写真は正面やや右からの本殿の撮影。
位置図を示す。
市街部にあるもっとも著名で古くから親しまれている神社で、その成り立ちからしばしば今でも水神様と呼ばれる。中津瀬神社は公式サイト

《 鳥居 》
常盤通りに面した鳥居。大正十年七月一日建立で、右側の柱には東新川埋築竣功紀念と刻まれている。
新天町アーケード側の鳥居。
昭和十二年七月吉日。
本殿前にある二の鳥居。
常盤通りや直交する通りに沿って整った区画に建てられていることから分かるように、これらの鳥居は最初期の中津瀬神社オリジナルのものではない。はじめは現在のヒストリア宇部付近にあり、明治44年に東へ移転した後に宇部大空襲で被災した後で再整備されている。
《 境内にある史跡 》
境内には紀年碑を含めていくつもの史跡が置かれている。それらの多くが設置や移動時期が分かっているが、一部に時期不明なものが含まれる。【 新川疏通壱百年紀年碑 】
常盤通り側の参道口に後述する御大典記念拝殿改築之碑と並んで設置されている。本殿が近接して据えられているため文字が刻まれている面を撮影するのは甚だ困難である。
【 御大典記念拝殿改築之碑 】
緑色の石材に刻みつけられている。上部が一部欠けているのは、宇部大空襲などの被災で倒れたのが原因かも知れない。
表面の左下に勲三等渡邊祐策の文字がみえる。
表の文字も渡邊祐策翁自身の揮毫である。[1]
裏側に中津瀬神社の由来が漢文で記されている。昭和五年五月五日設立で、漢文の筆記は紀藤織文に依る。
(樹木が生い茂った狭い場所に設置されていて撮影は非常に困難)
些か不可解なのは、この紀年碑の台座部分に時代考証的に矛盾する文言が刻まれていることである。
この内容を解釈すれば「(表側の御大典紀年碑と刻まれている)渡邊祐策翁による揮毫のこの石碑は中津瀬神社の境内にあるが(祐策翁ゆかりの地である松濤園があった)松濤神社へ遷す」ような内容である。末尾の昭和30年は松濤神社創建の年なので、御大典紀年碑をこの台座に据え付けて移転しようとしたように思える。
しかし同じ台座の側面や裏側には、松濤神社創建の昭和30年よりずっと古い人物や会社名と寄進額が刻まれているのである。
(周囲が狭い上に暗く地面すれすれの位置に刻まれているため撮影は非常に困難)
昭和30年には渡辺翁も林仙輔も既にこの世に居ないので、表にある松濤神社に関する記述とは年代的に合わない。この台座を制作した時点で判明していた個人や会社の寄進情報を後付け的に刻んだ可能性が高い。他方、周辺に刻まれた寄進金額には上部の文字が削れているものも散見され(接写画像)元からあった別の寄進者一覧の石碑を台座に転用して石碑を嵌め込むとき、中央と周囲を削って昭和30年に表側の文言を追加して刻んだ可能性もある。
【 御神水 】
御大典紀年碑などと参道を挟んで正対した場所にある。龍の口から常時水が流れ出ていて、その場で飲むための柄杓と持参したペットボトルなどに詰めやすくするための漏斗が置かれている。現在は約7m地下の水をポンプで汲み上げている。常温で飲用可能な水質であることが検査で確かめられており、水質検査表が掲示されている。井戸水ではあっても外観は昔ながらの開口状態にある井戸とは些か異なる。中津瀬神社がここへ移転した当時にどのような井戸があったかはまだ調べられていない。
あまり知られていないが、境内の二ノ鳥居がある近くのレンガ塀に設置されているのも同じ水である。
龍の口の水は水量が調整されているためボトルに汲む場合は暫く待たなければならないが、こちらの井戸水は蛇口があって捻るとポンプが稼働するため短時間で汲み揚げることができる。水道水と間違われやすいためかあまり利用されていないので、今後小綺麗な水汲み場として改装する計画がある。
最初期の中津瀬神社が新川東岸に面して存在していたとき、移転後も井戸だけは昭和中期まで遺っていたとされる。この説明板が今もヒストリア宇部と常盤通りの歩道との間に殆ど読み取れない状態で設置されている。
この標識柱は便宜上設置されたものであり、井戸があった正確な位置を反映していないことに注意を要する。実際の井戸は山口銀行宇部支店の建物を改修したときに工事エリアにかかるため撤去されたと報告されている。
(ただし井戸のあった場所の位置情報すら遺さず埋め潰すことは考え難く疑義が差し挟まれている)
