習科へ入ってからは状況は一変した。
《 昭和59年5月28日〜昭和63年6月4日 》
前記から連続していてノートの種類のみ異なっている。
極東のステッチレスノートは同じだが、デザインと表紙の色が改訂された。


日記に使うノートを統一したい気持ちは初期からあった。ある程度日記が続くようになってからは極東のステッチレスノートを買い溜めていた。それも全部を使い切った後このノートが市内で見つからなくなった。

高校を卒業した後、商品の回転が遅い学校の購買部ならあるかも知れないと思ってわざわざ高校の購買部へ行って在庫がないか尋ねている。そこにも既に在庫はなかったが、規格は同じで表紙が薄い青緑色のデザインに変わったことを教えられた。そのノートは最近新しく切り替わったばかりなのでこの先当分は変わることがないと聞いて、自転車で持ち帰ることが可能な冊数ほど大量購入している。このため大学生になってからも手書き時代の最後まで同じノートを使い続けることができた。

抑圧された高校時代に対し、大学受験に失敗した後に通った同学校の補習科では人間関係から学力まで素晴らしい開花をみた。補習科の一年間は大学受験のための勉強だけでなく、今まで興味はあったけれども学校のカリキュラムが早過ぎて理解しきれていなかった分野の再学習モチベーションが高まった。文系だから不要とされていた数IIIカリキュラムを図書館の本で学び、化学では有機化合物に関心をもった。この分野に関する基礎知識はこのとき培ったものである。特にレクリエーション数学はその後の学習や教育手法に大きな影響を及ぼし、大学時代の日記は殆どがこの結果報告や考察で埋め尽くされている。

なお、この時期の日記は当日書かれたものとは言えず、取りあえずノートにその日のことをメモして後書きしている部分が多い。
写真は大学時代にメモ書きとして使っていたノート。


一日も途切れてはいけないという観念があってメモ書きから遅れた日記の”借金を返済するように”まとめて書いている。それでも数ヶ月も遅らせて書いている部分は恐らくない。

このデザインの日記は手持ちの中でもっとも長く続いており、昭和63年6月4日を書きかけた途中で終わっている。教育実習十日目というタイトルで書きかけているので、日々の実習で授業のための下準備が忙しかったようである。
《 昭和64年1月1日〜平成3年4月30日 》
昭和64年元旦より日記を再開している。周知の通り年明け直ぐに天皇崩御があり1月は一週間のみ昭和64年で1月8日からは平成時代となった。
写真は昭和最後の日というタイトルで書かれた当時の日記。奇妙に下側のラインが揃っているのはテンプレート書きをしていたことに依る。


手持ちの日記を精読していないため、どんなことを書いているのか、何故中断したのかは調べられていない。ここまでの手書きノート時代を II期 と書いている部分がある。

II期以降、日記を書く上で大きな変化が起きており、以下はその区分に従って記述する。
《 ワードプロセッサー時代(1992〜1998年) 》
平成期に入るとワードプロセッサー(以下「ワープロ」と略記)なるものが出回り始めた。叔父さんから借り受けて我が家へ持ち込まれたものが初見で、手で書く代わりにキーボードを押して漢字に変換できるという優れものだった。機種は SHARP の書院シリーズで、液晶画面で3行しか表示できなかった。

それでも何とか使いこなして楽に日記を書けるようになりたいという気持ちが強かった。シャープペンシルを持って書くのは遅いということの他に、長時間筆記用具を握り締めて書き続けるせいでペンだこに悩まされていたからである。特に右手親指の腹の部分が酷く、皮膚が角化してしまいにはペンを握るだけでも痛みを感じるようになった。些か乱暴な話だが、日記を書く前にカッターナイフで厚くなった右手親指の皮膚を削るのが常態化していた程である。

やがて親父が新しいワープロを購入して仕事で使うようになった。キーボードを押さえるのは一本足打法で速度はでないが、手書きよりも綺麗に仕上がるのが魅力的だったのである。大学生になって入手した中古のパーソナルコンピュータ(以下「PC」と略記)でもその気になればワープロと同じことができたが、専用のソフトが高価な上に起動まで時間がかかり過ぎた。ワープロはスイッチを入れて使えるようになるまでが早いし、書いた文書を記録するのも容易だった。

