プロフィール

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記事作成日:2018/7/2
最終編集日:2022/11/4
情報この記事は内容が古くなった旧プロフィールの更新予定版です。書き溜めている状態であり、項目は未整理で読みづらいかも知れません。随時編集追記している継続記事なので、更新履歴での告知はありません。

ここでは当サイトの管理者のプロフィールを記述する。最初にこの記事へ書き溜めておき、各項目の記述量が増えたなら用語集に該当項目を作成して移動している。詳細を知るには項目に張られたリンク先を参照されたい。
《 映像情報 》
以下は私自身の写真である。子どもの頃からの写真もあるが、それはプロフィールと言うよりは自分史カテゴリを作成したときに載せるとして、ここでは直近のものを載せている。撮影してくれる助手が居ないので写真はすべて自撮りである。
【 写真 】
できるだけ最近撮影されたもので、自分なりに納得のいく写真を載せている。
これは2021年3月末の撮影で、背景は加工し消している。
髪のボリュームが貧弱なのでヘアエクステで盛っている


外出時は髪を後ろで束ねている(ポニーテール)が、自宅で寛いでいるときは下ろしている。眼鏡を使っているが在宅時や写真撮影のときは外している。理由は昔から眼鏡を掛けた自分が好きではないからである。免許証の写真では髪を下ろした状態で、マイナンバーカードの写真では束ねた状態で写っている。いずれも帽子・眼鏡は外した状態である。
《 基礎情報 》
以下に就労時などに提出されることが多い履歴書の形式に準じたプロフィールを作成した。

本名山本 健二
生年月日昭和39年6月30日

この世に生まれ出た赤ちゃんは、母親から分離された後にへその緒を切る習慣がある。へその緒が入った桐箱は現在も私の手元にある。


出生は昭和39年6月30日午前2時27分で、身長51糎、体重3,600匁、胸囲24.5糎であった。
親の名の掲載は承諾を得ていないため画像加工し抹消している


即ち私がこの世に生まれた直後のもっとも古い身体の組織の一部が遺されていることになる。私が生まれた日のことについて母の言明によると、晴れて暑い日だったという。
【 養育歴と学歴 】
誕生後の養育歴、学習歴は以下の通り。年月の項目は年齢から逆算して推定している部分があり、精査を要する。

年月所属在学校
昭和43年4月〜46年3月私立慈光幼稚園
昭和46年4月〜52年3月宇部市立恩田小学校
昭和52年4月〜55年3月宇部市立常盤中学校
昭和55年4月〜58年3月宇部私立香川学園高等学校
昭和58年4月〜59年3月宇部私立香川学園補習科
昭和59年4月〜平成元年3月山口大学経済学部経済法学科

幼稚園時代の3回生頃から松山町より恩田長沢へ引っ越した。当時は子どもの数が多く恩田まで幼稚園のバスが送迎したので通う幼稚園を変更する必要はなかった。小学校は歩いて登下校し、中学校は課外クラブに入っている間だけ自転車通学していた。

高等学校は公立校に宇部高理数科を受けたが、不合格だったため私立香川学園高校に入学した。このとき宇部高普通科ではなく理数科を薦められたのは自分自身の興味からではなく、学力的に無理なラインだったため募集人数の少ない理数科なら受かるかも知れないとのアドバイスを受けたことに依る。恐らくは普通科でも合格できるレベルでなかったと思われる。

大学受験時も高校受験のときと同様、志望校を絞りかねていた。英語が得意ならということで北九州大学の英文科を勧められて願書を出した。試験の内容は英語が得意だった筈の自分でも”歯が立たない”レベルで、問題用紙を半分くらい眺めた時点で「これは駄目だ」と感じた。不合格後、何とか現役で大学生となりたい気持ちから二次募集で法学科に願書を提出したものの、無駄に受験料を投げ銭する結果に終わった。

大学を受験する以外の選択肢が与えられていなかったため、浪人となって再び大学受験を目指すこととなった。自宅での勉強(いわゆる宅浪)はよほど意志が強くなければ勉強せず怠けてしまうと言われ、多くの生徒が電車通学する形で北九州予備校へ行った。出身校の私立香川学園高校には浪人生を受け入れる補習科の存在があり、家から近いし集団の中で勉強した方が緊張を保てるという考えもあって補習科に入った。

当時は大学受験を失敗することで同期に遅れを取るのは負け犬そのものであり、恥ずべきこととみなされていた。補習科で各科目を担当する教師は高校時代とまったく同じでありながら、生徒に対して至って丁重で温和だった。補習科全体の雰囲気が良好で、目標を共にする同期との連帯感も強まった。これは学習モチベーションにとって強烈な追い風となり、受験勉強だけでなく他の分野に関しても積極的に学ぼうとするようになった。性格も目に見えて好ましい方向に変化し、親も私が補習科で得た体験を「一年の遅れを取ったことを上回るほどの成果があった」と評価している。

大学は在学時期が通常より一年長い。これは単位を取れずに留年したのではなく、教員になる気持ちを捨てきれずに社会科教育法関連の単位と教育実習を行うことにより教員免許状を取得するための意図的な留年である。全部の単位が揃ってしまうと強制的に卒業することになってしまうので、わざと2単位のみ残して社会科教育法関連の単位を取った後に卒業した。この方針は完全に自分の意志で決めたものなので、留年分の一年に係る学費は自己負担した。
【 職歴 】
正確な就職退職時期は日記を参照する必要がある。単発的なアルバイトや並行して行っていた巡回家庭教師がある。以下に未整理のまま状況のみを記述する。いずれも親や身内による家内工業的アルバイトは除外している。

高校生および補習科時代は勉学最優先であり、学校も親もアルバイトを容認していなかったため職歴はない。アルバイトはすべて大学生になってからと推測される。なお、以下のアルバイト歴において時系列は不定である。