【 ライオン像 】
本殿前の両側に鎮座している一対のライオン像。阿形のライオン像。
口の中に玉を携えている。
この像は部分的に黒ずんでいる。これは戦時の宇部大空襲で投下された焼夷弾のナパーム成分が付着したものと聞いている。[2]
向かって左側にある吽形のライオン像。
このライオン像の台座部分側面に彫刻師の名が刻まれている。(拡大画像)
神社の境内にみられるこの像は狛犬や獅子とされることが多いが、ライオン像と記した所以である。郷土史研究家の間ではよく知られているように、この一対のライオン像は旧新川橋の下流にある錦橋を架け替えたとき親柱として据えられていた4基のうちの2基である。もう2基は西新川エリアの松濤神社に遷されている。
台座部分にライオンと明記されており、彫刻者に米友と刻まれている。これは米野友吉のことであろう。同じ名前が白岩公園の八丁岩に刻まれている。
【 産霊社 】
本殿の向かって左側にある。やや風化の進んだ霜降山系の岩のように見える。この近辺からでも出土しそうに思えるが、今のところ別の場所から持ち込まれたものと聞いている。
【 道開きの神 】
いわゆる庚申塔で、中津瀬神社では道開きの神として祀られている。御影石と同等の色調をもつ花崗岩に刻まれている。他地区にも同様にみられる庚申講の記念に作られたと思われるが、背面を確認できないため制作時期は不明。明白に別の場所から搬入されたものだろう。庚申信仰が否定されてから庚申塔は廃棄されたものが多く、市街部に保存されているものは珍しい。
【 石灯籠 】
新天町アーケード側の鳥居と二の鳥居の間にある。昭和12年8月に宇部商工會による寄進。この一対の石灯籠は、最初期に中津瀬神社があった旧新川橋東岸側エリアに移転する計画があり、現在も協議中である。
【 市制紀年碑 】
宇部市制施行の大正期のもので、新天町アーケード側の鳥居の下に据えられている。台座の側面に寄付者の名前と金額が刻まれている。
筆頭格に炭鉱の坑木需要を見込んで名を成した上田孫市[3]の名前が見えている。上田孫市は錦橋の架橋でも貢献があり、常盤池の畔にひさご亭を開いていた。同様に常盤池の畔に土地を購入し料亭を営んでいた木下芳太郎の名前もある。市制施行の時期に活躍していた郷土人が分かる歴史的資料と言える。
後述する昭和51年の映像記録では、市制紀年碑が御神水の近くに写っている。いつ頃現在の位置に移動されたのかは調査を要する。
《 主要なイベント 》
春季と秋季に例祭があり、これは新川市まつりと宇部まつりに対応する。知名度としては節分祭の豆茶接待と福飴のくじ引きが高く、例祭以外ではもっとも来訪者が多いイベントと言える。記述内容が多くなったので別記事に分割した。詳細は項目に設置されたリンク先を参照。《 中津瀬という名称について 》
名称である中津瀬の由来は分からない。[4]津は海を、瀬は浅い場所を表しており、遠浅のこの辺りの海岸地形か掘削した新川周辺を表しているのは疑いない。言語学的には中津瀬の「つ」は、現代の「の」にも通じる。「沖の方に見える〜」は、古語で「沖ツ方ニ見ユル〜」のように表現される。これを踏襲すれば「沖の方に見える瀬」のようにも思える。中津瀬神社の神紋。漢字の中の字を中心とし、周囲に五穀豊穣をイメージした稲穂が描かれている。
中津瀬という名の地名は、少なくとも市内には存在しない。同名の神社もない。むしろ前述のように現在でも水神様と呼ばれることが多い。昭和初期の宇部市街図を参照すると、最初期に中津瀬神社があった辺りに水~町という町名がみられる。
現在、神社がある場所(記号が記載されている)の宮地町という名称も中津瀬神社由来の町名であろう。
(現在宮地町と言えば出雲大社宇部支部の周辺を指す)
《 近年の変化 》
捕捉している範囲で年代順に記述している。【 2021年 】
・8月から11月にかけて中津瀬神社の西側の道(市道東本町寿町線)のバリアフリー工事で、車道と歩道の段差が解消された。写真は工事初期の8月の撮影。
この過程で歩道にあった高木がすべて伐採され、車道と歩道の間にあった歩車道境界ブロックがなくなり円形側溝が埋設されることで段差が数センチとなった。
【 2023年 】