幸いワープロに触れるまでにPCを扱い、キーボードを見ずに入力するブラインドタッチ(現在では「タッチタイプ」と呼ばれる)が出来るようになっていたので、暫くの間ノートとワープロを並行する移行期間を経て最終的には完全にワープロで日記を作成するようになった。作成した日記はフロッピーディスクに保存し、必要に応じて印刷した。このフロッピーディスクはデータが入ったまま現存する。

印刷の都度新しいインクリボンを使っているとコストが嵩む。裏返して逆送りにしても読める程度に印刷できるのを利用して、再生紙に印刷された後で糊付けしている。
写真は印刷され糊付けされた日記。


当時使っていた書院シリーズのワープロは一行の表示文字数が全角40文字相当で、それよりも一行が長いと横スクロールが発生し読みづらくなってしまう。このことから自然に全角40文字で改行するようになり、後には更に読みやすくなるように40文字目がきちんと文節で区切れるように文書作成する第二禁則処理というマイルールを課すようになった。このルールは、当時家庭教師で担当していた生徒向けに配布した数学見聞録でも踏襲されている。

後年、PCの機能が向上してからはワープロは衰退していった。後述するホームページ時代に入った後で欲しいという人にワープロを献上することになったので、書院シリーズの機能を用いてフロッピーディスクに保存していた日記を MS-DOS のテキストファイルに変換し書き出す作業を行っている。したがってワープロはもう手元には存在しないが、この期間の日記はテキストデータとして完全にバックアップされている。
《 ホームページ時代(1999〜2005年) 》
ワープロ時代が終焉しPCでの文書作成が普及してからも、まだインターネットは現在ほど一般的ではなかった。暫くスタンドアロンな環境で日記を作成していたが、プロバイダへ加入してインターネット環境を手に入れると、一個人でも世界へ向けて情報を発信できるようになった。このとき加入したアーバンインターネットで取得した standard なるアカウントは、後に短縮され永きにわたって私のハンドルネームとなった。(→すた

ホームページの開設は何も公開日記のためではなかったが、程なくして日記をホームページで公開し始めた。この日記は1999〜2006年のものが存在する。
画像はローカルPCに保存されている当時のホームページ日記のタイトル部分。


詳細は調べられていないが、1999年の元旦よりワープロで日記を書くのをやめてPCへ移行したようである。ホームページで公開していたことから内容には他人に見せても問題ない穏当なものが多い。毎日書きたいという気持ちがあったようだが、日付のみで何も書かれていない部分がかなり存在する。紙媒体に印刷されたことは一度もない。

この日記は2006年6月まで収録され唐突に終了している。止めた理由は明確には書かれていないが、2006年の日記創立記念日にあたる5月28日では「従来方式の日記に限界を感じて」というタイトルで、別に運営しているブログに相応な閲覧者数があるということを書いている。翌月の日記は殆どが歯抜けなので、ブログに注力したからかも知れない。

ホームページ日記は更新されないまま公開状態で放置していたが、2009年に野山を出て西梶返アパートに引っ越した折りにプロバイダを解約したためネット上のホームページは消失した。
《 その後(記事作成時)の状況 》
ホームページ日記時代から既にかならずしも毎日書いてはいなかった。ホームページを閉鎖してからは、日々の出来事を時系列に沿って書くスタイルから書きたいテーマや出来事が発生したとき単発的に書くスタイルに移行した。この移行過程は双方がオーバーラップしている。ブログ時代も初期には日記のように特段の話題がなくても日々の出来事を毎日のように書いており、後に書きたい事象が起きたときに限定して書くようになった。ブログでは書いたものをテーマ毎に整理されたフォルダへ収録可能なためである。

日々の出来事を時系列記事に綴る日記スタイルから内容によって分類することを前提とした記述スタイルに移行することで、日記形式の記述は殆どされなくなった。ただし書くという作業そのものはむしろ加速しており、それは地域SNS時代に入っても同様だった。したがって現在では日記という形式では書いていないものの、テキストだけでなく映像情報なども交えた時系列の記録に昇華する形で増強されていると言って良い。
《 日記の歴史の俯瞰と今後について 》
以下に昭和52年の日記開始からこの記事の最終編集日時点までにおいて、自分の日記の歴史について個人的所感をまとめている。