恩田小学校近くのケンタッキーフライドチキンの店でアルバイト随時募集の公告を見つけて募集する。夕方から閉店までチキンの下処理を行った。親は(当時の風潮としては普通だが)よりによって肉屋のバイトをするなんてと嘆いていた。仕事は特に難しいものではなく、同年齢のアルバイトが数人居ることもあり職場の風紀は良かった。男性は厨房で下拵えや調理を担当し、女性は窓口応対やポテト揚げなどの軽微な仕事を担当していた。仕事をしているときに撮影された写真が一枚のみ存在する。
撮影者は不明…画像は写真のデジカメ接写


仕事時間はタイムレコーダーで管理され、累積した労働時間に単価を掛けた賃金が最終時に支給される仕組みだった。

親父から労働者不足と検査前の多忙の応援を元に、土木現場でのアルバイトを持ちかけられる。日給は5,000円程度だった。最初に赴いたのは山陽小野田市の埴生にある山陽パーク(当時、現在は東糸根公園)前の埴生歩道工事だった。
写真は当時建設された国道沿いの張り出し歩道である。


仕事は非常にきつい上に入場者教育などはいっさい行われず、ベテランの土木作業員に手際の悪さをなじられ容赦なく罵倒された。たった一日で根を上げたのだが、親父は検査終了まで辞めることを許さなかった。毎朝早起きさせられ親父の車で現場へ行くまでが憂鬱であったが、見返りとして手にしたアルバイト代はかなりの高額だった。これは収入を得るためにある程度の我慢を強いられるのは当然という理解の元となった。

きついことを理解していたせいで、後にいくつかの現場で多忙時に応援アルバイトへ行くようになる。携わった現場は参宮通りの西梶返拡幅、厚南の明神川河川改修工事に伴う検査前の鋼矢板清掃作業がある。これは平成元年のことであり、消費税が導入された時期でもある。昼休みに近くの丸喜で買い物して消費税が印刷されたレシートを初めて目にしたときでもあった。

相生町にあった家庭教師派遣協会に登録する。最初の家庭教師は山陽小野田市高泊に在住する母の知り合いの方だった。生徒から肯定的な評価を得たことに自信を持って登録したようである。当時は家庭教師需要がかなり高く、派遣協会は徳山に本部があり、宇部支部として機能していた。社会人になってからは受け持つ生徒が卒業することで自然消滅していったが、その後2018年に予期しない家庭教師依頼があり、十数年振りに再開している。

公的な機関のアルバイトも考えていたようで、大学生時代に労働力調査に応募している。これは市内のあるエリアの居住者を全数調査し、後に母集団から無作為抽出された家庭について住所氏名と共に勤務先や在学校の記載を依頼するものだった。当時は現在ほど個人情報保護意識が高くはなかったが、調査依頼を拒否する家庭もあった。全数調査の結果と無作為抽出のデータを提出することで労働報酬が得られた。報酬の水準はかなり高く良い単発アルバイトだった。

後に別機関から募集されていた商業統計調査にも応募している。同様に一定地域にあるすべての事業所を訪問して従業員数や年収などの記載を求めるものだった。こちらは丁寧に応じてくれるところと否定的な事業所が二分された。基本的に対象となった事業所は提出義務があり、抜けている事業所があって調査員が訪問しないと苦情を言われたことがある。ある事業所では提出こそ応じたものの「このクソ忙しいときにつまらんものを持って来やがって!どねーもならんわ!」と罵倒され調査票を投げ返されたことがある。持ち帰った後の統計処理も手間がかかった割に報酬は前回の労働力調査と比較して8割程度しかなく、まったく割に合わなかった。このため以後は同種の調査モノを手掛けなくなった。

アルバイトで収入を稼ぎつつ通信教育で教員免許の取得に必要な単位を取ろうとしていたが、2度目の教員採用試験に落ちてからは家族の勧め(と言うか殆ど命令)もあり、教員になることを断念して収入のある「キチンとした仕事に就く」方針に転換する。単発的に土木作業のアルバイトをしてきたこともあって親父の在職する土木建築会社への就職を勧められた。このときには既に大学を卒業しており、会社側は現場担当には勿体ないので、1年程度現場を回らせて職務を覚えてもらった後で営業担当にしたいという意向を示される。こうして初めて定職を持つ身となった。

就職した時点ではまだ数人の生徒を受け持っていた。卒業までは責任をもって教えることは当初から明言していたので、土木現場の仕事が終わってから秘密裏に服を着替えて生徒先へ向かう日々が暫く続いた。忙しい現場では残業が普通だったが、入社前から生徒を受け持っていることを伝えていたので何処の現場でも容認してもらえた。午後5時まで現場で働き、それから続けて2件の生徒を回ることもあった。人生の中で一番労働時間が長かった時期であり、これを上回る労働はもう二度とないだろう。
【 戸籍に係る項目 】
極めて特殊な事項で殆ど公表していないこととして、改名問題がある。即ち昭和59年に同姓同名の人物が町内に居て頻繁に郵便物の誤配が起きていたのを理由に改名している。家裁に改名届を提出したところ承認された。ペンネームではなく戸籍レベルで名前を変えている。変更した別の理由として、当時図書館で借りて読んでいた姓名判断に依る。変更前の名前は画数によって分類され、苦難に満ちた波瀾万丈の人生を送ることになるなどと肯定的なことが一つも書かれていなかった。このため呼び名が変わらず画数のみ変わるように漢字表記を変更した。

現在では姓名判断自体、他の多くの占い同様にエビデンスがなく馬鹿げたことと考えている。同姓同名の人物を理由に変更したのは、大学受験を前にして重要な書類が届かない事態になったら大変というのもあった。[4]名前を変えたことについて後悔したことはない。ただし初期は「親が与えた名前を勝手に変えた」などと好ましく思われなかった。現在は改名のこと自体が話題に上ることはない。なお、前述の姓名判断の本から画数によって好ましい甥の名前の候補をいくつか挙げ、兄貴はそれを元に甥の名前を決定している。このリストは日記に添付している。
【 好きなものと嫌いなもの 】
好きなものと嫌いなものを五十音順に項目だけ並べている。詳細は項目に設定されているリンク先を参照。無条件に好き嫌いが決まっているものと条件付きのものがある。嫌いなものに分類している項目はリンク先記事で徹底的に手厳しく記述しているので参照する場合は留意されたい。