・11月14日に中津瀬神社総代会長および関係者を含む新川歴史研究会のメンバーで市都市計画課を訪ね、現在進められている常盤通りのウォーカブルな街造りに即して中津瀬神社と最初期に神社が存在していた旧新川橋下流側東岸エリアの歴史的整備の提言を行った。写真はメンバーが落ち合う場所としていた市役所2階ロビー。
中津瀬神社前もウォーカブル化のエリアとして含められてはいたが、歴史を感じる場所とするには訴求力に弱く、新川歴史研究会側で作成したプランを提示していた。しかし市関係者の反応は鈍く、提示した資料や説明にそれほど関心をもって聞かれた感じがない。ただし宇部マニアックスが提示した新川橋の親柱の現物写真を提示したとき、その場に居合わせる市担当者の反応がちょっと違っていたことは特筆に値する。
【 2024年 】
・5月19日開催の新川歴史研究会の定例会で、昭和51年に百七十五年祭として本殿の屋根を取り替える工事を行ったときのビデオが公開された。この8ミリビデオは以前から存在が知られていたが、再生するのに専用の機器を必要とするなど手間がかかるため、上映している画像をデジタル動画で採取しDVDに焼き付けることで実現している。この映像で、百七十五年祭を執り行ったとき御輿をトラックに積んで市内数ヶ所を行幸していたことが判明した。このとき立ち寄った場所は松濤神社、宇部興産本社前、東新川駅前、岬住吉神社だった。
・同年9月の新川歴史研究会で、11月の宇部祭りに中津瀬神社境内へ新川歴史研究会の出店を行うことが提案された。宇部祭りでは2日の午前に神事が執り行われるが、3日は何も使われず空いているため中津瀬神社の歴史的背景などを展示するスペースに相応しい。10月の定例会で総代会長および宮司の承諾を得て祭りに使用する幟を発注した。
・同年10月31日に神事のためのテント設営を行い、3日に使用する展示物のとりまとめ作業を始めた。テントは2日の神事で使用し、そのまま3日の宇部祭りで新川歴史研究会の展示および販売スペースとした。
写真はテント設営時の様子。
2日は台風襲来で大荒れの天気が予想されていたが、直前に勢力が減弱して当日までに熱帯低気圧となった。これに伴う雨はあったものの2日の午前中までに概ねおさまり、神事はそれほど影響はなかったようである。3日は快晴で半袖でなければ暑い位の天気となり、水神うどんを食べるテントの外側に設置したモノクロ映像のパネル展示が多くの来訪者が眺めていた。ただしウベマニアテントの設営は改善点が多く来年開催時の課題となった。
《 個人的関わり 》
現在ではいろいろな面において宇部護国神社との関わりがあるが、いずれも近年のことである。以下、時系列に沿って記述する。![]() | 以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。 |
《 関連記事リンク 》
出典および編集追記:
1.「随筆渡邊祐策翁」(弓削達勝)p.120
2. 前代丸茂宮司による説明。油成分が染み込んで何年経っても取れないという。Vol.1「真締川の新川掘削」を書き始めた初期に中津瀬神社を訪れて聞いた話だった。表面の黒ずんでいるサンプルを微量採取して成分を分析すれば解析可能かも知れない。
3. 一部の資料で名前を「上田孫一」としているものがある。例えば渡辺翁記念会館2階ロビーに置かれているスタインウェイのピアノの寄贈者名としては上田孫一と書かれている。寄贈時の記載ではなく、後年の誤記の可能性もある。
4. 同じく丸茂宮司に尋ねたときの回答。このとき「沖や川の中にある瀬」仮説を話してみたが、そういう訳ではないとのことだった。
1.「随筆渡邊祐策翁」(弓削達勝)p.120
2. 前代丸茂宮司による説明。油成分が染み込んで何年経っても取れないという。Vol.1「真締川の新川掘削」を書き始めた初期に中津瀬神社を訪れて聞いた話だった。表面の黒ずんでいるサンプルを微量採取して成分を分析すれば解析可能かも知れない。
3. 一部の資料で名前を「上田孫一」としているものがある。例えば渡辺翁記念会館2階ロビーに置かれているスタインウェイのピアノの寄贈者名としては上田孫一と書かれている。寄贈時の記載ではなく、後年の誤記の可能性もある。
4. 同じく丸茂宮司に尋ねたときの回答。このとき「沖や川の中にある瀬」仮説を話してみたが、そういう訳ではないとのことだった。