このたび初めて日記を他人に見せるだけでなく番組で公開するという場面があり、段ボール箱へ入れっ放しになっていた日記ノートを小分けに整理すると共にこの総括記事を作成するために中断時期なども調べてみた。読んでみることで気付くように、日記は人生の足跡でありその時代の空気や常識とされる考え方の縮図である。つまらないことに長くこだわっていたり、逆に別の見方ができたなら悩まず突破口が開けていたかも知れない当時の自分に気付く。

それを書いたのは他ならぬ自分でありながら、当時そんな考えを持っていたことが受け入れられず恰も他の人が書いた日記を読んでいるように思える場面もある。自分が書かなければ他の誰が書いたわけでもないのは自明だから、時系列的にみて当時から現在まで同一人物に繋がっている。そのような気がしないのは、ヒトの細胞が絶えず入れ替わっているように当時の常識や価値観も周囲の環境の影響を受けて入れ替わるからである。一番大事なものも人生のあらゆるステージで変化する。

それでもなお興味深いのは、根底にある思考形式や価値観が学童から学生、大人まで年齢を重ねても大きく変わることがないという事実である。嗜好するものや興味の対象について一番よくあてはまる。

日記を書き始めた昭和52年の夏場に、登下校でよく通っていた恩田運動公園の中を流れる用水路が何故か途中で道路の下を斜めに横断している場所について挿し絵付きで書いている。


今や市内の気になる物件や今後変わると予想されるものは何でも画像採取するのが日常的である。
挿し絵に描いたこの道路下を通る暗渠も(かなり周囲の目が気になったものの)水路の中へ降りて顔を突っ込んで撮影している。


この暗渠についての興味は、学童期以降殆ど語られることがなかった。その後の数十年にわたる人生におけるエピソード記憶のほんの一部分に過ぎず、記憶はあっても語る機会が皆無だったからだ。たまさかその後隧道どうでしょうのような番組においてトンネルと共に解説することになろうとは自分自身が一番予期しない展開だった。

表に現れる機会がなかったというだけで、興味そのものは学童期から現在に至るまでずっと同じであり続けていた。一般に夥しいジャンルと題材に関する「〜マニア」と目される存在があり、興味と価値観を共有する人々が年齢や性別、居住地の制約を越えて普通に繋がり合う現代社会がある。一体いつどのような要因でこうした特質が当人のキャラクタとして形成されるのかは、遙か昔のあるイベントによる強烈な記憶の焼き付けだろうと想像する以外ない。

この総括記事を作成する現在から更に数年も経てば、私の中の一番大事なものや日々の暮らし、健康状態、生活環境はかならず変わる。軸となるものが変化すれば、呼応してものの見方や考え方、価値観さえも微妙に揺らぐことは充分あり得る。今とは違う場所に住んでいるかも知れないし、あるいは既に此岸に留め置かれていないかも知れない。それでも学童期から今まで本質的に変わってこなかった部分は、これから先も大きく変化することなく保たれるだろう。その変遷振りを自分で探りたいという気持ちが更に強まったなら、再び日記をつけ始めるかも知れない。
出典および編集追記:

1. 本を借りて帰った当日すぐにノートを買いに行って書き始めたと考えていたが、昭和53年5月28日の記述で「27日に本を借りた」とあることから翌日と判明した。図書館から本を借り出した年月日がわかる貸出カードは(捨てた記憶はないにもかかわらず)まだ見つかっていない。

2. まだ思い出せる今のうちに書いておくことだが、日記中の「立っているだけで汗が流れる」は体育館で行われた全校集会のときだった。男女一列に並んで校長先生を始めとする伝達事項がなされた。この間ずっと立っていなければならず、風が殆ど通らない体育館の中で立ちっぱなし状態で汗が流れるのを拭くこともできなかった。隣の列にいた女生徒が心配そうに見ていたのを覚えている。

3. 奇妙なことに、昭和52年5月28日からのまったく同一内容が書かれた極東のステッチレスノートが存在する。今となっては記憶がないが、すべてのノートを同一デザインにしたいという気持ちから高校生頃にわざわざ手書きしたようである。

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