好きなもの甘い系乳飲料・ウサギ・おんにゃの子・カップ麺・自転車・駄菓子・長髪・ネイル・ピンク
嫌いなもの格闘技・コンビニ・渋滞・進学塾・信号機・騒音・体育会系・立入禁止・宝くじ・タバコ・ダメ出し・釣り人・電信柱・肉類・バイク・ビール・人混み・吠えるイヌ・人混み・マスメディア・ムカデ・野菜・酔っ払い

前述の好き嫌いほどではないが興味の有無について。

興味あるもの化学・観光・郷土・数学・ダム・地質・地名・トンネル・薬品
無関心なもの衣類・映画・資格取得・食事・政治・彫刻・読書・流行・料理・レジャー

全般的に言えることとして、綺麗・美しい・可愛い・面白いといったポジティヴなコンセプトを持つものを好む。この反意語の汚いや真面目腐ったなどを無条件に嫌っているわけではないが、ネガティヴなコンセプトを持つものが嫌いであることは確かである。

性別は男性であり当然そのように振る舞ってはいるが、女性的なイメージを持つものを特に好む。可愛い感じの小物を購入し実際に使ったりインテリアの一部に取り入れている。色彩もピンクや薄紫といったパステル調のものを好み、服やインテリアでは品質や値段に関係なく色調を最優先で選んでいる。これは髪を長く伸ばし始めたことがベースにあり、女性のようだと評され始めてから色彩や持ち物なども影響を受けた。いわゆる LGBT ではと思われているかも知れないが、恐らくそうではない。恋愛対象は女性のみであり、男性に興味は全くない。男らしいと言われるよりは長い髪や服の色調などで可愛いよと言われる方が嬉しい。何故ならば男らしいは男性限定の褒め言葉だが、可愛いはすべてに対する肯定的な褒め言葉だからである。可愛いのは無条件に善いことである。

この反動として、中年男性のステレオタイプとされるものを遠ざけている。これは加齢臭やタバコ、ワイシャツネクタイ背広のようなフォーマルな服装、会社組織や肩書きに対して否定的な見方をすることに繋がった。それでも未だ昭和後期あたりの古い考え方を持つ人々は少なくない。人を変えることは不可能であり暴挙とも言えるので、そういう人々を攻撃することはないが、接する時間が長いほどネガティブ思考を感染させられるリスクがあるので、関わらないようにしている。

騒音を殊の外嫌う。後述する項目で賃貸アパートを退去したのは、学生が入居するようになってから騒音が酷く執筆活動どころか日常生活まで苦痛になってきた要素が大きい。やかましいと感じる閾値が一般の人よりかなり低いらしい。救急目的で飛行する Doctor-Heli を五月蠅く感じるし、パトカーのサイレン音もやかましいのでどうにかして欲しいと考えている。これは恐らく HSP の傾向が原因と考えている。静かな環境を望んで賃貸アパートを退去したものの、最近この居住地まで騒音が及び始めたが故に再び引っ越しを考え始めている。

市街部を含めて街の景観などを観察し撮影しているので、それらの変化や生活していく上での危険に敏感である。その行為に対して障害になるようなものは(当然のことではあるが)ことごとく嫌う。立入禁止の立て札や吠えかかるイヌを嫌うのはそれが理由である。不法投棄禁止の看板や電信柱、電線なども街の景観を乱す諸悪の根源であり、将来的になくすべきと考えている。
【 居住地履歴 】
生誕から現在に至るまでの居住地履歴を以下に示す。ただし、幼少期のことはあまり覚えておらず、後の学生時代までも正確な時期は日記などを調べてみないと分からない。

現在の居住地のみを伏せて他は公開しているが、過去に住んだことのある場所の殆どは既に家がなかったり私とはまったく繋がりのない他人が入居している。所在地は当時の住居表示である。周辺にある物件を記述する上での資料として公開しているので、現地の無関係な居住者など詮索なさらないようお願いしたい。

居住期間所在地備考
生誕〜昭和43年頃宇部市松山町一丁目6-20知人に紹介された木造平屋を賃借して岬町より引っ越し。このときに誕生。後に恩田長沢に建て売り物件を購入し転出。
昭和43年頃〜平成13年6月宇部市東区恩田長沢3156-15[1]戸建て住宅。叔父より土地を購入し新築するための頭金捻出のため土地家屋を売却し転出。[2]
平成13年6月頃〜平成21年3月頃宇部市大字善和116戸建て住宅。居住地の利便性を考慮して市街部へ世帯分離し転出。
平成21年3月1日〜平成30年3月31日宇部市西梶返2丁目4-10-117賃貸アパートのワンルーム。執筆活動に向いた環境を考慮して転出。[3]
平成30年4月1日〜現在宇部市小羽山地区戸建て賃貸物件。

現在の居住地を明らかにすることに私自身は問題を感じていないが、戸建て物件のうち2階部分のみを間借りする形で住んでいるためここでは記述しない。将来的に引っ越した後に記述する。
出典および編集追記:

1. 昭和50年代後半の住居表示で恩田町五丁目4-11-5に変更された。

2. 途中の学生時代で山口市大字吉田字立垣を含む学生アパートに2度ほど下宿している。ただし住民票の変更は行っていない。

3. 入居直後は116号だったが、騒音問題から住民票を提出するより先に117号へ住み替えた。

4. 年賀状の誤配などは日常茶飯事だった。小学生のとき不要となった切手を売却し、切手商は代金を低額小為替で送ったのだが、誤配された上に低額小為替のみ抜き取られて再配達されたことがあった。この事件で実質的にタダで切手を搾取されたも同然となり、以後誤配問題に対して神経質になったという経緯もある。
【 資格 】
取得済みないしは過去に取得したことのある資格は以下の通り。ただし更新手続きを行っておらず失効している資格がある。リンク先には資格証の接写画像がある。

項目資格名確認資料
教員免許中学校教諭一級普通免許状(社会)表面裏面
高等学校教諭二級普通免許状(社会)表面裏面
情報処理技術者初級システムアドミニストレータ表面
土木施工管理技士1級表面

