蛇瀬池【旧版】

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記事作成日:2012/12/24
最終編集日:2021/6/26
情報この総括記事は内容が古くなったので旧版に降格されました。現在の総括記事は こちら をご覧下さい。旧版は互換性維持のために残していますが、編集追記されず将来的に削除します。

蛇瀬(じゃぜ)池は小羽山地区にある人工の溜め池である。
写真は小羽山市営住宅7号棟からの標準水位時での撮影。


位置を以下の地図に示す。


等高線で示される通り、蛇瀬池の流入部分は比較的平坦な台地状でありながら、本土手付近は両岸が急峻な山あいになっている。北小羽山・東小羽山ともにニュータウン整備時に山野を削っているので、かつてはもっと高低差があったと思われる。
鵜の島方面に近い灌漑用水の供給源としては二反田堤もあるが、流入する水量が少ないため湛水量も限られている。この地の適合性を見抜いて人工の溜め池を造ることを考えた俊平公は大いに先見の明があったと言うことができよう。

蛇瀬池の水は北側にある馬の背下池より蛇瀬川を経て供給される。池の南側からは半島状に突き出た部分があり、半島部より北西側は蛇瀬川から運ばれる砂塵のため極めて浅い。水位が下がればその大半が干潟状になる。

蛇瀬池は北小羽山と東小羽山の間に位置し、広く深い沢によって分断されている。
殆どの地形が著しく改変された中で、蛇瀬池は今も地域の灌漑用水供給と重要な史実を伝える証人という役割を担っている。
かつて市道小羽山中央線沿いの何処かに蛇瀬池の歴史を詳細に記録した由来板が設置されていた。
この由来板は十年以上前に撤去されており存在しない…撤去された理由は現在なお不明


説明されている通り、蛇瀬池は常盤池のプロトタイプであり、ここでの技術や経験が常盤池の築造に生かされている。構造上の共通点や改良点が至る所に見受けられ、更に時代が下った女夫岩池にも同様の構造がみられる。
【 記事公開後の変化 】
2021年6月の新川郷土史研究会の会合で、由来板にある「蛇瀬池築堤の知見を元に常盤堤を築造した」という部分は誤りであることが、客観資料の提示により判明した。時系列として常盤堤の築堤が先であり、蛇瀬池の築堤はそれよりも後である。地下上申絵図には常盤堤が描かれていながら蛇瀬池が描かれず「じゃで田」となっているため、以前から疑義が差し挟まれていた。

由来板がかなり早い時期に撤去されたのは、この記述部分が原因かも知れない。詳細は新しい総括記事の記述を参照。
《 アクセス 》
小羽山に街が造られるまでは、蛇瀬池は蛇瀬川が刻む谷地を遡行することでしか到達できない山あいの溜め池だったと思われる。
ニュータウン開発整備は昭和50年代中盤までに完了し、宅地の分譲や市営・県営・雇用促進住宅群の入居も始まった。深い谷地には蛇瀬橋が架けられ、双方地区からの行き来が容易になった。このため蛇瀬池の本土手側のアクセスは極めて容易になったものの、時代の流れで灌漑用水需要が低減した現在にあっては蛇瀬池の存在自体がかなり薄れてしまった感がある。

蛇瀬池の流入口となる池の北部からも接近可能であるが、池を周回する通行可能な道は存在しない。
常盤用水路の管理道を伝って途中までは歩けるが架樋区間は通行不能
とりわけ池の南岸は汀まで原生林や民家の私有地で占められている部分が多い。また、子育て世帯が多く居住する小羽山市営団地や住宅地が近いため、フェンスで囲まれ汀に降りられない場所が多い。特に北部の干潟付近は有刺鉄線付きネットフェンスになっている。
《 概要 》
小羽山郵便局の横からフェンス門扉の先に進むと、本土手に向かって若干下る。


その先に樋門改築記念の石碑と樋門小屋を見ることができる。


樋門小屋および斜樋については以下の記事に詳しい。
派生記事: 蛇瀬池・樋門
樋門改築記念の石碑付近には、かつてこのような小羽山名勝 夫婦松の案内柱が立てかけてあった。
しかし肝心の夫婦松が枯れて伐採されてしまった後は案内柱も用がなくなり、根元が折れたままあちこちに転がされている。[4]
このような扱いなので最終的には標識柱も廃棄処分されるだろう


