渡内川

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記事作成日:2016/9/11
最終編集日:2021/11/24
渡内(わたうち)川は、小路ヶ池から沼を経て琴芝町2丁目で塩田川に合流する市の指定水路である。
写真は北琴芝2丁目の屈曲点。


現在の流路を地理院地図に重ね描きした画像を示す。は上流端、矢印は下流端を表している。
流路のGeoJSONデータは こちら


渡内川は小路ヶ池から出た直後は概ね市道沼風呂ヶ迫線と並行に流れ、その後工学部通りに沿って沼交差点に向かう。沼交差点付近では道路を斜めに横切り、一旦参宮通りからは離れる。その先で沼水路と合流し、ハローワーク裏手を流れて市道琴芝沼線に沿って南下する。かつて渡内橋のあった場所で梶返水路の流れを取り込んでからは参宮通りに沿って流下し、神原保育園を過ぎたところで別の指定水路である塩田川に注ぐ。
《 歴史 》
渡内川は真締川の支流の一つであるが、江戸期には宇部村を含めた近隣地区では現在の真締川が宇部本川と記述されていただけでその他の川は主要な河川として認識されていなかった。微細な自然河川や溜め池より灌漑用水を回す用水路は溝や樋と呼ばれていたようである。そのうち渡内という語を含むものとしては渡内溝渡内悪水溝があり、現在の渡内川の支流と思われる溝も含まれる。

現在の沼交差点を過ぎた辺りまでは自然河川発生時の流路を踏襲していると思われるが、現在の山大病院通りを横切る辺りに存在していた屈曲が昭和40年代に修正されている。この屈曲は地山の影響による自然発生由来とは考え難く、炭鉱時代のボタ積みなどによる影響を受けたと思われる。更に下流側は神原炭鉱の終業に伴う大正初期の耕地整理による影響を受けている。特に神原交差点の周辺は梶返方面から切り崩された土砂を運び入れており、[1]炭鉱時代以前の流路は今のところ殆ど分かっていない。

神原交差点付近では標高が数メートルしかないため、物理的には塩田川を介して満潮時に海水が遡行するレベルである。かつては農作物への塩害を防ぐために海水の遡行を阻む樋門を操作していたようで、現在は使われない樋門が遺っている。これは田へ用水を導き入れる堰の役目もあったかも知れない。現在では寿橋付近にある塩田川ポンプ場で潮留めされているため、塩田川を含めて海水が遡行することはないが、潮の高いときは沼付近まで潮があがっていたものと思われる。

昭和初期の大干魃で常盤池がほぼ完全に干上がったとき、水源を求める田を救うために真締川の下流部を堰き止めて渡内川と塩田川の水を逆流させ、現在の源山墓地に設置された動力ポンプで汲み上げ常盤池に送ったという記録がある。[2]常盤池の楢原の入江に注水していた筈だが、既に改変され注水口が何処だったかは不明である。
高専グランド下にみられる大きな開口部は野中五差路付近の排水効率を高めるための近年の施工である
後述する参宮通りの拡幅で暗渠化されることとなった直前の渡内川は道路に近いこともありゴミの投げ込みや水生植物の繁茂が目立つ大変に汚れた水路となっていた。それでも昭和30年代頃までは参宮通り沿い区間は元あった開渠よりも幅が広く水量が多い川だった。[3] 後述するように参宮通り沿いの区間は2016年までに殆ど暗渠化されており、今後は地図表記からもこの区間において河川および水路を示す水色の線の記述が消える。[4]
《 流路の概要 》
適宜いくつかの区間に分けて上流から記述している。
【 小路ヶ池〜沼交差点 】
小路ヶ池の余水吐および樋管を出た水はコンクリート水路を経て山門郵便局の裏を通っている。普段は樋管から取り出されるだけの水量しかない。水路の幅は1m程度で、前面道路の市道沼風呂ヶ迫線よりもずっと低いところを流れている。


その後一旦市道から離れ、宇部高のグラウンドと校舎の間を流れる。この区間は学校の敷地内を通過し水路沿いに道がなく辿ることはできない。

宇部高の通学路にもなっている市道大小路寺の前線の下をくぐり、その先で最初の堰に出会う。


堰の手前には分岐するヒューム管があるので、現在も分水を行っているかも知れない。

この先で住宅地の中を通る。水路沿いの地区道は行き止まりで、通行不能地点で赤松池や坊主池からの流水を集める赤松水路と合流する。この辺りで水路幅が2m程度になる。
下流側から撮影…左側が渡内川で右側が赤松水路


百菜屋上宇部店(2016年以降Wantsとなっている)の裏手を通る辺りからは相応な水量を持つコンクリート水路となる。上宇部小学校へ向かう道である市道沼寺の前線付近に堰があり、周辺の田へ用水を導く水路と分岐している。この樋門は現在も使われている。


海南町付近の市道沼風呂ヶ迫線起点では渡内川が屈曲しているが、これは地勢を反映したものと考えられる。


工学部通りに接してからは暫く沿って流れ、沼交差点手前で薄くスライスするように横切る。ここはかなり早くからボックスカルバート化されたらしく橋としての機能はない。欄干は道路側には存在せず併設された歩道部分のみガードレールの形で存在する。


工学部通りの南側へ移動後、僅かに石積み区間を残すだけでそれより下流はコンクリートの三面張り水路となっている。
この区間だけ僅かに開渠として残した理由がよく分からない


この施工は沼交差点付近の民家などが解き退かれた後に交差点改良と併せて渡内川の整備が進められた2012年頃の改変である。
【 沼交差点〜渡内橋 】
工学部通りを離れて参宮通りの下を斜めに横切っている。今や道路部分が渡る延長よりも幅の方が遙かにまさっている沼橋は、参宮通りにおいて明確な名称が現地確認できる2つある橋のうちの一つである。
もう一つは時雨川に架かる琴崎橋