教員免許状は各科目において指定された大学の講座を受講し単位を取得することで認定される。他の資格は筆記テストによる。

冒頭述べた通り、これらの免許は必要な更新手続きを行わず放置しているため恐らく失効している。実業務で必要なら当然更新手続きをするのだが、教員免許状は教諭になるために学生時代取得したものだし、土木関連は当時所属していた会社の指示による取得である。まったく自主的に取得したのは初級システムアドミニストレータのみである。この資格は容易に取得可能であり、特殊な業務を行うことが認められる種の資格ではない。

現在では一連の資格は何の役にも立っていないため、名刺には記載していない。教員「免許」と言われるように、一般にはそれがなければ教員として学校の正規のカリキュラムで科目を教えることはできない。しかし現在ではカリキュラム外での活動に重点が置かれる時代であり、課外活動でも学童目線になって有用な情報を提供できることが重要視されている。この方面の実績として、琴芝小学校で郷土学習の一環として校区内にある桃色レンガについて授業を行った。また、小羽山小学校では課外活動の一環であるすくすく教室に出席して子ども目線での話をしている。
《 ホームページに関する時系列 》
以下は暫定的にこの記事に収録している。将来的にはホームページの歴史という総括記事を作成しこの記事より分離する。

初めて自前のホームページを作成したのは、インターネットの契約を行った直後の1999年頃と思われる。中学校の頃から日記を書くなど元から文章を書くことが好きだったので、書いたものを発信したい気持ちは早くからあった。当時契約していたプロバイダは10MBのホームページスペース(後に20MBに変更された)が無償で使えるようになっていたので、HTMLの本を買って自学し同じ頃に買ったデジタルカメラで撮った写真を載せるようになった。タグを手入力するのは大変なので、辞書登録して使うようになった。この手法は現在も変わっていない。即ちホームページ制作ソフトをいっさい使わず、メモ帳でタグ直接入力により作成されている。

バドミントン最盛期では常盤屋というクラブを結成し、練習試合の状況を動画配信していた。動画は csx という会社が運営し、バナー広告表示を条件にアップロードスペースを無償貸与しているもので、YouTube がこの世に現れる前から動画配信し大変な好評を得ていた。練習試合のメンバーには本人が申告したハンドルネームを、申告のないメンバーでは勝手ハンドルをつけて投稿していた。その後常盤屋を閉鎖することによりこのサイトは後述するプロバイダ契約の解除に伴い消滅した。

ホームページは日記を兼ねていた。永らく続けていたが、高速な光回線環境を求めて野山から梶返アパートへ引っ越したときプロバイダを解約することで消滅した。その後暫くホームページを新規には作成せず、Yahoo!ブログなどに記事を書いていた。

Yahoo!ブログは全国版なのでローカルな話題への食いつきは芳しくなかった。後に地域SNSうべっちゃが登場し、かなり熱心に活動した。ローカルに関する知識や活動法の基礎はこのとき培われた。宇部マニアックスというキーワードが現れたのもこの頃である。

うべっちゃが廃止され Facebook に移行することとなったが、すべての記事を時系列で一元配置してしまうブログの可読性の悪さに気付いていた。階層を作ってすべての記事をカテゴリ分類しいつでも閲覧できるようにしたいという思いから、もう一度ホームページを運営したいという気持ちが強まった。それ以前からバナー広告表示で無料で利用できる geocities で「すた・ばにら」という名でホームページを作成していた。ここから日記などを取り除き、2011年11月1日に現在の大元となった宇部マニアックスのホームページを公開した。
【 宇部マニアックスのホームページについて 】
ホームページ制作の大きなモチベーションとして、調べ物で頻繁に利用していた Wikipedia が挙げられる。多くのキーワードに対応する記事が制作され、紙の事典を参照する必要がなくなった。Wikipedia の存在自体は野山時代から知っていて、野山のすぐ前を通っている県道に対応する記事まで制作されていることに驚いた。初期の反応は「こんな記事など作って誰が読むのだろう?」という疑念があったが、当たり前のように思っていながら知らない項目が実に多く、そのような情報を収録する必要性に気付き始めた。

宇部マニアックスのホームページ制作の根底には、ネット上に宇部市内限定の壮大な博物館を造るという理想があった。何処かで範囲を限定しなければきりがないため市内限定にしたのである。それでも初期からダムやトンネルに対する興味が根強く、ブログ時代から記事を書いていた。市内限定のネット博物館については、後のサンデーうべのコラム冒頭に配置された言葉に現れている。

市内限定とは言ってもすべてのジャンルを網羅する積もりは当初からなかった。体系的に行うなら志願者を複数人集めて得意なジャンルについて記事を書いてもらって統合するのが効率的だが、ビジネスにする気は毛頭無かった。この方針は現在でも温存されており、いろいろな方から情報提供を頂いてはいるが、すべての記事は私単独で作成している。

初期には建物や鉄道などのカテゴリは存在していなかった。ジャンルも絞らないといつまで経っても形にならないことが明らかだからである。特に初期では歴史分野に関しては(学生時代からの苦手意識により)意図的に敬遠していた。これは義務教育で習う形式的な歴史教育から脱却し、自分の生まれてから現在までを含めた時の流れを歴史ではなく時系列と呼び直し、記事制作や郷土関連題材の説明に必要な範囲に限定してその都度頭に入れるようにしている。

ヘルプでも明言している通り、記事中では各分野の専門用語を説明抜きで書き散らしている場面がある。これはいじわるや高慢からではなく、すべて説明を加えていると話が前に進まないこと、検索で容易に調べることが可能だからである。道路やトンネルなどでは土木建設業務に携わっていたとき得られた知見に依る。それ以外の地形解析や変電所、動植物に関する記述の殆どは関係者からの伝聞やネット上の情報である。