樋門小屋から先が本土手で、蛇瀬川を堰き止めて人工溜め池とする要の部分である。


本土手は当然ながら以前は深い谷で、遙か昔に土を盛った人工の部分なのだが、築堤後数百年を経て原生林が埋め尽くした今では元から地山だったように見える。
ここから右下へ降りていく道を辿ることによって市道の蛇瀬橋の下をくぐり蛇瀬池の出水口を確認できる。即ち現在の蛇瀬池は本土手に設置された樋門小屋から水量調節しつつ、本土手内部を通された暗渠によって放流されている。
派生記事: 蛇瀬池・出水口
この場所から蛇瀬池全体をパノラマ動画撮影してみた。
[再生時間: 24秒]


水位が下がると、北小羽山市営住宅7号棟寄りの半島先にこのような島が現れる。
先の航空映像で確認される通り、更に水位が下がればこの島は北小羽山地区側の半島と合わせて陸繋島になることが知られている。


通常は人間を含めて空を飛べない野生生物が近寄れない聖域なので、野鳥がよく羽根を休めている。
この島へ歩いて上陸できる程度に水位が下がることは極めて稀である。
派生記事: 蛇瀬池・陸繋島
本土手の上には、かつて使われていた樋門の一部がベンチ代わりのように置かれている。


本土手の余水吐寄りにはこのような古い歩車道境界ブロックが置かれている。
ベンチ代わりだろうか…春先から夏場は下草に埋もれて見えなくなる。


一連の樋門ベンチおよび境界ブロックの腰掛けについてまとめて以下の記事に掲載した。
派生記事: 蛇瀬池・腰掛けベンチ
本土手を道なりに進むと、余水吐から出る水路を跨ぐ古めかしい石橋に出会う。
花崗岩を荒削りして載せただけのシンプルな石橋で、日本庭園のような趣がある。橋の名前は元よりいつ頃架けられたのかも分かっていない。[5]


蛇瀬池が満水時のとき更に水位が上昇した場合のために余水吐が設置されており、石橋はそのすぐ下流部に架かっている。余水吐は東小羽山側の土手にあり、コンクリートで補強されているものの出水の調整機能はない。
余水吐とその下流に架かる石橋に関してはこちらを参照されたい。
派生記事: 蛇瀬池・余水吐と石橋
越流した余剰水はそのまま荒削りの荒手を流れ落ちる。しかし通常は本土手に設置された樋門を通じて河川維持量を含めて蛇瀬川に放流されている。この機構は常盤池の本土手樋門に継承されている。

石橋を渡った先の小道は一つの重要な用水路に突き当たる。お馴染みの常盤用水路である。
市道小羽山中央線の蛇瀬橋は、常盤用水路部分も合わせて跨いでいる。
ここから直接市道に戻ることはできない


常盤用水路は蛇瀬池の畔をなぞるように流れており、途中には蛇瀬池側に給水する余水吐も設けられている。
ただし現在は恐らく使われていない模様

常盤用水路に沿った管理道を歩けば、蛇瀬池の北側半分を眺めることはできる。しかし周回できないので散歩道として一般人が訪れることは殆どない。東小羽山の住宅地へ抜ける階段はある模様だが、基本的に来た道をそのまま引き返すことになる。

このように蛇瀬池自体は親水公園としての要素はまったくないと言っていい。現状では蛇瀬池の概要を伝える説明板がなく、水飲み場やトイレなども設置されていない。本土手を通る昔の道は散歩で訪れる人があり、草刈りはされているものの一般にはおどろおどろしい溜め池という印象を持たれてしまうかも知れない。
ニュータウン造成以前は、蛇瀬池は子供たちの格好の水遊び場だった。かつて冬季など池の水を落としたときには鯉や鮒が捕れていたが、開発後の水質悪化が著しく堆積する汚泥で泥臭くなり食されなくなった[3]という。もっとも小羽山ニュータウンが整備されたのが昭和40年代後半あたりのことであり、当時は小羽山地区に限らず高度経済成長の流れに乗った産業の振興と居住空間の拡大が最優先課題だった。蛇瀬池も灌漑用水の確保という任務の遂行が第一で、周囲を散策して寛げる環境を整えるなど直接的な経済活動に関与しない部分が軽視されがちだったのも強ち批判はできない。

蛇瀬池の本土手より下流側の沢地は田畑で、万一の事態があれば影響を受ける民家が多いため市の溜め池ハザードマップで影響範囲や避難場所が指定されている。[6]
《 通常水位時 》
本土手より北小羽山側を撮影。
市営住宅の棟からは近いものの、汀まで原生林が生い茂っていて接近はできない。