沼交差点改良において沼橋は東側の欄干と親柱が撤去されている。西側の欄干と親柱は健在で、ここ設置されている渡内川の名称プレートが河川名を現地確認できる最後のものである。

沼橋から下流側ではハローワークの裏側を通り、この区間には歩行者のみが通行できる細い通路が存在する。離合ができないほど狭いため自転車の通行が禁止されている。この通路の管理は市管財課となっている。


沼橋の下流60m程度の地点で北側からやや水量のある沼水路を取り込んでいる。水路幅は5m近くにまで広がり、両岸は鋼矢板で固められている。


この合流点のすぐ下流側に潮留めと思われる樋門が現在も遺っている。平成期に入ってからの施工と思われる。

ハローワークを過ぎた細い通路の末端部は市道が屈曲している。古い地図で確認する限りでは渡内川の流れはこの近辺でも直線的であり、クランク発生の理由は分かっていない。また、樋門付近では昭和中期まで渡内川が短い区間で蛇行していたことが確認されている。この蛇行は現在の護岸施工までに修正されたようである。

市道琴芝沼線に沿って流れる区間は道路線形と一致する。この線形は後年の改良であることが判明している。昭和37年撮影の航空映像では、途中にかなり大きな屈曲を含んでいる。
この途中で東側から海南水路が合流する。


海南水路は常盤用水の西幹線による末端路で、梶返方面の田にあてた水の余剰分を流す。接続部分はヒューム管になっていて、灌漑用水非需要期も相応な水を注いでいる。この合流点に2基目の樋門がある。潮留めか堰の役割か分からないが、既に操作されていないようである。

浜バイパスを横断する前後では、バイパス築造以前からあったコンクリート床板が随所に遺っている。それらは現在も使われていたり補強されたりしているが、土地利用形態の変更により橋だけ残され出入り口が塞がれている場所もある。


道路に面した開渠部であるため、ゴミの投げ込みや滞留が著しく水質は極めて悪い。金気のある水も集まるようで流れの淀んでいる場所では茶色いヘドロが溜まっている。日当たりの良い場所では水生植物の繁茂も著しい。

山大病院通り(旧称浜バイパス)を横断する直前箇所にはゴミを停めるスクリーンとゲート室が設置されている。


地表からは見えないが、この4車線の道路下には可動ゴム堰が設置されていて、大雨のとき堰を操作して過剰な河川水を小串ポンプ場へ流し込めるよう設計されている。

市道の起点付近、琴芝小を前にして渡内川は参宮通り側へシフトする。民間アパートと月極駐車場の間を流れているこの区間には通路は存在しない。
【 渡内橋〜塩田川合流点 】
参宮通りに接する地点で函渠に入る。かつてこの場所で参宮通りを横断して市の指定水路である梶返水路と合流し、コンクリートの欄干を持つ渡内橋が存在していた。

参宮通りの拡幅工事で渡内川が函渠化された2016年夏に渡内橋は撤去された。
函渠内にゴミが流れ込むと流下速度に悪影響を与えるので新規にスクリーンが設置されている。


2016年9月現在ではこの区間はすべて暗渠化され地表部には交差道路から雨水を流し込む桝がみえる以外、渡内川に関するものは何も見られない。しかし暗渠化工事が行われるまでの間および工事中の写真が撮影され、元の姿を知ることができる。

神原保育園入り口のところから渡内川は参宮通りを離れる。ここにボックスカルバートの出口があり、45度の折れ線を経て塩田川へ注ぐ。これより下流側については「塩田川|渡内川合流点」を参照。
《 主要な構造物 》
塩田川よりも長いだけに横切る市道や地区道による立体交差部は多いのだが、殆どがボックスカルバートかコンクリート床板の橋で固有名を持つものは極めて少ない。
上流から順に記述している。

名称詳細
沼橋渡内川が参宮通りを横切る橋。沼交差点改良により東側の欄干と親柱が失われた。
渡内橋梶返水路との合流地点にあった参宮通りの橋。参宮通り拡幅に伴い2016年に消滅。

沼水路を含めて潮留めないしは堰の機能を持つ樋門が多数箇所存在する。それらに固有名が与えられているかは分からない。
《 近年の変化 》
項目記述日:2017/9/23
参宮通りの神原踏切〜西梶返三差路にかけて6車線化と自歩道整備のための拡幅工事が進められた。この過程で渡内川は参宮通りに接する渡内橋から下流側の塩田川合流地点までの区間がすべて暗渠化され、その上を自歩道として整備された。
暗渠化は神原踏切側から工期を区切って施工され、2015年8月頃までにボックスカルバートの布設を終えている。これに伴い琴芝小学校の裏門に架かる女学校時代のコンクリート橋や市道琴芝梶返線接続部のコンクリート床板、渡内橋の欄干などが失われた。
渡内川という名称は、この河川が主に通過している小字に由来する。詳細は以下を参照。
派生記事: 渡内について
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」p.53

2.「宇部ふるさと歴史散歩」p.73
ポンプ基礎跡などは改変で喪われてしまったようで現地にはまったく存在しないようである。

3.「琴芝小学校三十周年記念誌」口絵部分。

4. 一般的な地図では道路下のボックスカルバートのように暗渠化された排水路は水色表記されない。
《 個人的関わり 》
野山を離れて再度市街地の暮らしを始めて最初に目に留まった川が渡内川である。
特に渡内橋は河川名そのものの橋でありながら渡内川を横切っていない点で特殊であり、生活圏内に入っていることからも早期に写真を撮っていた。市街地生活以前の関わりはない。

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