ホームページを確立させてからも暫くの間は郷土関連題材に限定し、それ以外の自分自身のことなどは別の個人的ホームページを立ち上げるかブログなど別の場所へ記述することを考えていた。後にそれは管理を煩雑にするだけでまったく無意味なことと考え直した。これを受けて宇部マニアックスのホームページに自分のことも含めて何でもかんでも詰め込めるように、素材カテゴリや文化カテゴリを追加設置している。
《 仕事に関する時系列 》
・身分あるいは業務上の区分としては、自営業者に入る。前職(と言っても退職して十数年経過するのだが)はサラリーマンだった。退職時に会社の協力業者の営業マンにアドバイスを受けて屋号を決めている。この屋号が表に出ることは殆どないが、現在も確定申告の書類上はこの屋号と実名併記で行っている。
・退職後はサラリーマンの”毒抜き”に一定の期間を要した。PCメンテナンスや学生時代から続けていた巡回家庭教師業、ソフトウェア販売など収入になりそうなことは何でもやった。今では法的に殆どグレーとみなされているNB(ネットワークビジネス)にも手を出したことがある。現在では「NBはマルチ商法」という認識でほぼ一致している。この過程で要領の悪い人間はカネと労力を搾取されるなど、とことん利用される世界であることを理解した。
・日中は自分のことができて夕方から出かける仕事でも良いということから、広報うべに出ていた市営住宅特別管理人に応募した。これは市営住宅の家賃収納などに関する業務委託で、募集人員は2人だった。既に2人が業務を行っていたが、徴収強化のため追加で2人募集をかけることになったものである。市営住宅業務に関する小論文が実地に課せられた。応募者は3名で私ともう一人の女性が合格し採用された。
・収納業務は市住宅課所属の特別管理人(特管人)という身分であったが、後に指定管理制度へ移行した。指定管理者名は AsiaJV で、これは市内外の不動産業者4社がJVを結成し、その配下で業務を行うものである。初期は管理主体が移管されただけで業務内容に大きな変化はなかった。指定管理制度へ移行してからは業務がどんどん縮小され、これに covid19 が追い打ちをかけた。2021年からは殆どこの方面からの収入がない状態である。
・今や業務のように振る舞っているが、この仕事に関して特別な資格は持っていない。その気になれば郷土探索アドバイザリーのような肩書きを名乗ることは可能だが、元から肩書きで自分を等身大以上に見せることが大嫌いである。名刺の表面にも肩書きは何も書いて居らず、精々裏側に取り組んでいる内容を記載するのみである。
・多くの人の協力や情報提供を受けているが、基本的には一人で活動している。特に宇部マニアックスのこのホームページには膨大な記事が作成されているが、分業ではなくすべて自分一人で作成している。総括記事は客観的な書き方をしているものの、基本的に自分の言葉と視点で提示したものの集合体がホームページだからである。
・サラリーマンも十数年経験はしているが、既に脱サラして自営業者となってからの方が長い。時間に縛られるのが嫌なので、拘束時間の少ない業務を見つけて手掛けていた。自営業者でも多方面に繋がりを持って活動している人はあちこち飛び回り時間も制約されている印象があるが、少なくとも私には当てはまらない。カレンダーは殆ど空白で、何か重要なイベントが近づいたときだけ適度に埋まっている。会合の提案があったとき、既に予定満載なスケジュール帳を開いてなお空きを見つけて詰め込むような生活をしたくない。
・covid19 により指定管理制度の業務が殆ど皆無となった。この結果殆ど収入がなくなり今後の回復も見込めないので、別の収入源になる仕事を考えている。先述の家庭教師のように、自分が動くことなく他の方から何かを依頼される形での業務は、物理的に不可能なものでない限り基本的に請けるようにしている。あてにされることから始まった仕事ほど高貴なものはない。郷土関連の仕事に家庭教師とは如何にも畑違いに思えるかも知れないが、令和時代からの仕事に畑違いという観念自体が古臭い。まったく異種の業務でありながら相互に結びつけて新しく面白いものをクリエイトできる可能性を考えたい。
・現在は家庭教師として一人の生徒を担当している。去年は同じ地区で2人ほど引き受けていた。教科としては高校までの英語・数学を教授可能である。教授が巧く進むかどうかの最大要因は、生徒や保護者との価値観の類似性にあるだろう。例えば大学受験を目指して少しでも点数を多く稼ぐようなテクニックを教える種の授業は物理的には可能だが、私自身それを推奨はしないだろう。次世代の社会人に何が求められるかを考えれば自明なことであり、意に沿わない授業をしたところで成果が見込めるとは思えないからである。
《 日常生活 》
以下には最終編集日時点での私のプライベートについて記述している。幼少期や学童期などについては、別途記事化を考えている。
【 生活全般 】
・殆どが自由時間である。自由時間ではその時々において抱えている題材があるなら、写真撮影に出かけている。再撮影が主で、新規は減っている。天気が悪ければデータ整理や資料作成。先行投資になっている部分が大半を占めていて、実収入に直接結びつく業務時間は少ない。
・世間一般にいわれる遊びの部分が殆どない。(→遊びと仕事)元々の業務が市内各地のツーリズムであることと低所得層を自称するため、旅行に出かけることは殆どない。もっとも行きたいところが全然ない訳でもなく、ダムや隧道など写真で見るだけで惹き付けられるような場所は行ってみたい。アミューズメント系を主体とした観光地にはまったく興味がない。このことは近場でも同様で、阿知須干拓地で開催されたきらら博は居住地から車で一走りで行ける場所に住んでいて人からチケットをもらっていながら一度も行かなかったし、山口市阿知須で開催された花博に至っては交通の悪影響から早く終わることを望んですらいた。(→観光ファディズム
・景観や物件などの撮影を目的に出かけるときは、対象と静かに向き合いたいと願っている。殊に撮影したい被写界に人や車が通るのは邪魔である。祭りやイベントなど当初から人が集まっているのを観に行くことが目的な場合を除いて、人の多い場所には決して行かない。このことより、covid19 で密の回避が叫ばれた期間も活動にまったく影響がなかった。
・世間一般で普通に行われている余暇や空き時間の過ごし方を殆ど行わない。テレビを視ない(と言うかテレビそのものが無い)し、グルメや芸能、ファッション情報もまったく興味がない。何故ならそれらは造り上げられたものであり、そこで消費者が踊らされるに過ぎないからである。新聞やニュースも殆ど視ないしため、世の中の動きや主要な出来事への関心もない。それを知っておくべきという考えもない。このことを代弁する語として次のようなものがある:「できる人が他に沢山居るなら自分が事改めてする必要がない」「その時間を使って自分はそれ以外のことをする」。
・アジトへ籠もりっきりでは運動不足になる。歩くのは嫌いなので、物件調査では自転車を漕ぐ。山野では仕方なく歩くが、興味あるものが先にあればそれほど苦痛はない。また、バドミントンは運動らしい運動の唯一のものであるが、2021年の4月6日に久し振り参加したものの以前ほど面白いとは思わなくなったため、このまま引退する積もりでいる。
・アジトでは常に記事ばかり書いているわけでもなく、写真の分類整理以外ではまったく関連のない分野の記事を読むことがよくある。化学、薬学、数学をはじめ目に留まった記事すべて。その時は単なる興味のみであっても、後から記事制作するときに知見が役立つことがよくある。学生時代に教えられたことや社会人になって得た知識もどんどん古くなっているばかりか誤りでさえあるので、実生活を営む上で必要な知識は常に最新の信頼できるものを得ようとしている。この目的で Wikipedia の項目を辿って読むことが多い。
・記事書きなどクリエイティヴな作業ばかりやっているなら、合間に単純作業をするのが気分転換になると考えている。この意味で最近手掛け始めたのが学童期によくやっていた石磨きである。野山から砥石を借りてきている。石質により硬度が大きくことなることは、石磨きに適した石を探す上で役だった。加工しやすそうに見えるなめら石は石磨きには不適で、最も良いのは方解石である。方解石を多く含む石灰岩も良い。加工しやすい上に粒子が細かいため磨くと綺麗になる。
・入浴時間が異様に早い。午後4時過ぎに入ることが多く、暗くなってから入ることは滅多にない。シャワーで済ませてまとまった時間を夕方に確保したいためである。浴槽にお湯を溜めての入浴はガス代が嵩むので近年まったくしておらず、冬場でもシャワーで済ませる。ゆっくり湯船に浸かって温まりたいときはカッタの湯へ出かける。このとき必ず洗い流すトリートメント剤を携行して自宅ではできないトリートメントを念入りに行う。
・睡眠時間だけは常に注意を払っている。身体が睡眠を欲求するのは生理現象であり、逆らうと身体を壊す元であると認識しているため、常に寝たいだけ寝ている。睡眠は仕事以上に重要と考えている。しかし重要なイベントがあれば目覚まし無しでも所定の時刻前に起きることができる。眠くなったら寝るという生活なため、布団に入る時刻は零時前から午後1時半頃までとバラツキが多い。充分に寝たと感じた後で起きると、概ね睡眠時間が6時間半で足りることが判明した。冬場は明るくなる時間が遅いため少し睡眠時間も延びる。昼寝をすると夜の睡眠が阻碍されるからいっさいしない。