本土手より上流部を撮影。
写真では上流部で左に湾曲している。


流入口に向かって撮影。
正面に見える入り江の向かって右側から馬の背堤からの水が流入している。


上流部まで住宅地になっているが、現在は家庭排水が流れ込むことはないので水質は悪くない。しかし透明度は極めて低く常に薄緑色を呈している。
水深は公表されていないので明らかではないが、本土手の樋門付近が最も深く、上流から運ばれた土砂の影響で標準水位でも10mもないだろうか。
《 低水位時の汀 》
後年の改定によって蛇瀬池の貯水量は江戸期よりも増やされた。しかし後輩分の常盤池に比べて規模が極めて小さく、流入する水系も殆ど蛇瀬川だけなので、少雨が永く続いたり、灌漑用水非需要期の冬場には蛇瀬池の水位がかなり下がる。常盤用水路で給水可能な常盤池と異なり、蛇瀬池は上流からの自然流入頼みなので低水位状態が長く続く傾向がある。半面、ひとたび雨が降れば水位の上昇は極めて早い。
以下は低水位時の汀の様子である。

東小羽山側の汀。一定の勾配をもつ自然の岩が目立つ。
あるいは蛇瀬池築造にあたって削ったのだろうか…
たまたま節理がその方向に走っていただけだろう


本土手より東小羽山側を撮影している。この部分は蛇瀬池以前は何もなく深い谷地だった筈だ。
割石をやや緩い勾配で積んでおり、後世による補強だろう。


北小羽山側の汀。こちら側は市営住宅7棟付近の雨水流下がある部分がコンクリート護岸になっているのを除き、殆どが自然の汀である。
低水位になるとかつて使われていた花崗岩製の樋管が現れる。
通常水位では殆どが水没する


北小羽山側にある原生林の真下で、この場所は低水位時でなければ接近できない。
半島部分の先端は池に張り出した砂溜まりで、更に水位が下がればこの半島部分が前方の島と陸続きになる。


蛇瀬池の北側で最上流部にあたる。
蛇瀬川が運ぶ土砂で埋められ、低水位時には広範囲に干潟が現れる。


この干潟部分を小羽山市営住宅駐車場から見おろしている。
画面左側が蛇瀬川の上流にあたり、中山方面からの水を供給している。


蛇瀬池は仕事でよく訪れる小羽山地区にあるので、常盤用水路の踏査も兼ねて頻繁に踏査されている。
水位の高いときは池としての眺めを鑑賞し、低水位時には池底の地形がよく分かるので汀踏査が何度も行われている。しかし現在のところ低水位時でも汀に昔の面影を偲ばせる構造物などは花崗岩製の樋管以外何も見つけられていない。

常盤池はかつて常盤原と呼ばれる地に人々が暮らし、湛水によって居住地を移転することとなった農民が相当あったことが知られている。蛇瀬池以前に同様な問題があったかどうかは分かっていない。
出典および編集追記:

1.「ときわ公園物語」に蛇瀬池の名前に関するそのような下りがある。これは水を司るミツハノメ(罔象女)のことである。

2. 稀に入口の門扉が閉鎖され入れなくなっている場合がある。2012年4月頃には子どものいたずらと思われる火遊びで火災が発生し、その後門扉が施錠され、市の指示により立入禁止になっていた。この制限は6月まで続いていた。

3.「小羽山付近の史跡と伝承」小羽山まちづくりサークル作成小冊子 p.1

4. かつては夫婦松と呼ばれる絡み合った二本の松が植わっていたが、マツクイムシの被害で枯れてしまい切り倒された。(東小羽山地区住民の談話による)

5. 呼称としてはそのまま蛇瀬橋と呼ばれている。この道は小羽山ニュータウン造成以前は西山や高嶺方面へ抜ける古道の一部だった。古道が常盤用水路にぶつかる場所には、用水路の上にコンクリート床板が架けられている。これは里道の痕跡と考えられる。これより先は東小羽山側の造成で地形自体が改変され喪われている。

6.「宇部市ため池ハザードマップ

7. 現在は看板にある「小羽山校区ふるさと運動推進委員会」そのものが存在せず看板の行方も撤去された理由も未だ分かっていない。「FB|2015/3/17の投稿」参照。

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