【 家事 】
・自宅に人を呼ぶことが殆どないので、作業場である居間はとり散らかしている。デスクの上は整然と片付いていることがなく、常に乱雑にモノが置かれている。邪魔だと感じることはあるが、作業の集中度合いには影響しない。概ね月曜日の朝にざっと掃除機をかけている。部屋の色調は白とピンクを基調に構成している。
食事の支度に時間を費やさない。何かを調理したり食べた後に片付けて皿を洗うなどの時間が惜しいので、常に出来合いのものを買って食べている。野菜や肉を(自分で育成し収穫するのではなく)お店で買って自宅で調理するのなら素材の外注であり、それらが調理された状態で提供される惣菜や弁当は食事品の外注だからどちらも同等と考える。他に時間を割きたい対象が沢山あるため、惣菜つき弁当を買って食べることに何ら抵抗がない。
・洗濯は常に入浴が終わってから行う。脱衣カゴにまとめておいて一定量溜まったら洗濯している。洗濯物は常に部屋干しで、アパート時代の後半から外に洗濯物を干さなくなった。紫外線で生地が傷む上に飛来する微粒子で汚染されることとなって洗濯の意味を成さないからである。不潔に思えるかも知れないが布団も殆ど干さない。ダニや雑菌まみれだとしても自分の身体に属するものなので特に頓着していない。
【 持ち物 】
・現代人の必須アイテムであるスマホを持っていない。このため外出すれば通話かショートメッセージ以外のやり取りはできない。自分としてはまったく不便を感じていないが、LINEのやり取りもできない(と言うかする積もりがまったくない)ためメンバーに多大な迷惑を掛けてしまっている。しかしアジトを離れてネットに接続できる環境があれば便利とは思うが、そのためだけに高い通信料を払う気がしない。現在は通話とショートメッセージのみが可能なガラケーを使っている。
・買い物などカジュアルな外出は別として、物件の画像採取で出かけるときはかならず首から宇部マニアックスのタグをぶら下げている。普通の人がまずカメラを構えることがない場所で撮影しているので、何か尋ねられたときすぐ分かるようにするためである。しかし実際にはこのタグよりも後ろ姿のポニーテールで特定されることが多い。
・視力の問題から眼鏡をかけている。学生時代までは視力は正常だったのだが、大学時代に一気に視力が落ちて眼鏡が要るようになった。これには大学生時代、世に出回り始めたマイコン(パーソナルコンピュータの前代的機器)に夢中になり、下宿の電気代を節約したいために部屋が暗いままで明るいディスプレーを凝視し続けた結果と思われる。家系に視力の悪い人間は誰も居ないので完全に後天的である。
自動車の運転免許を取得するときも当初から眼鏡が要件に入っていた。暫くは常時かけていたが、会社を辞めた頃からデスクワークのように近くを見るとき眼鏡が要らなくなった。近年は加齢からか眼鏡をかけたままだと近くのものが見づらい。これはスーパーの陳列棚の商品を見るとき顕著である。眼鏡をかけた自分自身の顔が好きではないため、写真を撮られるとき撮影まで時間的余裕があれば大抵眼鏡を外している。
【 ファッション 】
・服装には殆ど頓着しない。数年前、行きつけのお店でいつも同じ服装をして買い物している女性を見つけて当初は違和感を覚えていたが、後にライフハッカーの記事でも取り上げてあったことから、むしろ合理的であると考えるようになった。日々どれを着るか迷うほどの服をストックするのは保管場所とコスト、それから「何を着ようか」と不要な判断を行う余地を費やすので無駄である。近年はまったく新しい服を買わず、手元にあるものはくたびれているものはもちろん単純に着なくなった服も市民センターへ持参している。各センターはウエス材に転用するためにこういった服などを引き取っている。
・最終編集日を基準にして十年以上散髪に行っていない。髪を肩にかかる長さまで伸ばしている。毛先カットは行わず白髪染めのとき耳にかかる部分のみ切り揃えている。元から髪を伸ばしてみたい気持ちがあったが、ある些末なきっかけて定着した。髪を伸ばしている最大の理由は、散髪に係る時間とコストの節約である。女性化志向があるのではと思われることがあるが、長髪イコール女性のファッションという固定観念が依然強く、周囲からそのような目で見られることに同調した後付けである。接客を伴う業務に携わるととてもそうはいかないので、組織人からの離脱という象徴的意味合いはある。
・やりっ放しの長髪は不潔感を与えるので、毎日洗髪し念入りにヘアケアを行っている。髪は傷むが白髪が目立つのは美しくないので、月に一度くらい自分で白髪染めする。特にロケの前にはかならずチェックしている。シャンプーやコンディショナーは女性用を使っている。トリートメントはパンテーンとラサーナ(R)を使っている。この他に櫛通りを良くするためのオイルミストと紫外線対策効果のあるジェルを1本持っている。
・遺伝的理由により、実年齢に対して髪の分量が少ない。アジトに居るときヘアエクステンションを着けることがある。エクステは100円ショップで売られている。ただし一目見てすぐエクステンションと分かるため装着したまま外出することはない。
・身に着ける小物をはじめとした衣類は明るい色調のものを好む。淡いピンク色が特に好きなのだが、男性用衣類にそのような色がなくグレーや茶色といった暗い色ばかりなのを不満に思っている。このため帽子やカジュアルな衣類、パジャマはレディース向けを買って着用している。冬場の赤いマフラーはトレードマークとなっている。ただし肌着は通常のものを用いていて女性の服装嗜好を持っているわけではない。
・髪の分量が少ないため、常に帽子を被っている。身体の一部であるため部屋に入ったときも脱帽しない。一般には目上の人に挨拶するときは脱帽すべきなのだが、無様な自分を晒したくないためそれをしない。塾長の前でも(塾長は帽子を被らないにもかかわらず)脱帽していない。この件に関しては理解を頂いている。帽子は価格と色調で選ぶため、常に女性用を購入している。
・爪のネイルは気が向いたとき行っている。巡回家庭教師業を再開した一時期は自粛していたが、生徒に状況説明できた後からは平常通り行っている。見て頂くためのものなのでわざわざ目立つ色で塗っている。出会って話している女性がきれいなネイルをしていたら必ず言及している。相手を見て対応は変えるものの気軽に話ができそうな女性であれば「可愛いね」と言って差し上げている。近年は安いネイルは爪を傷めるしすぐ剥がれることから、無色透明のハードナーを塗っている。ネイルを塗る本来の理由は、服用している薬の副作用で爪(皮膚)が破れやすくなるのを防ぐためである。
・以上の傾向に呼応して、昭和時代のオヤジを想起させるステレオタイプとなるファッションや所作から呼称からすべてが嫌いである。具体的にはポマードをコッテリ塗って固めた髪や化粧品の匂い、ワイシャツ背広ネクタイの3点セットなど。それを他人がしているからと言って批判することは当然ないが、真夏の暑い時期にワイシャツ背広ネクタイでバシッと決めた積もりの部長らしき人物が、部下を引き連れてGメン歩きしているのを見ると、我慢大会やってるみたいで滑稽だなーと内心で笑い、次に可哀想な人たちだなーと同情する。ちなみにフォーマルな服装セットは(葬儀など必要な場合もあるので)持ってはいるが、着る機会が殆どなくアジトに置くと邪魔なので野山へ預けている。
【 飲食 】
・朝は概ねパン食で、昼と夕方は麺類かご飯類である。ただし一般的な社会人のように朝昼夕の食事を規則正しい時刻に摂ってはいない。時間に自由が利くので空腹を感じたときが食事の時間である。一日2食のことがしばしばあるし間食も多く、それを悪いこととも思っていない。重要なのは摂取する飲食物の栄養バランスとカロリーのみと考えている。
・健康に留意した食生活をまるでしていない。食べ物の好き嫌いが人数倍激しく、鶏肉や野菜など受け付けない食材が極めて多い。このため人と外食するときは殆ど決まってうどんかラーメンである。栄養バランスでは野菜が決定的に不足していると感じるが、厚労省が提唱している「一日に野菜を350g摂取せよ」は誤りと考えている。嫌いなものをコスト掛けて購入し食べるなどまるで無意味なので、好きなものだけを食べている。ただし糖類(特に砂糖)は明白に老化を促進するからできるだけ抑えている。
・強いて言えば主食では麺類を好み、総菜類では肉類よりも魚類を好む。学童の頃から刺身が大好物であったが、鮮度の落ちた刺身の摂食に伴うスコンブロイド中毒を何度も経験しているため、夏場は食べないようにしている。
・永らく摂取しなかったけれども栄養素などの有用性から克服して日常的に食べるようになった食材として、納豆とプチトマトがある。納豆は初めて摂取したときのことが日記に残されている。プチトマトは最も近年克服した素材で、食べ始めたのは2018年の秋口からである。低価格性と抗酸化作用の有用性を評価し、現在では切らさないようにストックし毎日食べている。


・逆に殆ど消費しなくなったものとしてインスタントの味噌汁がある。インスタントでも練りタイプの味噌なので抗酸化作用が期待できるが、その有用性よりも塩分摂取のデメリットとお椀を洗う手間が面倒で買わなくなった。抗酸化作用だけを期待するなら、別に味噌汁でなくても同等の効果を持つ食品が他にも沢山ある。
・一人での外食は贅沢な行為と認識しているので滅多にしない。行くとすればカレー、うどん、ラーメンであり、それぞれ何処に行くかも決まっている。行きつけの店で注文するメニューも常に同じである。殊にろくの家小串店では店員に覚えられていて、私が「いつもの」と言うだけで「六白ラーメン柔麺、替え玉1の柔麺ですね」と正しく復唱できた。これらの店は味については主観的評価なので人それぞれだが、食事環境や客への応対、納得のいく価格、注文してから提供されるまでの時間を重視している。個人的には空腹で家に帰るまで我慢するのが苦痛で外食するのだから、待たなければならないならどんな店でも諦めて退出する。混雑自体が嫌いなので、人の多い昼の時間帯は一人では始めから行かない。
【 嗜好品 】
・タバコはもちろん飲酒も基本的にやらない。タバコなど論外だし飲酒も忘年会など特別なシチュエーション以外では殆ど嗜まない。公然とタバコが販売されていて誰でも自由に買える状況は、国家レベルの犯罪放任とみなしている。飲酒についても危険性が過小評価されていると考えている。(→アルコール飲料と飲酒
・代わりに甘い乳飲料のような飲み物を好む。毎朝のパン食では常にスティックタイプのカフェオレをつける。少量のお湯で溶いて牛乳をドボドボと大量に加えている。牛乳は一週間に1000ml入り紙パックを最低2本は消費する。通常なら今の年齢では身体が受け付けない乳糖不耐症が出るのだが、習慣的に飲んでいるせいか今でもコップ一杯程度なら冷たい牛乳を飲んでも平気である。
・洋菓子やスナック菓子も好む。牛乳の味覚に毒されているので、甘くて香りの良い練乳系の菓子がたまらなく好きである。しかし前項のような砂糖の弊害を認識しているので、習慣的に摂取するのは止めて頻度を下げている。
【 収集品 】
・学童期から中学生まで切手収集をしていた。高校生になるとコストがかからない使用済み切手の消印研究に移行した。年月日のゾロ目などの記念証印も行っている。それらのコレクションは現在も押し入れに仕舞い込まれている。
・学童期から現在に至るまで現行貨幣の古い年号のものを収集している。いわゆるフデ五やギザ十と呼ばれるもので、お釣りなどで手元に入ったら常に貯金箱へ投入していて使ったことがない。十数年も前よりこれらの古い現行貨幣の流通量自体が極めて少なくなっている。殊に近年では買い物でもカード決済が一般化しているため、10円硬貨以下の貨幣を手にする機会自体が殆どない。
・500円硬貨を収集兼貯金代わりに集めている。過去に数回行っていたが、途中で幾度かまとまったお金が必要となったとき郵便局で預入している。最近(2020/3/6)に3度目の預入を行い現在ゼロ枚から4度目の収集を開始している。しかし2022年には郵便局で硬貨を預け入れるのに手数料を要するようになり、今後の集積を止めようかと考え始めている。学童期から溜め込んでいた1円玉・5円玉の類も今後は少しずつ消費する。
・変わった収集癖として、カップ麺の蓋を集めている。期間限定のパッケージがあれば収集しておいて永年経てば価値が出てくるかも知れないという思惑もある。「にんげんのGO!」レギュラー出演者であるハッセー氏は袋めんのパッケージを収集しているというので、強ち奇特な収集癖でもないだろうとカミングアウトした。この集積物は「にんげんのGO!」で紹介されている。
・紙箱に入った洋菓子(シルベーヌのような)のパッケージをカッターで切り取って収集していた時期もある。現在は殆ど行われていないが過去の収集物はそのままになっている。また、喫茶店や食事処で無料配布されているマッチも集めていたが、現在ではマッチそのものが身の回りに存在しない。
・ノートや便せんなど学生時代に文通していた時代に買い集めていたものが存在する。その殆どすべてが昭和50年代の製造でどれも既に市販されていない。デザイン性に薄いノート類は後年使っているが、未だに段ボール箱一つほどに未使用のものが詰まっている。
・収集と言うよりは性癖に近いが、踏査中に変わった形の石やシーブリックを見つけると拾って持ち帰るのが今も続いている。子どもの頃からの習慣で、親からは「石には魂が宿っているから軽々しく拾って持ち帰るものではない」と窘められていた。現在はまったく頓着することなく持ち帰っている。改めてカメラで撮影してそのまま倉庫へ仕舞っている。特に平面部分の多い石は石磨きで成形することもある。変わった形状や色調の石は多くの人の興味を呼ぶらしく、小羽山小のすくすく教室に持って行ったところほぼ全ての石が瞬く間に子どもたちの手に渡った。
《 プロフィールの時系列 》
最後に、当サイトでのプロフィール作成そのものの時系列をまとめる。

当サイトを設立した初期は記事数が少なく、収録記事を増やすことが第一目標にあったためプロフィールが存在していなかった。その後、どんな人物が作成しているのか情報が皆無では拙いと考え、プロフィールに相当する以下の記事を作成している。
補助ドキュメント: 私が考えていること
これは単純に考えを羅列したものであり、一般的とは言えず詳細が分かるプロフィールが必要と考えていた。初期はまったく一個人のコアなホームページに過ぎなかったのだが、後に宇部日報社サンデーうべのコラム執筆に始まり、山口ケーブルビジョン「にんげんのGO!」出演と少しずつ露出度が高まってきた。これを受けて、2021年入りしてすぐにプロフィール周りの記事整備を始めた。

作成方法はボトムアップ形式で行っている。特性を表しそうな項目を作成して思いつつままを書き溜めておき、後からこのプロフィール総括よりリンクで参照している。この手順は時系列記事を作成しておいて当該物件の総括記事から呼び出す方式や、素材の項目を記述しておいてその上位にあたる物件からリンクで呼び出す手法と同一である。

人間は生物(なまもの)であるので、その時々によって考え方や大事なものが少しずつ変わっていく。covid19 のような社会にパラダイムシフトをもたらす事象が起きると、その変化もときに不連続と言えるほど変化し得る。記述されているプロフィール項目の近似性は、その項目の最終編集日と読者が当該項目を目にしたときとの時間差に依存する。
出典および編集追記:

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